46 ニコラスの帰国
マリアンヌの次男ニコラスは、一年間の旅を終えて帰国の途に就いていた。
「もう旅も終わりか。寂しいよ。君たちもそう思うだろう?」
ニコラスがそう尋ねると、四人の護衛たちは返事に困っている。
「私は……ロマーン王国が懐かしいです」
「私もです。公爵家の皆様にお会いしたいです」
「私は実家の妹に会いたいです」
「ロマーン王国はいい国だと再確認する旅でした」
確かに、とニコラスも思う。一か所に長く腰を落ち着けることなく、移動を続ける旅だった。人々の暮らしぶり、耕作地の様子、王都の様子を眺めながら過ごした一年間は、もうすぐ終わる。
ロマーン王国は比較的農業も工業も満遍なく栄えているが、他の国はいろいろだった。
小麦を中心とした農業が盛んな国、果樹栽培と牧畜が盛んな国、塩と海産物が豊かな国。最後に訪問した北の隣国ホランドは、工業が盛んな国だ。
長旅を経験して実感したのは、ロマーン王国の豊かな経済と平和。本では知っていた。家庭教師からも聞いていた。
(だけど、国から抜け出して他国をこの目で見て、初めて実感できることってあるもんだな)とニコラスは思う。
ニコラスは旅の途中で十四歳になった。
いかつい護衛四人に祝われた田舎町の宿の夜のことは、いい思い出だ。
「それにしても公爵様ご夫妻は、よくこの旅をお許しになりましたよね。我々四人が護衛についていると言っても、大規模な野盗の集団に囲まれたらどうなるかわからないのに」
「そうだね。でも母上はきっと、遊学に反対して僕を閉じ込めておいたら、いい結果を招かないと思ったんだと思う。なにしろ、母上ご自身が思いついたら止まらない人だから」
「たしかに」
「誰も奥様を止められませんからね」
皆で苦笑しながら食堂の昼食を食べ終えた。
ここはホランド王国とロマーン王国の国境近く。寂れた田舎町だ。ニコラスを交えた五人はのんびりと歩きながら、田舎町の小さな集会所の脇を通り抜けようとした。そこでニコラスたちは、一台の上等な造りの馬車が集会所の脇に停められていることに気づいた。
「上等な馬車だね」
「そうですね。貴族の馬車でしょうか。しかし、家紋がついていませんね」
そう言いながら横目で見ていると、集会所から子供たちがわらわらと出てきた。その子供たちの後ろから、ズボンにシャツという服装の少女が「待って」と笑いながら現れた。
「あれ? あの人って」
記憶の中の人物よりかなり背が高いが、赤みの強い髪、整った顔立ちはホランド王国のランバルド侯爵家の娘、アンネガルドだ。
身長だけでなく全体の雰囲気も記憶とは違っている。
前回は兄のハロルドとの顔合わせという非公式なお見合いの席だったから、彼女は着飾っていた上に、「ロマーン公爵家と縁を結ばなくては」と十歳の少女ながら必死だった。
だが今、視線の先にいるのは、お化粧もせず、汚れても気にしないで済むようなあっさりした服装。髪も結っていない。一番変わったのは表情だ。侯爵家のご令嬢にしては大きく口を開けて楽しそうに笑っている。
「へえ、一年でずいぶん変わったんだな」
そんなニコラスの視線に気づいたアンネガルドが、こちらを見た。そして(あら?)という表情から(もしかして⁉)という表情になり、(やっぱりそうよね?)と確信した表情へとコロコロ顔が変わる。ニコラスは思わず「ふふっ」と笑って右手を上げた。
「やあ、アンネガルド嬢、久しぶりですね」
「ニコラス様? ニコラス様ではございませんかっ! どうしてここに?」
「長旅の帰りなんだ。これから国に帰るところだよ」
そろりそろりと近寄ってきたアンネガルドが、手を伸ばしても届かない微妙な場所で足を止める。
「君こそここで何をしているの?」
「わたくしはこの地区の子供たちのために本の寄贈と読み聞かせをしておりました。これから近くの野原で花冠を作ろうかと……」
「へえ。そうか。忙しいところを邪魔したね。では僕たちは出発するよ。よかったら、また我が家に遊びにおいでよ」
「遊びに……は、はい。喜んで。お声がけいただき、ありがとうございます」
アンネガルドは優雅にお辞儀をして笑顔になった。
ニコラス達は手を振って別れ、国境の関門に向かう。
アンネガルドはニコラスたちを見送り、先に出て行った子供たちに追いついた。ぼんやりした顔で子供たちのいる草むらに行くと、女の子が不思議そうな顔でアンネガルドを見上げる。
「アンネガルド様、どうしたんですか?」
「もうお会いできないと思っていた方に、会えたの」
「その人と一緒に遊ばないの?」
「一緒には遊ばないわ。残念だけど」
「ふうん」
アンネガルドは、あの日のことを胸の痛みとともに思い出していた。
活発な公爵家の三兄妹。みんな頭が良くて運動ができて、自分とは住んでいる世界が違うのかと思うくらいのびのびと生活を楽しんでいた。
一目惚れしたニコラスには、遠回しに「僕が一緒に人生を歩むのは君じゃない」と伝えられた。
それ以降、アンネガルドは自分を見つめ直す日々を過ごしてきた。
誰かに婚約者として選んでもらうことを待つのではなく、まずは自分を磨いて鍛えて、自分で誰かを選ぼう、その人と同じ景色を見て笑える大人になろうと決めていた。
アンネガルドは真面目だったし、その年齢にしてはとても早熟な思考の持ち主だった。当時は侯爵家の娘として、早く有望な婚約者を見つけなければと意気込んでいた。
今はあの頃が嘘のように、婚約を焦る気持ちがない。
そんな時に家庭教師の男爵夫人から、夫人の実家の地方では今でも本がとても貴重で、子供たちの大半は文字の読み書きができないと聞いた。
それ以来、月に一度の割合でここまで出かけてきている。
父には「そこだけを優遇したところで、砂漠にコップ一杯の水を垂らすようなものだろう?」と言われたが、「それでもいいのです」と即答した。
「コップ一杯の水がただ無駄になるか、その水で小さな木が一本でも育つかどうかを確かめることにも意味はございます」
「そうか。では好きなようにやりなさい。お前の裁量で使える資金を用意しよう。ただ、その資金も民から集めた税であることを忘れないように」
「ありがとうございます、お父様」
それから一年。その集会所に来る子供たちは、自分の名前を読み書きできるようになった。今は、簡単な本なら全員が読める。この先は、読み書きの力をつけたいと思う子と、これで十分と思う子に分かれていくだろう。アンネガルドは(それでいい)と思っている。
「それにしても、ニコラス様は背がお高くなって、いっそう魅力的になられていた」
そこまで考えてブルブルと首を振る。
「未練がましい。私は私。ニコラス様とのご縁はなかったけれど、『逃がした魚は大きかった』と思われるぐらい成長してみせるんだから。女の子としても、人間としても、大きく、強く」
アンネガルドは黙々と野の花を摘んだ。花を束にして茎をねじりながらつなげて輪を作り、そこにどんどん他の花を差し込んでいく。やがて、白、黄色、ピンクの花で作った冠が完成した。
マリアンヌ一家に気に入られようとして縮こまっていた、以前の少女の姿はない。自然な笑顔の、年相応の愛らしさにあふれた美少女が、そこにいた。
その頃、国境に向かって歩いていた五人は、公爵家に戻ったら何がしたいかを語り合っていた。
若い護衛たちはみな独身だったのもあり、考えることは似ていた。
「酒ですね。ロマーン王国の酒はどれも旨いですから」
「私はマリアンヌ様にお会いしたいです。奥様の笑顔を見ていると、なんかこう、元気が湧くんですよね」
「あ、それは私もです」
「なるほど。父上は母上に比べると影が薄いんだね?」
「ニコラス様、違いますよ。意地の悪いことを言わないでくださいよ」
ニコラスは笑った。
「わかってるよ。母上は太陽のような人だけど、父上は大木のようなお方だ。僕は母上に似ているとよく言われるけれど、父上のような人に憧れている。それと、僕は本を読みたい。訪問先で買って家に送った本、無事に届いているといいな」
護衛の男たちは(さすがは天才少年。俺たちとは違う)と感心している。
五人はその日のうちに国境を越え、ロマーン王国に入った。





