13/05/01(3) 横浜喫煙室:あなたがデブ専のシノさんですか
「これなら食べていいぞ」
観音が差し出してきたダイエットクッキーをつまみ、ポリポリする。
案外、普通のクッキーと同じ味だ。
「観音さんは連休利用して広島には帰らないんですか」
「三日から帰るよ。先に弟が帰省してるから現在は久々の独り暮らしを満喫してる」
「ああ、そういうゴールデンウィークもいいですね」
俺も妹と住む身だからよくわかる。いくら家族と言えど、たまには独りでゆっくり過ごす時間が欲しいもの。皆実も帰省してくれればいいのに。
「弥生はどうするんだよ」
「家に篭もってネトゲ三昧の予定です」
「それは……」
三人が一斉に哀れみの視線を寄越してきた。
でも、大きなお世話だ。俺にしてみれば朝から晩まで存分にマッシュできるから幸せなんだよ。そして、その邪魔をするのが皆実。遊びに連れてって、とうるさいこと。
シノが妙に優し気な口調で説き伏せてくる。
「ねえ弥生、みんなでネズミーランド行こうよ。引き籠もるゴールデンウィークよりマシでしょ」
「人混みが嫌いなんだよ。行列に並んでアトラクションとか愚の骨頂。俺はこれまでの人生で一度もネズミーランドに行った事はないし、これからも行く気はない」
「弥生さん~、せめて皆実さんを遊びに連れてってあげましょうよ~」
「そう思うのなら、むしろお前が連れてってやってくれ」
「私でいいのでしたら是非是非喜んで~」
「弥生、皆実さんって誰?」
そういえばシノは名前知らないんだっけ。
「妹」
「そそ、こんな感じのな」
──えっ? 観音の指が入口に向けられている。
色白で真っ直ぐ伸びた細い指が示す先には話題の主、皆実がいた。
「あー、皆実さんだ~」
旭が皆実に向かってダッシュし飛びつく。しかし皆実はそれを読んだか、すっと身を翻して躱す。勢いづいた旭は壁に激突し、ずるずるとうつ伏せに倒れ込んだ。
「兄ぃ、やっほー」
「なんでお前がここにいる!」
「私が呼んだ。『兄ぃが働いてる姿を見てみたい』って言うからさ」
「うちは情報機関ですよ。部外者を部屋に入れていいと思ってるんですか」
「今日はどうせ開店休業だから関係ない。ここは元々応接室だし何の問題もない」
そう言えばそうだ。でもあなたは開店休業の勤務風景を見せてどうするつもりだ。
シノが爽やかな笑顔を浮かべつつ、皆実に歩み寄る。
「初めまして。弥生の同期の比治山東雲です、よろしくね」
あれ? 皆実は仏頂面をしながらシノを睨む。こいつが他人に対してこんな態度をとるのは珍しい。
「あなたがデブ専のシノさんですか」
ぶっ! お前はいきなり何を言い出す!
シノが顔を引きつらせる、しかしすぐに和らげた。気を取り直したのか、それとも大人の余裕なのか。
「恰幅のいい人は確かにタイプだけど……それがどうかしたかしら?」
「ふーん」
皆実も不敵な笑みを浮かべる。シノと皆実の笑い──いや、睨みあい。
観音は他人事とばかりにニヤニヤ、旭は依然倒れたまま。
この目の前に広がる異様な光景は何なんだ。
「何か言いたげね」
「乞われるまでもなく聞きます。シノさんって本当にデブ専なんですか?」
「本当だよ」
「嘘ですね」
「何を根拠に?」
「うちが根拠です」
「はあ?」
妙に自信満々な皆実。対するシノは、ぽかんと口を開ける。
「うちは兄ぃが好き。痩せててもデブでも関係ない」
「だから? それがどうかしたの?」
「飲み込みの悪い人ですね。これは妹だから言える台詞なんですよ」
「説明下手な子に飲み込み悪いなんて言われたくないわね」
二人の間に散る火花が今にも激しく燃え上がろうとしている。もう全開で嫌な予感しかしないので止めたいが、そのタイミングが掴めない。
「じゃあ、はっきり言いましょう。妹のうちですら無様と認めるのが今の兄ぃ。『デブだから』という理由で好きな女がいてたまりますか!」
おいっ!
「お前は裏でそんな事思ってたのか! それが兄に向かって言う言葉か!」
「黙れデブ」
ひどい。
皆実の顔からは笑みが消え、感情そのままの目つきでシノを睨みつけていた。
一方のシノはまだ笑っている。しかしその笑みは、皆実を上から見下す嘲ったものに変わっていた。
「その通りだよ。何か大した秘密でも暴いたつもり? ──」
はい?
「──私は二人に苛められる弥生が可哀相だったから、ついムキになっただけ。私はずっとずっと昔から新人研修の時から弥生が好き。何か文句ある?」
固まる間もなく、皆実がやり返した。
「大いにあります。兄ぃをバイキングにしょっちゅう連れ回してくれたそうで」
シノがこっちに視線を投げてきた。ぷるぷると首を振る。皆実にそんなこと話した覚えはない。
「それは私が話した」
「観音さんに話したのは私です~」
虚ろな目をして答える観音。自分の想定した事態を越えてしまったらしい。
そしてうつ伏せのまま付け加える旭。お前、生きてたのか。
「だって弥生食べるの好きだし、好きな人に好きな事をしてもらって何が悪いの」
「その結果、兄ぃは糖尿病。うちは対策メニューを研究する毎日なんですけど」
「えっ!? 弥生、そうなの?」
黙って頷くと、シノの顔は一気に青ざめた。気にするなと言いたいが、皆実が「言わせない」とばかりに睨んでいる。
すまん、こいつ怖い。
「ごめんなさい、それじゃ私が代わりに──」
「結構です。よくもうちから兄ぃを甘やかすという楽しみを奪ってくれましたね」
「私は別にそんなつもりじゃ──」
「兄ぃを甘やかすのはうちだけでよかった。兄ぃの彼女になる人には、この自分の事が何もできない社会不適合者を躾ける役になってほしかったのに」
その滅茶滅茶で自分勝手な理屈は何なんだ。しかも社会不適合者って……いくら妹でもひどすぎる。
「弥生にだっていいとこ──」
「もちろん知ってますよ。妹相手にそんな台詞言ってのけるあなたは何様ですか」
シノの顔が真っ赤になる。そしてその大きな目をさらに見開き、肩を振るわせて叫んだ。
「いい加減にして。このブ、ブ……ブラコン!」
「ブラコン結構! うちの目が黒い内は、あなたに流川家の敷居を跨がせない!」
皆実の迫力に気圧されたか、シノは泣きながら部屋を飛び出した。
「はあ……」
観音が大きく溜息をつきながら、ゆっくりと立ち上がる。あなたは早く、この事態を招いた責任を取れ。
「皆実……えーと……美味しいイチゴ大福の店があるんだ。一緒にどうかな」
観音は「定時になったらあがれ」と言い残し、はしゃぐ皆実を連れ出した。
シノが戻ってきた。手には観音の机にあったお煎餅。顔をソファーの背に向けて寝転がると、無言でポリポリお煎餅を囓り始めた。その音はいつまで経っても止まない。
どうすればいいのか。何も思い浮かばず狼狽えていると、ようやく起き上がった旭がシノに声を掛ける。
「シノさん、明日は三人で温泉でも行きませんか~。ゆっくり休みましょう~」
シノが小さく「うん」と返事する。お煎餅を囓る音も鳴りやんだ。
旭に耳たぶを摘まれ、引っ張られる。
(これは貸しですからね~。男ならもっと毅然としてください~)
ごもっともです。
その後の俺達は、沈黙したまま定時まで過ごした。




