13/03/04 霞ヶ関:弥生、私は君を助けてやりたい
13/03/04 月 14: 00
〈次は、霞ヶ関、霞ヶ関です。乗り換えのご案内です。日比谷線、丸の内線は……〉
週が明け、早速本庁へ向かった。東京に行くための口実は「東京モスク見学」。実際に代々木上原で東京モスクを見学した後、旭と別れて地下鉄に飛び乗った。
──霞ヶ関B1出口を出る。
右手に日比谷公園、左手に弁護士会館を起点として高層庁舎が建ち並ぶ。かつては当然の様に見てきた光景も、今こうしてみると感慨深い。
官僚としては二度と立つことがないかもしれないと思った場所。再び胸を張ってここに立てる日が来ればいいのだが……それも全ては今日の話次第か。
八階人事課。課長室入口上方に灯るランプが西条課長の在室を示している。
ネクタイの襟元に手を当てる。開かれた状態のドアをノックする。
「失礼します」
「おう、弥生。待ってたぞ」
相変わらずダンディな西条課長が立ち上がり、笑顔で迎えてくれた。西条課長は俺をふかふかのソファーに促してから、庁内電話で観音を呼出す。
──少し経ち、コンコンとドアをノックする音が聞こえてきた。
「失礼します」
「おう、天満川」
観音が俺の隣に腰を下ろす。折り目正しくも女性らしい柔らかさを兼ね備えた動作。それに合わせて、ふわりと青林檎の匂いが香ってきた。
西条課長がドアに向かう。課長室内にカチャリ、と鍵を閉める音が響く。「ここからの話は内密に」という合図だ。
西条課長はソファーに戻ると、上に向けた手の平で観音を指し示した。
「改めて紹介しようか。こいつは天満川。四月から横浜で弥生の上につく」
観音が微笑みながら無言で会釈するのでそれに応じる。この天使の様な微笑みは何なんだ。西条課長の前だからだろうけど、すっごい外面。
観音が課長の言葉を引き継ぐ。
「私が横浜に行く建前は『テコ入れ』。横浜は大きな畑があるくせに客の開拓が進んでないからな。本庁が直々に手を入れてもおかしくはないだろう」
事実ではある。でも実際のところ仕方ない。大きな畑があっても、それを耕す人がそもそもいないのだから。
まず人員の絶対数そのものが足りない。
本来なら数を補うべく有能な人材を配置すべきだが、これは関東局、いわゆる東京支局がそっくり持っていく。また、職員の側も関東局にしがみつく。「関東局に非ずんば人に非ず」と言われるくらい、ノンキャリアにとっては別格の存在だから。
横浜でも白島統括は有能で通っている。しばしば本庁に呼ばれるくらいに。しかしそれゆえ、仕事が集中しすぎてパンクしてしまっているのが現状だ。そんな状況で開拓しろというのは、無理難題を押しつけるに等しい……が、だからこそ観音を送り込む土壌があるとも言える。
観音には登録実績があるから能力的に申し分ない。またキャリアゆえ、本庁から定数を分け与える形で出向させることができる。つまり横浜の定数を単純に一人増やせる。いわば本庁からのレンタル。テコ入れとしてはうってつけの人材だろう。
シノと土橋上席の間で交わした噂話は、この結論で落ち着いた。
西条課長がライターを取り出し、キーンと蓋の開閉音を鳴り響かせる。これを合図に、観音がポーチから細長い煙草の箱と円筒形のライターを取り出した。喫煙者なのか、ありがたい。
──西条課長は大きく煙を吐き出してから話を切り出した。
「二人揃ったところで本題に入ろうか」
「はい」
俺と観音の揃った返事に合わせ、西条課長が上体をのりだす様に傾けた。
「弥生、私は君を助けてやりたい」
いかにも幹部らしい落ち着いたトーンの話し方。そのせいもあってか、言葉が身に染みこむように伝わってくる。予想していた台詞ではあったが、こうして実際に目の前で言ってもらえるとありがたくて泣けてくる。
「もったいない御言葉で恐縮です」
深く頭を下げる。しかし西条課長は気まずそうに、手をぱたぱた横に扇いだ。
「いやいや。そもそも君の現状は私が対応を誤ったせいだからな。まず三良坂課長の難癖については天満川が作成した報告書で黙らせた。当面は大丈夫だ」
「ありがとうございます」
「ただ所詮は悪魔の証明。隙を見せれば蒸し返してくるだろうし、気をつけろ」
「はい」
「加えて現時点で君を本庁に戻す事もできない。わかるな」
黙って頷く。頭ではわかっているけど言葉を詰まらせてしまった。
西条課長の言いたいのは、本庁に戻したところで、三良坂課長が目を光らせる限りは再びどこかへ飛ばされるということ。つまり俺が本庁に戻るためには、三良坂課長の建前を覆すだけの正当な建前が必要となる。
「そこで君にやってもらいたい事がある」
「何でしょう」
続いた西条課長の言葉は、俺の耳を疑わせるに十分だった。
「マルコウだ。予対を挙げて、本対に昇格させて、登録まで頑張って欲しい」
「無茶な! キャリアの私にできるわけがないじゃないですか!」
俺は声を荒げてしまっていた。よもや西条課長からマルコウを命じられようとは。それができるくらいなら福山首席から逃げ回るのにあんな苦労するものか!
「落ち着け、そしてよく聞け。私は『頑張れ』と言ったんだ」
「……と申しますと?」
戸惑いながらも問い返す。一方の西条課長はニヤニヤしている。
「三良坂課長が君を横浜に行かせるのに使った建前は『君が働かない』ということ。今回の難癖もそうだ。ならば『君は働く』ことを示せれば、それでケリがつく」
「つまり働く姿勢が誰の目からもわかる程度に動けばそれでいいということですね」
「役所言葉じゃなければそうなるな。その上で『天満川に全て甘えればいい』」
西条課長が強調しながら述べる。なるほど、観音が〝接待登録〟してくれるのか。
接待登録とは、他の人が登録寸前までマルコウを進めたマルタイを自分名義で登録させてもらう事。簡単に言ってしまえば、他人の仕事で手柄だけをもらう事。そうやって恩を着せることでキャリアに取り入るのだ。
接待登録でなら登録したキャリアなら何人もいる。あくまで自力で登録したキャリアは庁内に二人しかいないという話である。
ああ、何て至れり尽くせり。もっともそんなのじゃなければ、俺がマルコウなぞできるわけもない。先日の一件だって白島統括のマルコウ記録をもらったくらいなのに。
「わかりました、『課長のおっしゃる通り』頑張りたいと思います」
意を汲んだ事を示すべく、俺も強調しながら返事をする。しかし一方の観音の反応がない。表情を確認すべく、横目で盗み見る。
観音は姿勢を正したまま煙草をくゆらせていた。真顔というか、無表情というか。「おすましさん」という表現がしっくりくるか。とにかくまるで感情が読めないが……まあ、特に問題ないだろう。
ただ観音が上司につくのも接待登録もいいとして、腑に落ちない事がある。口に出すべき事でもないが聞いてみたい。
「どうして課長はそこまでしてくれるんですか」
仕掛けが大仰すぎるのだ。
俺一人を助けるためだけに更なるキャリアを送り込んでくるなんて。
公安庁は規模が小さく、スパイという業務のせいで体質も閉鎖的。そのため幹部と若手の距離が他官庁とは比較にならないほど近い。人数の少ないキャリア同士だと更にその傾向が顕著となる。だから西条課長が俺をかわいがってくれるのは不思議じゃないし、信じられもする。でも、それを考慮しても、やりすぎとしか思えないのだ。
「面子だよ」
「面子、ですか」
「うむ、キャリアとしてのな。事はもう君一人の問題ではない」
西条課長は特に気負うでもなく、さらりと答える。こうした口ぶりには幹部としての落ち着きが感じられる。
西条課長が目線をわずかだけ観音に向ける。それを受けた観音は西条課長の言葉を引き取って説明を始めた。
「具体的には人事権の話だよ」
「人事権?」
「組織にとって人事権は命綱。公安庁の人事権はキャリアが握っているだろう」
「総務部長と人事課長を抑えていますからね」
「もし今回の難癖まで認めたら今後も検事の人事介入を許しかねない。ましてや君が飛ばされた当時と違って、現在の西条課長は人事課長職そのものだからな」
つまりキャリアとしてはもちろん西条課長自身の面子もあるわけか。これは確かに本人の口からは憚られる言葉だ。
観音の口調もまた、淡々としている。あくまで西条課長を立てているのは言動や振る舞いからもわかるが、この貫禄は俺と二年しか違わない職員に到底見えない。
また、ラウンジでアイアンクローまでぶちかましてきた暴力女と同一人物にも思えない。あの跳び膝蹴りはやむをえなかったにせよだ。
見るからに隙がなく完璧な印象。まさにクールという形容が似つかわしい。
観音は俺の表情を見て取ったか、言葉を続ける。
「わかったようだな。私達キャリアが『奴隷』で終わりたくなければ、ここは絶対に黙って引き下がるわけにはいかないんだよ」
観音が「奴隷」という言葉に力を込める。言いふらした俺を遠回しに茶化してるのもあるだろうが、主旨は奴隷発言をした検事へのあてつけだろう。
観音が口をつぐんで目線を落とす。今度は西条課長が苦々しげに吐き捨てた。
「奴隷には奴隷の意地がある、ということさ」
つまりは俺の人事を巡ったキャリアと検事の派閥抗争。
ようやく腑に落ちた。そして二人が奴隷呼ばわりをどれだけ苦々しく思っているかもよくわかった。俺は半ば面白がって言いふらしたが、話はそれだけで終わらなかったらしい。観音の「見せしめ」という説明も、今だと心底から納得できる。
「わかりました」
西条課長が煙草を消してからコーヒーを飲み干す。
「これで話は終わりだ」
人事課を退室して廊下に出る。
観音が「下まで送ろう」と申し出てくれたので、エレベーターに二人乗り込む。
──法務合同庁舎一階エントランス。
「観音さん」
「ん?」
姿勢を正して頭を下げる。
「四月からよろしくお願いします」
「ああ、よろしく」
観音はぶっきらぼうに答えてから振り返る。
「じゃあな」と手をひらひらと振りながら、颯爽とエレベーターホールへ。
俺は爽やかな青林檎の残り香に包まれながら、その後ろ姿が消えるまでずっと見つめ続けていた。




