2-27 商工大臣視察(4)
「では次は3階の社員食堂をご案内いたします」
おしゃれな真鍮の手すりがついたガラス扉を開けると、明るい日差しが差し込む広々とした空間が広がっている。スッキリとした白壁に、濃い木目の椅子が映える。ところどころに置かれた観葉植物が、天井まで届く大きな窓からの日差しを優しく遮っている。
「社員食堂は、昼食だけでなく、朝食や休憩時にもカフェとして使用できます。朝7時から夜9時まで営業し、飲み物はセルフサービスになっております」
『アイリス様、表現が前世仕様になってます』
(あ、そうね。セルフサービスって……)
「失礼いたしました。あちらのコーナーに用意されている紅茶、薬草茶、コーヒーなどを、いつでも自由に飲めるようになっております」
大臣一行は、興味深そうに食堂内を見回している。カウンター越しに、シェフのマルコさんが元気よく手を振ってくれる。カウンターの上には、ワンコイン1銅貨の焼き菓子が、午後のカフェ利用者のためにきれいに並べられている。お、新作ばっかりで、いつもより多いな……大臣視察ボーナスのために張り切って用意したのかもしれない。
「メニューは健康と美容に効果のある薬草スパイスを使用したメニューが好評でして、従業員の体調管理にも一役買っております。また、アザランス帝国やエルドミア王国など外国の料理も取り入れ、各国の食文化も楽しめるよう工夫されています」
「なるほど。食事を通じて異文化理解を深める取り組みですか。おや、あれは……」
大臣は窓際の雑誌ラックに近寄り、置かれている雑誌やパンフレットを確認している。
「そちらは、各国のファッション誌や文化情報誌を置いており、最新の流行や情報を常に意識するようにしております」
事務官の一人が、食券売り場の価格表を興味深そうに見ている。
「若鳥の香草焼き定食が3銅貨……これは安いですね」
「はい。従業員の福利厚生、つまり働きやすい環境作りの一環として、食事代の半額を商会が補助しております。従業員が快適に過ごせることが、お客様へのよりよいサービスにつながると考えておりますので」
『アイリス様、事務官たちが羨ましそうにメニューを見ていますね』
テオの進言通り、事務官たちはペンを走らせながら、またまた熱心にメモを取っている。
「あちらのテーブルをご覧ください」
少し離れた場所の大きな丸テーブルでは、ちょうど遅番の昼休みを取っている従業員たちが談笑している様子が見える。服飾売り場のミルシュカさんと、眼鏡売り場のマイケルさんが、アザランス帝国の最新ファッション誌を見ながら品定めをしているようだ。
「異なる売り場のスタッフが自然に交流できる場として、お昼時は特に賑わいます。お互いの商品知識を共有し、接客サービスの向上にも繋がっております」
「なるほど。単なる食堂ではなく、従業員のコミュニケーションの場としても機能しているわけだな」
大臣は感心した様子で周りを見回している。事務官たちの話し合う声が聞こえてきた。
「ここは、本当に従業員を大切にしていますね」
「この商会の店員の評判がいい理由がわかった気がしますね」
「特殊な休暇制度もあると聞いています。後で確認してみましょう」
「うちの商工会議所にも作ってくれないかなぁ」
私にとっては前世の常識だった福利厚生だが、この世界では初めてのことばかりだ。大臣御一行の反応を見て、改めてその違いを実感した。
社員食堂を後にしながら、私は一年前を思い出していた。最初に食堂の提案書を出した時、事務長はきっぱりと却下した。
「食事代の補助? そんな無駄な支出は認められません。社内に食堂を作るのは、寮の食堂廃止と引き換えということで進めますが、更に食事代の補助なんておかしいですよ」
諦めずに、何度も提案書を書き直した。健康管理による生産性の向上、コミュニケーション活性化の効果、社員の満足度向上による定着率の改善。テオと一緒に、様々な角度からデータを集めて分析した。そして、とりあえず最初は食事券を配って従業員に利用してもらい、効果が感じられなかったら補助なしにしましょうと説得して始まったのだ。でも、従業員の交流が活発になり、リフレッシュ効果で接客サービスが向上する様子を見て、すぐに雑誌ラックを設置してくれたのは事務長だった。掲示板も作り、事務室からのお知らせを貼るようにもなった。
『アイリス様、あの時は粘り強い説得、お疲れ様でした』
(そうよね。あの時はめっちゃ大変だったわよ。産休・育休制度でも揉めたし。でも、事務長が態度を変えてくれたのは、エリーさんとマリアナさんのおかげよね)
妊娠中のエリーさんは産後の不安で、一時は退職を考えていた。経理のマリアナさんも、悪阻がきついタイプだったらしく、休憩室で泣きながら退職届を書いていた。商品開発のスペシャリストや経理の要となっている人材を失うことを危惧した事務長は、ついに産休・育休制度の必要性を理解してくれた。今では 『福利厚生は未来への投資』 と口にするほどだ。
育児支援制度も、社員食堂も、全て前世では当たり前だったが、この世界では存在しないものを一から説明して説得する努力を続けてきた。それが少しづつ実って、みんなの笑顔に繋がっている。私がこの商会に来て、2年ちょっと。今日は、シルヴァークレスト商会のコンサルタントとして、私が頑張ってきたことの発表会なのかもしれない。
『アイリス様、あちらを。戻ってきた事務長が嬉しそうに大臣と話をしていますよ』
講義室に向かう途中、事務長が大臣に熱心に制度の説明をし、後ろの事務官たちが歩きながら器用にメモをとっている。思わず笑ってしまった。
「では、続きまして、こちらの講義室をご案内いたします」
2名の事務官が遅れて事務長に質問を重ねているのを見ながら、隣接する講義室へ移動する。学校の教室のような部屋に、整然と机と椅子が並んでいる。黒板の前には講師用の演台があり、壁には様々な見本や世界地図が掲示されている。
「こちらでは、従業員向けの各種講座を開催しております。販売員向けのラッピングやカラーコーディネート、外国語、マナーなどの講座や、事務作業者向けの経理や貿易の基礎講座など、様々なスキルアップの機会を提供しています。参加は本人の希望に任せて、閉店後に行いますが、毎回、立ち見が出るほど盛況です」
今日は講座の開催日ではないが、明日の準備がされていた。「春のお茶会に合わせた小物の選び方」という題目の下に、カラーチャートの紙と春の花のリストが貼られ、トルソー3体におしゃれなコーディネート、そしてテーブルの上に様々な色や柄のスカーフが用意されている。
「講義室では、商品知識だけでなく、文化的な教養も身につけられるよう工夫しております。将来的には、部屋を増やして一般のお客様向けの文化教室としても開放したいと考えております。大人の学校のようなイメージですね」
「外部にも開放? ふむ、貴族のサロンを庶民向けにするようなものですかな。なかなか面白い発想ですね」
大臣は興味深そうに、壁に掲示された講座スケジュール表を見ている。
「はい。ソルディトは地方都市としては賑わっておりますが、王都に比べると文化面の成熟度は遅れています。文化を育てていくにあたって、伝統と革新を組み合わせた、新しいソルディトらしい文化をここから発信できればと考えております」
『アイリス様、大臣の表情分析では、ソルディトの文化発展に強い関心を示されています。地方の産業振興は商工大臣として重要な位置づけのはずです』
(そうみたいね。頷きながら秘書官に何か指示している。文化政策も商工大臣の担当なのかな? ちょっと具体的に説明してみるわ)
「試しに1day講座として、来月、外部開講予定の木の実のキャラメル作り講座は──」
「ああ、エルドミアの伝統菓子ですね。貴族にも庶民にも愛されている」
大臣の言葉に、ニッコリ笑顔で頷きながら付け加える。
「はい。ソルディト近郊の木の実や蜂蜜を使って、エルドミアの伝統菓子をアレンジした新しいお菓子作りを教える予定です。地元の食材を活かしつつ、新しい価値を生み出す試みとして、地元のお菓子屋さんと共同で企画を進めております」
「ふむ。そこから名産が生まれれば、農業従事者や飲食業者にも新しい雇用が作れるかもしれないな。よく考えられたアイデアだ」
「地元コミュニティとの連携は、大きな商会こそが大事にしていくべきだと、弊商会長レオンは考えております」
そう洗脳しました! 地域密着型や地産地消は、前世の小売店のコンサルでは必須のキーワードだし。
『アイリス様、商会が地元で愛されながら発展するためには必要な洗脳……いえ、アドバイスですね』
「では次に、最新の施設となります、イベントスペースへご案内いたします」
広い廊下を進み、大きな扉を開けると、天井が高い開放的な空間が広がっている。まだ新しい壁紙や木の造作の匂いが漂う500平方メートルほどの広々としたスペースだ。
「各種展示会や物産展、お得意様向けの予約会などを開催する予定でございます。7月から本格的な運営を開始いたします」
テオと前世のデパート催事を参考にアイデアを出して、各売り場と企画した夏から秋にかけてのイベントスケジュールを大臣一行に配布する。一般的な夏物セールや宝飾品展示会などの中に、肉フェスやミニチュア模型展、ファッションショー、作家によるサイン会・トークイベントなども盛り込んでいる。
「おや、このクラフトビールというのは?」
「はい。ソルディト各地の醸造所が集まり、地域ごとの特色ある味わいをお楽しみいただけるイベントです。ソルディト近郊の食材を使ったソーセージや串焼き肉と共に、提供させていただきます」
大臣は興味深そうにスケジュール表に目を落としながら、秘書官に何やらささやいている。その後ろでは、事務官たちスケジュールに熱心に書き込んでいる。
『アイリス様、あちらの事務官の方は、特に時計・万年筆フェアに関心が高いようですね』
(やはり男性の興味が高いイベントなのね。王都の貴族のコレクターアイテムも展示するって書いてあるからかな。もう少し展示アイテムを増やした方がいいかも)
皆さんがワイワイと意見を言い合っているのを聞きながら窓の外を見やると、隣の建物の屋上が見える。広い空間がもったいなく感じられて、つい考え込んでしまう。
(前世なら、この商会の屋上は芝生広場とカフェを作るよね。でも、一昔前のデパートみたいに観覧車があるのも楽しそうだし、デパ地下も必須よね……って、でも、さすがにそれは無理か)
『アイリス様?』
(大丈夫よ、テオ。むしろ、この世界らしい使い方を考えないと。ガラスドームの温室カフェとかどうかな、子供の遊び場も欲しいわよね……ダメ、今は視察に集中! あ、でも待って。夏の屋上ビアガーデンはありじゃない? ランプフェアと星座観測会もロマンチックだし。待って待って、違う。集中よ!)
「えっと……コホン。皆さま、各イベントでは、当商会の特徴を活かし、商品の展示販売だけでなく、職人による実演や講習会なども予定しております。そういった体験型のイベントは、お客様の満足度が高く、売上に繋がりやすいとのデータもございます」
説明を続けながら、私は密かに決意を固めていた。いつか、この建物をもっと素敵な場所にしたい。でも、それは一歩一歩。今はまず目の前のイベントを成功させることが大切。
「なるほど。展示即売会を通じて、地方の産業振興も図れますな」
「はい。特に、職人の技術を直接見ていただける機会を大切にしたいと考えております」
大臣は満足げに頷きながら、もう一度スケジュール表に目を通している。私は窓から差し込む陽光を見つめながら、この先の夢を描いていた。観覧車は諦めても、きっと別の形で、みんなが笑顔になれる場所を作れるはず。
すみません、視察はあと1回続きます……




