2-25 商工大臣視察(2)
「テオ、今日のスケジュールをお願い。まだ朝の6時だから、少しゆっくりできるわよね」
朝焼けがまだ残る寮の部屋で、私は窓を開けて深呼吸をする。カーテンが風に揺れ、小鳥のさえずりが聞こえてくる。寮の中庭では、早朝から庭師さんが花壇の手入れをしている。私も月ちゃんにおはようと声をかける。
『本日は商工大臣視察の重要な日となります。13時からの商会内案内と、明日の事務職員への商品説明が主な業務です。天気は晴れ、最高気温24度、最低気温16度の過ごしやすい1日となりそうです』
「あぁ、もう。そんな緊張させないでよ。テオ、緊張しかないんだけど」
『アイリス様、明けない夜はないですよ』
テオが優しく言う。思わず笑ってしまう。
「それ、前世の座右の銘だったわ……懐かしい。テオ、髪形とメイクはどうしよう?」
『髪型はまとめた編み込みが最適です。前髪は流して、サイドの髪を後ろで編み込みにまとめ、清楚で知的な印象を──』
「うん、きちんと見えていいと思うわ。メイクは?」
『ナチュラルメイクで。アイシャドウはグレーがかったブラウンを薄く。チークは控えめに。リップはピンクベージュで』
「テオったら、ほんとに美容部員みたいよね」
『商工大臣にふさわしい印象管理は重要です。ちなみに、心拍数と血圧も平常値を示しており、コンディションは──』
「ストーップ! OK、これで行くわ。ありがと!」
鏡の前で身支度を整えながら、私は微笑む。テオの几帳面な性格は、面倒くさいけれど、これがないともはや物足りなくなっている。
『アイリス様、商工大臣についてご説明させていただきましょうか』
「うん、お願い」
『ローレンス・グレイストーン侯爵、42歳の若さで王国の7大臣の1人、商工大臣を務める大物です。エルトリア王国の経済の中心的役割を担い、産業や商業の発展を支援するために、貿易政策や技術革新に力を入れています。奥様も侯爵家出身で、20歳を筆頭に3人のお子さんがおり、大変家族思いな方としても有名です』
テオは淡々と説明する。まるで前世のコンペ前のブリーフィングみたいだ。
「王国の7大臣って、本当に大物ね……13時までは、開発室で資料の最終確認をしながら、ゆっくり準備できるわね」
……と思っていた私は甘かったです。はい。
商会に着くと、普段以上に気合が入った様子で従業員が行き交っている。先日、レオン会長が全従業員を集めて、もう一度ブランディングの話をしたのだ。誇りを持てるロゴの話、蒼と銀のコーポレートカラーの意味、そして「未知を求めつつ、永続する信頼を築き、価値をもたらす」という理念。みんな真剣な表情で聞いていた。最後に「視察がうまくいったらボーナスを出す!」と発破をかけられた時の歓声も忘れられない。
私も張り切って自分の開発室に向かう。机の上には準備していた資料の山。午後の案内で説明する売り場や商会設備や、明日の特許や商標の資料だ。
「テオ、この資料の順番に確認したらいいのよね?」
『はい。まずは全体の売上推移から入り、次に各部門の実績、そして新規事業の展望へと進むのが良いかと』
突然、ドアが大きな音でノックされ、事務長が顔を覗かせた。
「アイリス! すぐに来てください。天気予報の説明をお願いします!」
「ええっ!? 私は午後の案内だけでは……」
『アイリス様、天気予報の資料を展開します。すぐに向かいましょう』
開発室から飛び出し、慌ただしく商会の入口に向かって、階段を駆け下りる。入口ではレオン会長が大臣様御一行を相手に、天気予報掲示板を指差しながら自慢げに説明していた。
「これがうちの目玉サービスです。天気予報の的中率は驚異的なんですよ! ここに本日の天気を掲示し、商会内の受付で1週間の予報を配布しております」
会長は、私の姿を見つけると手招きをした。
「アイリス、グレイストーン侯爵大臣に天気予報のご説明を申し上げるように」
(レオン会長って無茶ぶりするのが仕事なの? 笑顔がムカつくわぁ)
『アイリス様、簡潔に要点を。第一印象が重要です』
グレイストーン侯爵は、威厳のある中年の紳士だった。深い紺のスーツに身を包み、金の装飾が施された杖を持っている。秘書官が後ろに控え、更にその後ろに随行の役人が8名。皆さん、ビシッとしたスーツ姿で 『デキルお役人様』 という感じだ。
「これは面白い。毎日、天気予報を掲示しているのですか?」
レオン会長が得意げに頷く。
「はい! 的中率が非常に高いので、お客様に評判がよく、出向前の船乗りも必ず確認にきます。アイリス、早くご説明を」
深呼吸をして、一歩前に出る。
「アイリス・ヴェルダントと申します。天気予報についてご説明申し上げます。現在は私の経験と勘に基づいて予報を行っておりますが、科学的な手法で誰でも予報できるよう、気象予報課を設立して研究を進めております。もうすぐ発足3年目を迎え、現在の的中率は72.8%。来年には80%まで向上する見込みでございます」
大臣は鋭い目つきで天気予報ボードを見つめ、秘書官に何かささやいている。
「大変興味深いな。誰でも予報できるようになるのかね?」
「はい。観測データを収集・分析し、さらに各地の伝承なども参考に、科学的な予報システムの構築を目指しております。完成しましたら誰でもデータから予報ができるようになる予定です。属人的な予報ですと、永久性がございませんので」
「素晴らしい!」大臣は杖を軽く突きながら笑顔を見せた。「これはぜひ、詳しく話を聞かせてもらいたい」
『アイリス様、随行員の方々がメモを取り始めました。もう少し具体的な説明を』
「はい。定点観測を行う百葉箱では、気温、湿度、気圧、風向、風速、雨量の6つの要素を定時観測し、それらのデータを分析することによって予報をたてます。定点観測と、それを補完する移動観測のネットワークは、当商会独自の──」
後ろで控えていた事務長が小声で囁く。
「アイリスさん、少し専門的すぎます」
「あ、あの、失礼いたしました。つまり、各地に観測小屋を設置して、毎日同じ時間に天気の変化を記録しているのです。その記録を分析することで、明日の天気を予測できるようになってきました」
大臣は深く頷き、近くにいた秘書官に何か指示を出している。随行員たちも真剣な顔で熱心にメモを取っている。
「なるほど。他国でもまだ実現していない画期的な取り組みだ。天気は商業のみならず、あらゆる産業に影響が大きい。これは国として支援を検討する価値がありそうだな」
「深く感謝申し上げます!」
レオン会長が得意げに胸を張る。言葉は貴族っぽいけど、話す勢いとニコニコの笑顔が言葉とちぐはぐだ。王都のエトラ支店長を呼ぶべきだったのでは……何、そのどや顔。
やっと大臣一行が応接室に案内され、レオン会長や事務長など幹部との交流が始まった。入口の天気予報で20分も時間をとられたので、おしぼりやレモンティーを用意している受付のお姉さま方はヤキモキしてたと思う。私は開発室に戻ったけど、急に冷汗が出てきた。言葉遣いは大丈夫だったか記憶がない。この1年、呪いの調査を優先してマナーの勉強をおろそかにしていたことを後悔する。
「話す」の尊敬語が「お話になる」、謙譲語が「申し上げる」。それをより貴族的な表現だと「お言葉を賜る」とか「言上させていただく」とか? どう考えてもムリ!
(私、午後の案内は辞退した方がいいかも……商会の印象が悪くなったらどうしよう)
『アイリス様、不安になるのは当然ですが、これまでの実績を信じてください』
お昼前に、社員食堂へ向かう。明るい食堂には、既に多くの従業員が集まっていた。白を基調とした清潔な空間に、深い蒼の制服姿の従業員たちが談笑している。窓からは心地よい陽射しが差し込み、美味しそうな香りが漂う。今日の若鳥の香草焼きは、私が提案した薬草スパイスが使われている人気メニューだ。付け合わせのポテトにも健康と美容に良い薬草が使われている。
「アイリス? どうしたの? 元気ないわね」
ミナさんが心配そうに声をかけてくれる。
「ええ、ちょっと……午後の案内のことで。私なんかにできるかな……って」
「そんなことないわよ。ねぇ、エリーさん、ヴェガさん。アイリス、私たちはみんな、あなたに感謝してるのよ」
「え? 感謝って?」
「アイリスのおかげで、この社員食堂ができて本当に助かってるわよね。美味しくて安くて栄養バランスもいいし、休憩時間はカフェとして使えるし!」
エリーさんも嬉しそうに頷いた。
「それに、アイリスが提案してくれた育休制度や、子供が病気の時の特別有給制度のおかげで、今でも私を始め、何人ものママさん社員が働き続けられているのよ。私だけじゃなくて、服飾売場のラリサも先月職場復帰したし、経理のマリアナも来月復帰するって聞いたわ」
「そうそう」ヴェガさんも続ける。「社員のための制度を次々と提案してくれて、本当に助かってるわ」
普段あまり話したことのない服飾売り場の女性が、隣のテーブルから声をかけてきた。
「アイリスさん、今日はがんばってください。私ね、今週、子供が風邪で高熱を出したんです。特別有給制度のおかげで、3日間看病に専念できたのよ。本当にありがとう」
続いて、眼鏡売り場のオースティンさんも近づいてきた。
「私からも感謝を。先月、妻が出産した時、私も2週間の育休がとれて、妻も赤ちゃんも私も、本当に良い時間を過ごせました。こんな制度がある会社は他にないって、妻も喜んでいます」
ミナさんが、うなずきながら続けた。
「アイリス、この紺と銀の制服が、ソルディトの女性の羨望の的になっているのは知ってる? みんな、シルヴァークレスト商会で働きたがってるわ」
「え? そこまで??」
「本当よ。アイリス、あなたがいてくれて、本当に感謝してるわ」
思わず顔が熱くなる。確かに、それらの制度は私が提案したものだ。前世の常識だった福利厚生を、会長と事務長に話してこの2年で少しづつ整備してきたのだ。
「ミナさん、エリーさん、ヴェガさん……ありがとう。でも、レオン会長が柔軟な考えの持ち主だから採用されたアイデアなんですよ。私の力ではないわ」
「それでも、アイリス。あなたがいなければ、こんな素晴らしい職場環境はなかったわ。だから、自信を持って。あなたなら何があっても大丈夫よ」
それから、次々に声をかけられた。
「アイリスさんのおかげで、寮に住んでなくても家賃補助がでるようになって助かったよ」
「アイリスちゃんのアロマオイルとのコラボ商品で、うちの部署の売上も上がってます」
「事務室だって、アイリスちゃんのテンプレートと業務マニュアルのおかげで、残業が減りましたよ」
みんなの役に立っているのは嬉しいけど、これって全部、前世の知識なだけで、私のアイデアではない。後ろめたさが、また不安を思い出させる。
社員食堂から戻る途中、薬売り場に立ち寄ると、キオンさんとサラさんが声をかけてくれた。
「アイリス! 大臣を案内するんだって? 緊張してるの?」
キオンさんは、いつもの研究熱心な目で私を見つめている。その横でサラさんも心配そうな表情だ。
「ええ、少し……っていうか、かなり」
「心配することないさ。アイリスの分析力は本当に素晴らしいよ。しかも、その効果をちゃんとデータで示してくれる。これまでの薬学は経験則に頼りすぎていたんだ」
キオンさんが珍しく熱のこもった声で話し始める。サラさんも優しく笑いかけてくれる。
「そうよ。それに、アイリスちゃんは誰にでもわかるように説明するのが上手いわ。私なんて専門用語ばかり使っちゃうけど、アイリスちゃんは相手に合わせて言葉を選べる。大臣様にも、きっとうまく説明できるわよ」
(でも、私の説明って、前世の知識の受け売りばかりで……)
『アイリス様、お二人の言葉は本質を突いています。知識を活かすのも、相手に伝えるのも、全てアイリス様の能力です』
「前に、新人の調薬師さんたちに薬草の保存方法を教えてくれた時のこと、覚えてる? みんな、すぐに理解できて感動してたわ。私が説明する時より、ずっと分かりやすかったって」
「帝国の最新の薬学書だって、アイリスが実際の薬草を使ってわかりやすく説明してくれるから理解が早いんだ。研究者は往々にして、難しい言葉で自分の知識を誇示したがる。でも、本当に大切なのは、相手に理解してもらうことだよ」
二人の言葉に、少しずつ胸の中の重しが軽くなっていく。確かに、前世の知識も、この世界の人々に理解してもらえなければ意味がない。
開発室に戻り、午後の準備を始める。テオがいつになく優しい声音で話しかけてくる。
『アイリス様。転生した誰もが前世の知識を異世界で活用できるわけではありません。アイリス様のコンサルの手腕があって、会長や事務長をデータに裏付けされた説明で説得できたからこそ、実現できたのです。アイリス様、あなただからできたことですよ』
「そうね……うん。午後の視察も前世のパクリアイデアが多いけど、頑張って案内するわ」
『アイリス様、案内する順番を最終確認いたしましょう。まずは1階の売り場から、各売り場での滞在時間は7分を目安に。私がタイムキーパーを務めさせていただきます』
説明資料に目を通しながら、私は小さく笑った。
「テオ、前世の知識をこの世界で活かせるのも、きっと私とテオだからよね。二人で力を合わせてきたから」
『はい。アイリス様とご一緒できることを、私は誇りに思います。さて、心拍数も安定してきましたので、資料の最終確認を』
「うん。私なりの言葉で、しっかり説明してみせるわ」
窓の外では、初夏の陽射しが石畳を明るく照らしている。約2時間後、この通りを大臣一行が歩くことになる。その時までに、できることは全てやっておこう。
「テオ、もう一度、最初から説明の練習をお願い」
『かしこまりました。では、社員への挨拶から始めましょう。アイリス様、まずは姿勢からです。もう少し背筋を──』
「わかってるって。本番ではちゃんとするわよ」
文句を言いながらも、私は心の中でテオに感謝していた。
視察編は(4)まで予定しています。




