2-19 王都でアオハル(4)
「今日も図書館に行かなきゃね。王都にいる間に、呪いに役立ちそうな資料はできるだけデータベース化しておきたいし、仕事が何より優先だわ。うん」
朝日が窓から差し込む中、私は鏡の前で髪を整えながら、テオに話しかけた。というか、鏡の中の自分に言い聞かせた。昨日の使用人たちの会話が、まだ頭から離れない。
『アイリス様、昨日の使用人たちの噂に囚われすぎです。業務に支障が出ないようお気をつけください』
テオの声には、いつもの分析的な調子の中に、少し心配そうな響きが混ざっていた。
「でも……」
『王立図書館での調査は、アイリス様の重要な業務の一部です。貴族様からの重要な依頼ですから、個人的な感情で避けるわけにはまいりません』
テオの言葉に、私は深く息を吐いた。そうよね。仕事は仕事として、きちんとやらなきゃ。私が図書館に行きたくない、ヴェルさんに会いたくないという気持ちは、テオにはお見通しだ。
『アイリス様、今日は科学的アプローチで気持ちを切り替えていきましょう。まず、5秒ルール法です。カウントダウンして、5秒以内に図書館に出発しますよ。図書館に着いたらポモドーロ法で、25分の集中作業と5分の休憩を繰り返しましょう。私がタイムキーパーいたします。さぁ、カウントダウンを始めますよ。5……4……3……』
深呼吸をして、気持ちを切り替える。テオありがとう。
「よし、行きましょう。今日は、動物性の素材について調べたいわ。薬草と動物性の素材を上手く組み合わせられたら、より効能が高い薬が期待できそうよね?」
王立図書館に着くと、予想通り、ヴェルさんが待っていた。紺のジャケットに身を包んだ姿は、今日も凛として美しい。私を見た時の優しい微笑みに、私の心臓が、また少し高鳴った。
「アイリスさん、おはようございます。今日から侯爵家の調査を一緒にしましょう」
「ありがとうございます。いくつか質問もさせてくださいね。……ヴェル様」
「え、急にどうしたの? 「様」なんてつけないでほしいな。どちらかと言うと、お互いに遠慮なく呼び捨てでいいくらいなのに」
「私のことはお好きに呼んでいただいて構いませんが、ここでは依頼者と請負者であり、仕事の調査ですから、これからはヴェル様と呼ばせていただきますね。本来は、 『ソレイユ侯爵令息様』 とお呼びしないといけないのですが……」
「やめてくれ。それぐらいなら、少し寂しいけどヴェル様で我慢するよ。真面目だな、ア…アイリス…は」
『アイリス様の心拍数急上昇。ですが、ヴェル様の顔も真っ赤です』
おかしい。距離を置いたつもりが、置けていない……解せん。
私たちは資料を探しながら、自然といつものように会話を交わしていく。呪いの調査という大義名分があるから、こうして一緒にいられる。でも、それ以上のことは望んではいけない。大丈夫、ちゃんとわかってる。
「実は、仕事の合間にアイリスを王都の街に案内したいのですが」
「え?」
お昼前の突然の誘いに、私は思わず声を上げてしまった。ヴェル様は少し困ったように微笑む。
「商品開発のために、流行の店や人気スポットを調べると言ってましたよね?」
それは、確かにその通り。前世のマーケティング理論でも、現場視察は重要だった。この街の雰囲気を直に感じることで、新しい商品のヒントを得られるかもしれない。
「なので、お昼休みにご一緒させていただこうかと。まずは、下町の雑貨店から」
気がつくと、私たちは王立図書館を出て、賑やかな通りを歩いていた。下町の雰囲気は、ソルディトとはまた違う魅力がある。石畳の小路には、可愛らしい雑貨店や小さなカフェが並んでいる。
「この店の紅茶が美味しいんですよ」
「落ち着いた、素敵なお店ですね!」
ヴェル様が案内してくれたカフェは、内装が木目を基調とした温かみのある造りで、観葉植物がいたるところにある。店内に漂う紅茶の香りが心地よい。ヴェル様は紳士的に椅子を引いてくれた。
『アイリス様、これはデートと呼ばれる行為では?』
(仕事よ、仕事!)
それからは、午前中は一緒に呪い関係の調査、お昼に王都の現場視察とランチ、それから図書館に戻って別行動で調査、夕方にカフェで意見交換をして次の日の予定を一緒に立てて解散という毎日になった。ヴェル様は王都の様々な場所に連れて行ってくれた。流行の店、歴史ある建物、隠れた名所。彼の博識な説明に、すっかり魅了されてしまう。
侯爵様にお会いして、シャルロッテ様の件でお礼を言われた時は、依頼ではなくヴェル様の知り合いとしてお手伝いしただけだからと、謝礼は固辞させていただいた。侯爵家の研究員の方たちには、3時間近く質問攻めにされたけど、お互いにいい情報交換ができて、とても楽しいひとときだった。シャルロッテ様は順調に回復しているらしい。
「ここが、ロマンス通りです。恋人たちが待ち合わせをする場所として有名なんですよ」
王都出張も残り1週間となった頃、ヴェル様がかわいらしい名所に案内してくれた。石畳の小道には、小さな噴水があり、その周りにはベンチが置かれている。色とりどりの花壇に囲まれた噴水の縁には、小さなハートの装飾があった。
(テオ、この景色を背景にした名刺を、恋人同士、お揃いで作るのはどうかな。名刺を2枚並べると、風景の全体ができあがるとかロマンチックじゃない?)
『アイリス様、王都へは新婚旅行でも人気ですから、需要は高そうですね。エトラ支店長が王都限定の名刺を作りたがっていましたから、喜ばれるかと』
(ハートモチーフのレース加工をエリク印刷工房長に相談してみようかな。控えめなワンポイントのハートなら男性でも……)
商品開発のアイデアをテオと脳内会話していると、ヴェル様が真剣な声で話しかけてきた。
「アイリス、王都支店への転勤はないのですか? 王都の方が図書館も充実していますし、王立薬学研究所への紹介もできます。我が家の呪いのことを調べてくださっているのですから、うちに住んでいただいて──」
その時、遠くから声が聞こえてきた。
「ヴェル様~! こんなところでお会いできるなんて」
振り向くと、シャルロッテ様が立っていた。今日は水色のかわいらしいドレスに身を包み、一層可憐な印象だ。すっかり元気になられたようで、はじけるような明るい笑顔で手を振っている。
「シャルじゃないか! すっかり元気になったね。学園に戻るための勉強は大丈夫かい? わからないところがあったらいつでも聞いてくれ」
ヴェル様は、とても優しい眼差しでシャルロッテ様の顔色を確認している。二人が並ぶと銀髪同士で、とてもお似合いだ。胸が、少し痛む。
「はい。ヴェル様、アイリスさん、本当にありがとうございました。来月の新学期から学園に復帰することになりました」
「あぁ、ちょうど良かった。これを渡そうと思っていたんだ」
ヴェル様は、小さな箱を取り出した。開けると、中には銀の指輪。その中央には、ソレイユ家の紋章が刻まれていた。ロマンチックな噴水の前で指輪を渡すヴェル様。私は咄嗟に目を背けた。これ以上、見ていられない。
「あの、私はこれで。仕事の時間なので失礼しますね」
それから、私は意識的にヴェル様を避けるようになった。図書館でもテオに頼んで、ヴェル様が近づいてきたらすぐに立ち去り、別の階で調査を続けるようにした。彼は戸惑った様子で何度か声をかけてきたが、私は出張が終わるので時間が無いと断り続けた。
そして、王立薬学研究所からの招待状が届いた時、私は即座に断りの返事を書いた。これ以上、王都に残る理由はない。全ての調査も、予定より早く終わらせた。
「ねぇ、テオ。ソルディトに帰りたいわ。予定より早くてもいいわよね」
『アイリス様……』
最後の日、私は王立図書館に本を返しに行った。そこで、ヴェル様と鉢合わせた。わざと早朝に来たのに……
「アイリス、商会で聞きました。もう王都を離れるのですか?」
「はい。ソルディトの本店でも仕事が溜まっているみたいなんです」
彼の瞳に、何かが揺れていた。でも、私は目を逸らした。
「アイリスには、私のような者では相応しくないのかもしれません。才能も知識も、そして心の強さも、私では及ばない……」
「さようなら、ヴェル様。ご親切にありがとうございました」
それが、私たちの最後の言葉になった。これで良かったのだと、私は必死に自分に言い聞かせた。ヴェル様は幼馴染のお嬢様と結ばれ、私は商会の仕事に専念する。それが、正しい道なのだから。
『アイリス様の初恋のデータ、パスワードかけて永久保存させていただきます』
「テオ……好きにしてよ。まったくもう。そっか初恋かぁ。こっちの世界ではそうだよね」
テオ流の励ましはズレてるけど、それでも有難かった。確かに16歳の初恋だった。
出発の準備をしながら、最後の仕事を確認する。
「テオ、サンプルはこれでいいかな?」
『はい。技術的な完成度は95%以上。特に革の質感と銀糸の輝きのバランスは最高レベルかと』
寝台の上に広げられた深い蒼の革のブックカバーと栞のセット。銀糸で繊細な刺繍の縁取りがされている。王立学園の校章を模した「知は力なり」の文字も、古代語で上品に刻まれていた。支店の付き合いがある革工房で試作したサンプルだ。
王都支店に着くと、予想通りエトラ支店長が既に執務室で仕事をしていた。机の上の燭台の光が、彼の疲れた表情を照らしている。
「支店長、お疲れ様です。ご挨拶にうかがったのですが、お忙しそうですね」
「まぁ、忙しさの半分は君のせいではあるが、売り上げも伸びているから感謝していますよ」
「ふふふ、最後に、これが王都支店限定カップル名刺の企画書とサンプルです」
「おぉぉ、サンプルができたのか。企画書まで。……なるほど。ロマンス通りの雑貨屋とタイアップですか……」
「はい、この支店とロマンス通りは少し離れていますから。サンプルと注文書をおかせてもらって、売上げから数%を雑貨屋に支払うという方法です。インセンティブが入るのであれば、雑貨屋でも積極的に宣伝してもらえるかと」
「また、忙しくなりそうだ。初夏のハネムーンシーズンまでには軌道に乗せたいですね」
「私も、このレースカットとエンボス加工の所をソルディトで形にしておきますね」
「実は、昨晩レオンから連絡がありましてね。王都出張を1年延期しても構わないと」
エトラ支店長は、机の引き出しから一通の封筒を取り出した。
「これは、王都支店付きコンサルタントとしての辞令です。貴族のお客様からの評判も上々でしたし、ぜひ王都支店で働いていただきたいのですが……選択はアイリスさんに任せるようにと」
私は苦笑する。少しだけ、彼の顔がよぎった。
「ありがとうございます。でも、本店の仕事が待っているので」
「そうですか……残念ですが。王都支店移転のプロジェクトは、アイリスさんも参加するとのことなので、また、近々、会えますね」
「聞いてないんですけど……レオン会長の独断は相変わらずですね。でも、どちらにしろ1年後には侯爵家の調査結果を持ってまいりますので」
支店長の口元が、かすかに緩む。
「楽しみにしています。その時は、ぜひうちの支店で働くことも考えてくださいね。さて、他に何か……あ、そうそう。侯爵家の方々も、アイリスさんの突然の帰還を心配されていましてね。特に、若君が」
「あー、えーっと……あ! 最後にこれをお願いしたいのですが」
急いでサンプルを取り出す。深い蒼の革のブックカバーと栞のセット。
「これは……」
「新商品のサンプルです。学生向けの……図書館でよく本を読まれる侯爵令息様に、お似合いかと思いまして。あ、他の色のサンプルも来週にはこちらに届くはずです」
支店長は、銀糸の刺繍を指でなぞりながら、意味ありげな表情を浮かべた。
「売り側のこの薬草は……追憶草ですか。素敵なデザインですね。花言葉は 『大切な思い出』 でしたか。必ず、お渡ししますね。きっと、この意匠の真意も伝わることでしょう」
「そんな深い意味はありませんよ。追憶草は鎮静効果がありますので、目薬に利用されるんです。それでは失礼します」
執務室を後にして、帰りの駅馬車に乗り込んだ。
『アイリス様、心拍数が不安定です』
(仕方ないでしょ。乙女心は複雑なのよ)
今は何も考えずに、ただソルディトに帰るだけ。呪いの調査のために1年後また会うことになるけれど、その時は純粋に仕事として向き合えるはず。あのブックカバーだって、使ってもらえないかもしれない。それでも、最後のプレゼントを残したかっただけ。
馬車の窓から、王都の街並みを見つめる。楽しそうな人、怒ってそうな人、のんびり歩く人、走っている人、色々な人がいる。今日も、街角でパフォーマンスしている絵描きの卵や、音楽家の卵たち。カフェのテラス席で議論をする知識人たち。王都ならではの光景を目に焼き付ける。遠くに王立図書館の白い屋根が見える。
光景が、少しぼやけてきたけど、よく見えなくなってきたけど、頬が冷たいけど、でも、きっと大丈夫。私には仕事がある。テオがいる。月ちゃんだっている。いつか、この想いも薄れていくはず。そう信じることにした。
彼は、きっとブックカバーを受け取った時、あの刺繍の意味を理解してくれるだろう。それでいい。ほんの数週間の楽しかった思い出だけを覚えていてほしい。
1年後、私は解呪の報告書と共に、きっともっと成長した姿で戻ってこよう。その時までに、この想いもきっと……。
馬車は、王都を後にしてスピードを上げ始めた。




