2-12 突然の王都出張命令
春の柔らかな日差しが差し込む窓辺で、鏡に向かって髪を整えていた。16歳になり、シルヴァークレスト商会に入って、もうすぐ1年になる。生き急いでいる気がしないでもない。
「まあ、私もずいぶん大人っぽくなったわね」
『アイリス様、1年前と比べると身長が3.2cm伸び、体重も2.1kg増加しています。成長期の健全な発育と言えるでしょう』
「テオヴァリシウス・エイガンレイブン。女の子の体重データは特級機密事項だということを、今すぐデータ取扱いの最優先事項に設定しなさい」
朝っぱらからイラっとさせられた私の耳に、ノックの音が聞こえ、ミナさんが顔を覗かせた。
「アイリス、おはよう。レオン会長があなたを呼んでいるらしいわよ」
「えっ、会長が? ミナさん、ありがとうございます。まだ就業時間のかなり前ですよね……」
薬売場にいて呼び出されることは多いが、寮にいる時間に呼び出されるのは初めてだ。急いで商会に向かう。
『アイリス様、落ち着いてください。呼吸を整えて。心拍数が少し上がっていますよ。最近のアイリス様の行動には、通常通りの問題点以外に特に注意される行動はございません』
「人を問題児みたいに言わないでよ、テオ」
会長の執務室に入ると、レオン会長が笑顔で迎えてくれた。
「おはよう、アイリス。朝っぱらからすまんな、座ってくれ」
爽やかな笑顔が逆に怖いが、促されるまま椅子に座った。
「アイリス、君に頼みたいことがある。王都での名刺注文が好調すぎて、現場が大変なことになっているらしい。そこで、王都の支店を改装して、名刺受注スペースの効率をよくしてほしいんだ。あそこは、売場面積が狭くて、文房具専門店にしていたからな、かなり大きく改装することになるはずだ」
「それは素晴らしいですね。それと、私にどういった関係が……」
「ゆくゆくは、王都支店も百貨店形式の大型店舗にするつもりでね。今の支店の改装プランと同時に、王都の流行や他店の様子、出店する地域の候補なんかをアイリスの目でしっかりと視察してきてほしい。ブランディング戦略から名刺事業まで、ずっと働かせっぱなしだったからな、休暇も兼ねた1ヶ月の出張だ。ホテルの部屋も確保しておいたぞ」
「王都出張ですか! 行ったことがないので、現時点では何とも言えませんが……そうですね、日程と視察項目リストを提出しますので、それでよろしいかご確認くださいね」
「お前の計画書はいつもページが多すぎなんだよ……トバに提出してくれ」
なんか、テオもレオン会長も、最近、私の扱いが少し雑過ぎない? どゆこと?
薬売場に移動しながら、とりあえずテオに聞いてみた。
(テオ、どう思う?)
『アイリス様、王立図書館でのデータ収集効率は通常の1.8倍と予測されます。この機会に知識データを大幅に拡充できる……私も、大変楽しみでございます』
(あーね。うん、私も楽しみだけど、テオは本当にブレないわね)
準備に1週間かけ、要望も込めた出張計画書を事務長に提出し、王都サピエンティナへの旅に出発した。また疲れる馬車旅かと覚悟していたが、会長が用意してくれた商人向けの高級駅馬車に乗ったおかげで、快適な移動ができたうえ、思わぬ出会いがあった。
「なんと! 今、飛ぶ鳥を落とす勢いと有名なシルヴァークレスト商会の方でしたか」
同乗した中年の紳士は、駅馬車の経営者だという。駅馬車とは、定期的に出発する長距離馬車のことで、商人たちに重宝されている移動手段だ。
「これが私の名刺です」
私が名刺を差し出すと、紳士は感嘆の声を上げた。
「噂には聞いていましたが、実物を見るのは初めてです。なるほど、確かに初対面でも安心を感じさせる不思議なカードですな。私どもでも導入したいのですが……」
「名刺は確かに商売人には便利です。一目で所属から住所までわかっていただけますからね。でも、今後は偽の名刺を使う人がでてくるかもしれません。他人からもらった名刺は、うのみしない方がよろしいですよ」
「ほぅ、確かにそうですな。自分から欠点を教えてくださるとは、シルヴァークレスト商会は本当に誠実な取引をされているんですね」
気がつけば、馬車の中で相談と商談が始まっていた。
「実は、定刻馬車には広告を出したいという商人が多いんですよ。馬車の中で暇を持て余すお客様に、商品のカタログをご覧いただいて……でも、毎回作り直すのは大変で」
「そうですか。でしたら、冊子タイプのカタログではなく、ポケットフォルダタイプにしてはいかがですか? 二つ折りのフォルダの内側にポケットをつけて、そこに色々な商品のチラシを挟み込むんです。商品の変更が出たら、そのチラシだけを交換したらいいので経済的です」
「なるほど。それはいいですね。是非、詳しいお話を……」
話は盛り上がり、馬車の揺れを気にする暇もなかった。
駅馬車での広告事業。これは面白そうだわ。前世にあった、電車やエレベーターで強制的にCMを見せられるあの環境よね。カタログだけでなく、いっそ馬車に広告を貼るのもありかもしれない。車外は大きく他都市の商品の宣伝で、車内は乗っている商人向けの商品かな。あとはネーミングライツ。うちの商会が買うなら、2台あるらしいから「シルヴァークレスト1号」と「2号」かな。それとも、ひねって「シルヴァーウィンド号」と「スタークレスト号」なんてどうだろう。1日目は構想をまとめている間に眠ってしまった。
2日目の昼、馬車が小さな町に差し掛かった時、町はずれの私塾らしき建物に大勢の子供たちが集まっているのが目に入った。
(みんなで同じ本を順番に読んでいるのかな?)
『はい。本の数が足りないようですね。5人で1冊を共有しているようです』
休憩時間を利用して、私塾に立ち寄ってみることにした。建物に近づくと、子供たちの手には何か植物が握られているのが見える。
「あれ? それは……」
一人の男の子が持っているのは、見たことがない薬草だった。
『アイリス様、その薬草のデータが……ありません。未知の品種かもしれません』
テオが珍しく戸惑った声を出す。データ至上主義者は、データがない存在に動揺するようだ。
「ねえ、その草はどこで見つけたの?」
「え? あ、裏山で採ってきたんです。先生が薬草の絵が載ってる本を見せてくれて、みんなでよく探しに行くんです」
子供たちが次々と薬草を見せてくれる。その中には、珍しい品種がいくつもあった。緑知の指で鑑定すると、解熱や痛み止めの効果がかなり高いものもあった。
「すごいわ。こんなに貴重な薬草を、よく見つけられたわね」
「はい! でも、あんまり有名じゃない薬草みたいで、買ってくれる人が少なくて」
『アイリス様、この子供たちの薬草収集能力は非常に高いです。特にあの淡い紫色の草は、市場価値が想像もつかないほどですね』
(そうよね。これは協力関係を作らなくっちゃ)
「ねえ、お仕事の提案をしてもいいかしら?」
子供たちは警戒した目をしつつも、話は聞いている。
「この薬草、毎月集めてくれない? シルヴァークレスト商会で買い取るわ。その代わり……みんなに本をプレゼントするわね。一人一冊ずつよ」
子供たちは歓声を上げた。先生が駆けつけてきた。
「翠風学舎の学舎長をしております、ルーファスと申します。私の学舎は、資金面で苦しく、十分な教材も用意できていませんが……生徒たちはとても熱心でいい子たちばかりなのです」
学舎長は大きな手で頭を掻きながら、恥ずかしそうに微笑んだ。温厚そうな人柄が伝わってくる。
「この霊峰マガラスアリアの麓には、珍しい薬草が多く自生しています。生徒たちと共に、毎日のように採取に出かけているのですが……せっかくの良薬草を、適正な価格で買い取ってくれる商会が見つからず困っていたところでした」
学舎長が差し出した薬草を手に取って、質問をしてみた。
「この紫色の薬草、初めて見ます。効能を教えていただけますか?」
「ああ、これは 『紫晶草』 と呼ばれる珍しい薬草です。私が東方で商人をしていた時に見つけた薬草辞典に記載があり、この山でも生育することを発見したのです。睡眠を安定させる効果があるとされています」
「睡眠薬の原料として、とても価値が高そうですね。他には、どのような薬草が採れるのですか?」
「はい、この山は不思議な地質のせいか、東方原産の薬草が数多く自生しています。生徒たちは日々、新しい薬草を見つけては大喜びです。ただ、私の知識も限られており、せっかくの薬草の価値を十分に活かせていないのが心苦しいところです」
ルーファス学舎長は、私の提案を熱心に聞いてくれた。子供たちには毎月本を、残りの代金は現金で私塾に払うことを約束する。早速、今ある薬草を私の手紙と一緒に調薬室のサラさんとキオンさんに届けてもらうように頼んだ。子供たちは目を輝かせながら、どんな本が届くか想像を膨らませていた。
『アイリス様、素晴らしいアイデアです。この薬草を使えば、新しい薬の開発も可能ですね』
(うん。解熱効果の高い薬草なら、子供向けの薬が作れそうよね。子供達の見つける薬草で作った薬を、また子供達のために使えるわ。この世界は、まだ薬すら買えない子が大勢いると思うの。日本のような医療保険制度は無理でも、子どもの薬だけは何とかしたいなってヘルバの頃から考えていたのよ)
『はい。まさにWIN-WINの関係ですね。アイリス様、この世界の識字率や健康保険について、データベースを作成する必要がありそうです。王立図書館では、各地域の教育事情についても……』
(何でも図書館にこじつけられるのはテオの才能ね)
宿場町を後にして、馬車は王都へと近づいていった。そして3日目の夕方、ついに王都サピエンティナの城壁が見えてきた。
馬車を降りると、すぐに王都の雰囲気に圧倒された。美しく整備された石畳の道路には、色とりどりのおしゃれな服を着た人々が行き交い、様々な店が立ち並んでいる。
「テオ、あそこで絵を描いてる人がいるわ」
通りの角では、イーゼルを立てて風景画を描く画家の姿が。その周りには、興味深そうに覗き込む人々の輪ができていた。
『アイリス様、この通りには画廊が5軒。そして、芸術家のアトリエが12軒あります。王都の文化地区として有名な場所のようです』
確かに、通りを歩く人々の中には、スケッチブックを抱えた若者も多い。書店の前には、新刊について熱心に議論する学者らしき人々の姿もあった。
「テオがいたら、ガイドブックはいらないわね。それにしても、ソルディトとは全然違う雰囲気だわ」
『はい。特に注目すべきは知識人の多さです。王立科学アカデミーの研究者や、王立図書館の司書、そして各国の学者たちが集まる学術都市としての一面も……あ、アイリス様! 図書館はあちらです! 急ぎましょう!』
「もう、テオ。そんなに興奮しないで。私たちには1ヶ月もあるのよ?」
『アイリス様、期限まで残り31日しかありません。即座の対策が必要かと存じます』
テオの熱意に押されて、荷物も置かずに図書館に向かうことになった。白大理石の柱が並ぶ荘厳な建物。その前に立った瞬間、私も息を呑んだ。
一歩中に入ると、そこは別世界だった。高い天井、美しいステンドグラス、そしてどこまでも続く書架。静寂に包まれた空間が、私を包み込む。
『素晴らしい……アイリス様、この図書館には約500万冊の蔵書があります。そのうち、約10万冊が貴重書や古文書です。まずは薬学書を、それから経済史を、そして芸術論も……あ、あちらに見える棚には錬金術の稀少な文献が!』
「落ち着いて、テオ。計画的に進めましょう」
『申し訳ありません。では、1日5時間、100冊のペースで30日間。合計3000冊を目標に。分野別に計画を立てますね。薬学が800冊、経済学が500冊、歴史書が──』
「ねぇ、待って。1冊3分で、5時間もめくり続けるの?」
『もちろんです! このような機会は滅多にありません。図書館は24時間開館していますから、夜間も利用できます。睡眠時間を6時間に抑えれば更に1000冊は……』
「ダメよ。健康第一。いつもとセリフが逆じゃない。腱鞘炎になっちゃうわよ」
『腰痛用の湿布を貼るという手が……こんな機会は二度とないかもしれませんし』
「テオ、王都支店の視察と王都のマーケティング調査という本来の目的も忘れないで」
『はい……申し訳ありません。では、目標を下方修正いたします』
テオのデータマニア全開の様子に、思わず笑ってしまう。前世の私も、趣味に没頭した経験はあったけれど、私の体調より優先するほどのテオの熱量には驚かされる。でも、その気持ちは少しわかる気もする。美しく装丁された本、古い羊皮紙の文書、最新の学術雑誌。それらが醸し出す独特の香りに、私も心地よさを感じていた。でも、図書館って昔から何でかトイレに行きたくなるんだけど……
「ここで過ごす1ヶ月、きっと素晴らしいものになるわね」
『はい、アイリス様。膨大な知識の海に飛び込む準備は整いました。では、まずあちらの棚から……』
「テオ、今日はもう遅いわ。明日から計画的に始めましょう」
『えっ!? でも、アイリス様。今からでも2時間は……』
私はかなり呆れながらも、そんなテオの一生懸命な声を聞いていると、この1ヶ月がとても楽しみになってきた。




