2-6.5 【閑話】天気予報インフルエンス
10年後の一部に少しだけ今後のネタバレがあります。
飛ばしても本筋には問題ないので、ネタバレ嫌い派の方は、終わりの方の10年後は飛ばしてください<(_ _)>
アイリスとテオが構築した天気予報システムは、3年後に完成し、多方面に予想外の展開を見せることとなった。コンサル的に言うと、「業界標準を刷新する革新的なソリューション」だ。完成までの道のりは想像以上に大変だったが、アイリスとテオはその困難を楽しんで研究を続けた。
「アイリス様、ソルディトの図書館に行きたいのですが......」
天気予報システムの開発を頑張っていたある日、テオがおずおずと切り出した。普段の自信満々なデータ分析モードとは違う、まるで親の機嫌をうかがう子供のような声色だった。
「図書館って週1で行ってるじゃない。何かお目当てがあるの?」
『はい......気圧計の仕組みについて書かれた帝国の書物が入荷したそうで......』
「また、時計職人さんと眼鏡職人さんの会話を盗み聞きしたの?」
『はい! あ、いえ、偶然耳にしただけです。コホン。それだけではなく、他にも、航海日誌の記録や、食料・農業白書を読み込めば、長期間の変動をデータ分析できるのはないかと……しかも! 図書館には100年分の気象記録が残ってるそうです! 今すぐデータ収集に! あ、その……お時間があれば……』
アイリスは思わず吹き出した。テオの人間臭さはますます進み、最近は自分の欲望に忠実な発言をする。結局、アイリスは図書館通いを週2にすることになった。テオは、古今東西の気象に関する書物だけでなく、この世界の最新技術から民俗学、近隣のあらゆる記録を、貪るようにデータベースに取り込んでいった。つまり、アイリスはひたすら書物をめくった。
『アイリス様! この本によると、帝国では気圧の変化を水銀柱の高さで測定しているそうです。正確性という意味では、テクノロジーの発達が──』
(テオ、落ち着いて。内容の検討は後よ。そっちの民間伝承を集めた寓話集も早くデータベース化したいわ)
アイリスは頭の中で興奮気味に語るテオを宥めながら、天気にまつわる民間伝承の聞き取り予定を作成した。それから、市場で出会う人々から天気に関する言い伝えを集め始めた。
「蜘蛛の巣が増えると晴れが続くんだ」 老漁師が教えてくれた。
『生物の行動パターンによる天候予測......興味深いデータですね』
「カエルの鳴き声が賑やかだと雨ね」 農婦から聞いた話。
『両生類の生態と気圧の関係性......素晴らしい観察対象ですね』
アイリスとテオは、民間伝承の科学的根拠を考察し、信頼できる情報を取捨選択していった。
「つまり、気圧の低下は昆虫や鳥の行動に影響を与え、湿度の上昇は両生類や昆虫を活発にし、風向きの変化は鳥や昆虫の飛行パターンを変え、気温の変化は動物全般に影響を与えるって感じね」
『はい。生物の行動が天気に反応する理由は、そのように分析できます。この要素を盛り込むことによって、ソルディト周辺の短期の天気変化の予測精度が、かなりあがると考えられます』
時には、思わぬ嬉しい発見もあった。
「ねぇ、テオ。雨の前日は、一部の薬草の効能が高まるみたいなの。月下香と夜風草とか」
『興味深い観察です、アイリス様。気圧の変化が薬効に及ぼす影響についてのデータベースを作成いたしましょう!』
「テオの本領発揮ね!」
『はい! これは見逃せないデータです。気圧と薬効の相関関係を──』
「私も賛成よ。天気予報と薬草の効能予報、両方できるようになるかもしれない。例えば、月の満ち欠けと薬草の相関関係がわかれば、レアな朔月草の秘密もわかるかもしれないわね」
アイリスが、このような情報を調薬室のキオンに話すと、俄然やる気になり、薬草の機械分析結果を天気という観点から調べ始めた。
「アイリス! 雨が3日続いた後の晴れた日は、星月草の効能が最も高くなるようなんだ」
「興味深いですね。連続した雨で土壌の湿度が上昇し、その後の日光が星月草の成分濃度を高めているのでしょうか。他の薬草も確認したいですね」
様々な発見が続き、シルヴァークレスト商会の調薬室は、薬草の採取や調薬のタイミングを最適化することによって、より効果の高い薬を提供できるようになった。
アイリスとテオは、そうやって3年後に 『天気予報システム(Ver.1)』 を完成させた。
レオン会長によって新しく作られた専門チームにそのシステムを引継ぎ、そのチームが的中率80%という好成績を出したことによって、アイリスはやっと天気予報係りを卒業できることができた。
アイリスは専門チームに情報を引き継ぐ時に、自分が手をつけられなかった課題、例えば、植物に関する民間伝承の検討、天文学的要素の検討、雲の形状の分類と動きの観察などの課題を残した。周辺国とも情報交換をするようになった専門チームは、さらにその2年後に発表した 『天気予報システム(Ver.2.3)』 で、的中率を90%まで引き上げることに成功した。
アイリスが商会入口に掲示を始め、その後、システムで予報するようになった精度の高い天気予報により、ソルディト周辺では農業の生産性が大幅に向上し、漁業では安全性が格段に高まった。また、商業においても、天候を考慮した効率的な取引が可能になり、経済全体が活性化した。
ソルディト以外への影響も凄まじかった。
『天気予報システム』と、それがもたらすメリットの噂を聞きつけた他の地域の人々が、アイリスのもとを訪れるようになった。エルドミア王国の気象学者、アザランス帝国の研究者、ヴェルダーシア連邦の船乗りたち。彼らは皆、自分たちの地域での天気予報システム構築について相談に来たのだ。
アイリスは、レオン会長から協力するように言われ、彼らにアドバイスを行った。
「大切なのは、毎日同じ時間に空を観察すること。そして、その土地特有の天気の前触れを見つけ出すことです。数字のデータも同じ時間、同じ条件で記録を続けなければ分析結果の精度が落ちます。また、民間伝承は、どんな話しでも除外せずに検討しなければなりません」
彼女は、自分たちが行ってきた観察方法と記録の取り方を詳しく説明した。テオの天気予報に関するデータベースの設計思想もこの世界にわかりやすく共有し、各地域でどのようにカスタマイズできるかを提案した。
エルドミアの気象学者たちは、寒波予測に特化したシステムの開発に着手した。彼らは独自の観察項目として、氷晶の形状や極光の出現パターンを加えた。時には手紙でアイリスに進捗を報告し、アドバイスを求めることもあった。
アザランス帝国では、学術研究院が中心となって組織的な観測網を構築した。最新の観測機器を活用し、より精密なデータ収集を始めた。 『数理の眼』 というスキルを持った研究者二人が中心に天気予報システムを開発した。彼らは、テオのようなデータベース分析や、天文の計算ができ、定期的にアイリスに研究結果を送り、意見を求めた。
ヴェルダーシア連邦の取り組みは特に興味深かった。海運国家として、彼らは嵐の予測に特別な関心を持っていた。
「アイリス嬢、波と雲の関係について、何か知見はございませんか」
商用で訪れた船長組合の代表は、航海日誌を広げながら熱心に質問した。アイリスは商談の後、時間を取って話を聞いた。
「私の知識は陸地での観察が中心です。むしろ、航海を重ねてこられた皆様の方が、海上の天気の変化には詳しいはず。大切なのは、その経験を体系的にデータ化することです」
アイリスは、テオと共に開発した記録方法を説明した。船長たちは、これを基に独自の海洋気象観測システムを構築していった。各地の灯台に観測機器を置き、波の高さ、潮流の変化、海鳥の飛び方まで、あらゆる情報を記録し始めた。
他の地域でも、それぞれの土地に合わせた観測方法が確立されていった。
砂漠地帯のオアシス都市では、砂塵の色や風の匂いから砂嵐を予測する方法を見出し、山岳地帯の村々では、谷風の変化パターンを詳しく記録。鉱山労働者たちの経験則と組み合わせることで、地域特有の天候変化を予測できるようになった。
── 10年後 ──
シルヴァークレスト商会での仕事に就いてから10年。王都で暮らすアイリスの机の上には、各地からの報告書が積み重なっていた。
「テオ、見て。エルドミアの冬の予報、すごく精度が上がったみたい」
『はい。現地の気象学者たちの努力の賜物です。特に、極光の出現パターンと寒波の関係性の発見は画期的でしたね。できれば、現地に行って確認したいですね』
商会の幹部となったアイリスは、各地を訪れる機会も多かった。訪問先で現地の観測所を見学させてもらうと、その土地ならではの工夫に感心させられた。
「私たちが始めた小さな取り組みが、こんな風に育っていくなんて」
『はい。各地域の方々の創意工夫により、予報システムは進化を続けています』
特に印象的だったのは、各地域が互いの知見を共有し始めたことだった。エルドミアの寒波予測手法が、山岳地帯の霜害対策に応用された。ヴェルダーシアの波浪予報技術が、沿岸部の防災に活かされた。
アイリスの役割は、もはやアドバイザー的なものに変わっていた。各地から相談を受けることはあっても、実際のシステム運営は現地の人々が担っている。
「これこそが理想的な形ね」
『その通りです。アイリス様の知識は種となり、各地で独自の花を咲かせました』
商会での本来の仕事も充実していた。天気予報の知識は、薬草の取引にも大いに役立った。いつ、どこで、どんな薬草が最高の状態で採取できるか。その予測は、取引の重要な判断材料となっていた。
「でもテオ、まだまだ発見はありそうよね」
『はい。例えば、昨日エルドミアから届いた報告書によると──』
「リス、そろそろ休憩の時間だよ」
夫の優しい声が、書斎に響いた。
『申し訳ございませんが、アイリス様、この新しいデータの相関関係がとても重要でして──』
「お茶の時間の方が重要だよ。テオ殿、データの分析は後ほど」
『しかし、この傾向は見逃せません。アイリス様、エルドミアの観測所からの報告によれば──』
「君には、リス好みの紅茶を淹れることはできないだろう?」
夫の言葉に、テオは一瞬黙り込んだ。
『......確かに、私は物理的な行動は制限されております。しかし、アイリス様に一番頼りにされる高機能アシスタントといたしましては──』
「私の妻の健康管理も重要な案件だと思うのだが」
アイリスは思わず笑みを浮かべた。結婚して数年になるが、夫とテオの会話はいつもこんな調子だった。
「二人とも、私の心配をしてくれるのはうれしいけど」
『では、アイリス様。エルドミアのデータを......』
「リス、特別にブレンドした紅茶を入れたよ。君の大好きなブルーベリーの香りを加えてみたんだ」
『アイリス様、この気圧配置の変化は......』
「ほら、お菓子も買ってきたんだ。君の好きなスイーツショップの新作だよ」
アイリスは、がんばって真面目な表情を保とうとしたが、つい吹き出してしまった。
「あのね、テオ。30分だけ休憩するわ。その後でデータの確認をしましょう」
『はい......承知いたしました』
「ありがとう、大好きな紅茶を淹れてくれて」
夫の顔が明るく輝く。テオが少し拗ねたような声を出す。
『......アイリス様の効率的な業務遂行のために、休憩も必要ですからね』
「そうよ。だからテオも、この素敵な香りを解析してみたら?」
『そうですね。アイリス様と2人で初めての共同作業をして調合した薬草茶を思い出す香りですね』
「ふふ、テオ? 今の言葉、結婚式の台詞じゃない?」
夫が静かに微笑む。彼は妻の幸せそうな笑顔を見つめながら、密かに勝利を確信していた。もっとも、30分後には再びテオがアイリスの関心を業務データで引きつけることになるのだが。
「あら、素敵な夕焼けね」
アイリスが窓際に立ち、空を見上げる。夫とテオは、同時に声を上げた。
「明日は晴れになりそうだね」
『明日の天気は快晴です』
また笑いが溢れる。幸せな時間が流れていく。窓の外では、夕暮れの空が美しく色を変えていった。
明日も、アイリスは大切な二人に見守られながら、新しい発見の日々を過ごすのだろう。それは、彼女にとって何よりの幸せだった。




