2-2 ドッキドキの初出勤(1)
『おはようございます、アイリス様。本日の天気は晴れ、最高気温24度、最低気温16度です。湿度は55%で過ごしやすい1日になりそうです』
テオの声で目を覚ます。今日はシルヴァークレスト商会への初出勤だ。
「おはよう、テオ。今日のおすすめの髪型とメイクは~?」
『本日は、端正に見えつつエレガントな印象を与える編み込みのハーフアップスタイルがおすすめです。メイクは、自然な血色感を演出するピンクベージュのチークと、明るい印象の薄いブラウンのアイシャドウがよいでしょう。リップは必要ありませんので、保湿クリームだけ持ち歩いてください』
窓を開けて爽やかな朝の空気を深く吸い込む。共用の洗面所で顔を洗い、テオのアドバイス通りに身支度を整える。ヘルバでは日焼け止めを塗る程度だったけど、今日からは接客業らしく軽いメイクをすることにした。といっても、28歳の記憶的には憎らしいくらいに、肌のきめは細かく整っていてファンデいらずだ。簡単に色を乗せる程度のメイクをして、鏡の前で接客スマイルをしてみる。清潔感があり、かつ明るい印象だ。さすが私を知り尽くした、テオのオススメ。
「よし、これで準備オッケー。第一印象が大事だもんね!」
『アイリス様、心拍数が上昇しています。深呼吸を』
「わかってるってば。昔は、もっと大きなプレゼンだってこなしてきたんだから。あ、急がないとお弁当を作る時間が無くなっちゃう!」
初日のお昼はどうなるかわからないから、共同キッチンで簡単なお弁当を作ることにした。
相変わらず冷たい雰囲気の食堂で朝食をサッと済ませて、お弁当を作り、大事な書類を持って商会に向かう。歩いて10分程度だ。建物が見えてきたとき、思わず息を呑んでしまった。3階建ての大きな最新式の建物には、鉄とガラスがふんだんに使われ、モダンで洗練された印象を与えていた。ショーウィンドウが朝日を反射し、まるで建物全体が輝いているかのようだ。
「すごい……パリやロンドンの戦前の建物みたいね」
『確かにこの世界で初めて見るタイプの印象的な建築物ですね』
「テオ、社長室への行き方を教えてくれる?」
『かしこまりました。裏の従業員入り口から入り、左奥の階段を3階まで──』
聞いておいてなんだけど、何でテオは初めて来た建物のプランを把握してるのだろうか……
9時ジャスト。レオン会長の執務室のドアをノックする。この世界にも小うるさいノック回数ルールがあったらどうしようと思いつつ、中から許しの声を聞いてドアを開けた。
「失礼いたします」
イケメン金髪碧眼のレオン会長。28歳で大商会を取り仕切るやり手の会長だ。厳しそうな目つきの中に、好奇心が垣間見える。前世なら同い年だったと思えば、特に緊張はしないか。
「おはよう、アイリス嬢。よく来てくれた」
会長はニッコリ笑うと少し幼く見える。この人懐っこさに騙されると痛い目をみるんだろうな。
すかさず、準備してきた大事な書類、『履歴書』 を差し出す。
「レオン会長、お世話になります。こちら、私の履歴書です」
難しい顔をして書類に目を通したレオン会長が、突然、笑い出した。
「ははは! これは面白い! 履歴書? こんな書類はみたことないぞ」
顔が熱くなる。しまった、この世界に履歴書の概念もなかったのか。
「自己紹介として必要かと思い……申し訳ありません」
「いや、謝ることはない。これは経歴が一目でわかる素晴らしいアイデアだ。今後の社員採用時の使用を検討させてみよう。さすがだな、アイリス。どんどん新しいアイデアを出してくれ」
そう言って笑う会長の表情に、ホッとする。なんか、あっという間に呼び捨てになったけど、まぁいっか。なんとか挨拶は終わった。ミッションクリアだ。
その後、受付のきれいな姉さんに商会の建物を案内してもらうことになった。レオン会長の執務室がある3階は、高級な内装が目を引く。深紅のカーペットに金箔の装飾。前世の外資系の超高級ホテルを思い出す。ヌン活が懐かしい。10人ほどの事務員が忙しそうに働いている事務室や、会議室、VIP対応の応接室などがあった。全体的に、まだ新しく、使っていないスペースも目立っている。
『アイリス様、この階の装飾品の90%が金箔を使用しているようです』
(塗装じゃなくて、金箔なんだ。レオン会長は本物志向なのかもね)
案内してくださっているお姉さんが、誇らしげに天井を指差す。
「ご覧ください。こちらの照明は、王都でもまだ1部にしか普及していない電気を利用したものです。夜でも昼間のように明るく、しかも火事の心配がありません」
「オイルランプとは比べものにならない明るさですね」
『アイリス様、この照明技術は現代の白熱電球に近いものかもしれません。電気抵抗による発熱を利用した……』
(テオ、理系男子モード? データ収集と分析はほどほどにね)
秘書さんは続けて、建物の中央にある大きな箱のような構造物を指した。
「こちらはエレベーターという機械です。帝国の最新技術で作られており、安全装置も完備しております。階段を使わずに上下の階に行けるんですよ」
「え! エレベーターですか! すごいですね」
『アイリス様、このエレベーターはテクノロジーの発展過程的に大変興味深いです。動力は電気もしくは蒸気ですかね、あとでじっくり見学いたしましょう』
(はいはい、そんなにイキイキした声をださないで)
1階に降りると、まるで前世の百貨店のような売り場が広がっていた。天井高が高く、大きなガラス窓とシャンデリアのような照明が素敵な、とっても広々とした空間だ。玄関ホールの床の美しい意匠のモザイク張りだけでも、すごい建築費用がかかっていそうだ。
秘書さんの後ろをついていきながら、テオとおしゃべりする。こういう時は脳内会話は便利よね。気の合う友達とショッピングに来たみたいな気分だ。
『アイリス様、この売り場の商品構成を分析いたしましょうか?』
(今後の商品開発の参考になりそうね。見てるだけでワクワクするわ)
既製服やアクセサリー、バッグ、靴が並び、珍しい外国の商品も多いみたいだ。おしゃれな小物や文房具も見える。向こうの方には食器も並んでいるようだ。
『商品の約35%が輸入品、その内60%がアザランス帝国製。次いでヴェルダーシア連邦が25%を占めています』
(へぇ、やっぱり帝国製品が多いのね。品質の良さが売りなのかしら)
レースのハンカチが目に留まる。美しい植物の刺繍に思わず手が伸びる。
(すっごく素敵! これ、欲しいなぁ……って、7銀貨? えぇぇ、7000円のハンカチなんて、もったいなくて使えないわよ)
『アイリス様、このハンカチの刺繍は非常に精巧です。恐らく、熟練の職人がかなりの時間をかけて作り上げたものでしょう』
(前世で商品開発を担当した時、職人技の価値は痛いほど理解したわ。むしろ、この世界の物価と給料の比率が気になるところね)
『現在の給与水準と物価の相関を分析するためには、さらなるデータを──』
(あ、テオ! 傘よ傘! この世界にも傘があるのね。初めて見たわ)
『撥水加工された絹織物を使用しているようです。どういった溶剤で撥水加工しているのか、非常に興味深い技術ですね』
(ふむ。晴雨兼用かしら、デザインはシンプルすぎるわね。男性用商品? 私なら、柄を入れたり、レースの縁取りを足したりするわ。でも、これなら、薬草採取の時にいいかもしれない)
『アイリス様、右奥の棚もご覧ください。香水の陳列棚ですよ』
(あ、本当。あれって、前に市場で見たアザランス帝国の高級ブランドじゃない? あの深い紺色は遮光性のためかしら。デザインもモダンで素敵よね)
香水売り場の向こうには、20歳前後の美しい店員さんたちが立っている。彼女たちの優雅な立ち振る舞いを見て、少し複雑な気持ちになる。本当は私も14歳じゃなくて、28歳なのに。もっと胸もあったし、お化粧だってガッツリできたのに。
『アイリス様、外見年齢に一喜一憂なさるのは生産性が──』
(わかってるわよ。でも、この身体であの制服を着こなすのは難しそう……)
確かに、前世ではスーツを着てバリバリ働いていた。でも、今の私は14歳の少女。着こなしも、話し方も、全てが違う。
(やっぱり田舎者っぽいのかしら? でも、前世の私からすると許せないわ。ファッションでバカにされるなんて!)
『では早速、アイリス様のファッションデータベースを再構築いたしましょう。今後の購入予定品のリスト化も必要ですね。まず、このお店の商品の色調分析から──』
(テオ、いきなり趣味を暴走させないで!)
受付でおしゃべりしていたお姉さんに声をかけられる。
「だいたい、1階の様子はわかったかしら? あなたは薬売り場専門販売員だから、1階に異動になることはないと思うわ。でも、お客様に聞かれたときは案内することもあるから、少しずつ他の売り場も覚えてちょうだいね。次は2階にいきましょう」
1階の見学を終え、いよいよ2階、私の配属先である薬売り場へ。緊張と期待で胸が高鳴る。
(テオ、私、やっていけるかな? もうちょっと大人っぽくしてくるべきだったかしら)
『大丈夫です。アイリス様はありのままで、きっと認められるはずです』
(最初の挨拶でしっかり好印象を与えなくちゃ)
前を歩く秘書の背中を見つめながら、私は深く息を吸った。いよいよ、新しい職場だ。




