1-22 自縄自縛の倫理観
転生して3回目の今年のスプリングフェスティバルで、私は初めて自分で作った薬を販売することに決めた。去年の夏前には、いくつかの薬は作れるようになっていたのに、ある理由で今まで販売に踏み切れなかったのだ。
「よし! これで明日の準備は大丈夫ね」
私は作業台の上に並べた小さなガラス瓶を確認しながら、何度目かの確認をする。琥珀色の風邪薬、淡い青色の胃痛薬、クリアな頭痛薬。全部、他の薬屋さんの薬より断トツで効き目が強いのは鑑定で確認済みだ。
『アイリス様、もう夜も更けております。本日の作業はここまでにされては? 疲労度が臨界値に達しつつありますので』
「もうちょっとだけ。まだ確認したいことが……」
『無理は禁物です。明日に支障が出ては本末転倒かと』
「はいはい、わかったわ」
そう。私がこの薬を売り出すまでに、丸1年もかかってしまった理由。それは……。
―――― 一年前 ――――
お父さんの調薬室で、私は出来上がったばかりの咳止め薬を、明かりに透かして見ていた。
「ねぇ、テオ。これ見て! 煎じるだけの薬草より、断然効き目が強いの。お父さんのレシピ通りに作ったんだけど、鑑定した特上品の薬草だから、普通の薬より効果がかなり高いわ」
『確かに素晴らしい出来栄えですね』
「あのさ……あのね、前世にはね、薬害って言葉があったの。製薬会社の隠蔽とか行政の不作為とか、原因は色々だけど、多くの人が苦しんでいたわ」
私は作業台に突っ伏して、気になっていたことを顔を上げずに話し始めた。
「効き目が強すぎる薬で、副作用が出て……めっちゃ大変なことになったの。だから、この薬もさ……」
『なるほど。それで販売を躊躇われているのですね』
「そう。お父さんが作っていた薬と私が作った薬は、レシピが一緒でも効き目の強さが違うわ。誰かに合う薬でも、誰かには合わないことだってある。……これって前世だけの考え方かな? この世界では薬害とか副作用なんて言葉を聞いたことはないし。でも怖いんだよね……薬は命にかかわることだからさ」
『アイリス様の脈拍が急激に上昇し、呼吸も浅くなっています。この世界と前世の価値観の狭間で、強いストレスを感じておられるようですね』
「もうっ! 体調から私の心を読まないでよ!」
私が思わず顔を上げて叫んだ時、テオがさらっと提案をしてきた。
『アイリス様、パッシブスキルの体調管理に、新しい機能を追加しましょうか? そのスキルで、他者の体調を詳しく分析できます。非侵襲的な量子センシング技術を応用し、生体内の分子レベルの変化を光量子の干渉パターンから読み取ることがで、他者の生理学的データをリアルタイムで解析することが可能になります。そのスキルを使えば治験で薬効を確認することが可能になります』
「待って、テオ。その説明、私には全く理解できないわ」
『申し訳ありません。簡単に言えば、薬を飲んだ方の体の状態を、詳しく確認できるようになるということです』
「えぇぇ! それって、完全にアウトでしょ!? 他人の体の情報を勝手に見るなんて……違法行為じゃない」
今までのスキルと違って、他人に干渉するスキルだ。他人の個人情報は知りたくない。
『この世界には、アイリス様の言う個人情報保護やコンプライアンスという概念はありません』
テオは淡々と答えた。
「そうだけど……前世の感覚は全部捨てなきゃダメなの? なんかそれって、違う気がする」
私は躊躇してしまう。前世の記憶が鮮明によみがえる。
◇
コンサルタント会社で働いていた頃、クライアントの機密情報を扱う際の緊張感。
『この資料には個人情報が含まれています。取り扱いには細心の注意を払ってください』
上司の厳しい声が耳に残る。データベースへのアクセス権限を厳格に管理し、不要なデータは即座に削除する。クライアントとの会話も、必要最小限の情報のみを扱う。
ある日、後輩が気軽にクライアントの情報を他社の社員がいるエレベーター内で共有しようとしたときの恐怖。
『今はダメよ! 戻ってからにして』
重大なコンプライアンス違反を必死で止めた記憶。その後の緊急会議、再発防止策の策定……
◇
「テオ、私……どうすればいいの? 例え概念がなくても、コンプラ違反には抵抗があるわ」
『では、アイリス様。仮定の話をさせていただいてもよろしいでしょうか?』
「仮定の話?」
『はい。もし目の前で誰かが倒れていて、その方を助けられる可能性があるとします。しかし、その方の体に触れずには助けられない。その場合、アイリス様はどうなさいますか?』
「それは……もちろん助けるわ」
『その通りです。バイオスキャンも同じことです。人々を助けるための手段なのです』
「テオ、あなたって意外と説得上手ね」
『いえいえ、単なる論理的な帰結です』
テオは少し照れたような声を出す。
「テオって、照れ隠しで理屈っぽくなるのね」
『アイリス様! 私はAIですので、照れるという感情は──』
「はいはい、わかってるわよ。……うん、そうね、人を助けるために必要なこと。私のこだわりで救える命を粗末にするのは間違ってる。こだわりたいなら、こだわり方の工夫を考えればいいのよね。テオ、そのスキルを使うわ。でも、条件があるの」
『はい、どのような条件でしょうか』
「前世の個人情報保護の基準で、データを管理してほしいの。得た他人のデータは絶対に漏らさないこと。全て暗号化して匿名管理をすること。そして、治験者からは同意書をもらうこと」
『承知いたしました。私はあなたの意思を尊重します。匿名化処理を施したデータベースを作成し、効果確認後はデータを完全削除いたしますのでご安心ください』
「え? テオ、データ消すの? あんなにデータマニアなのに?」
『はい。アイリス様の倫理観を尊重することが、私にとって最優先事項ですので』
「テオ……もう、本当にありがとう」
『おや、アイリス様。瞳孔が15%拡張し、心拍数が12%上昇。涙腺も活発化しているようですね。感動で泣きそうになっているのでは? これは温かい薬草茶を差し上げるべき状況かもしれません』
「テオ! 過保護分析はやめてよ!」
でも、本当に嬉しかった。テオの提案のおかげで、私の中でモヤモヤしていた霧が晴れていく感じがした。
そうやって、私は慎重に治験を始めた。市場で報酬を明確にして募集した治験者に、きちんと体に合わない可能性があることを説明して、同意書をもらう。もちろんバイオスキャンという言葉は使わずに。
「ほう、これが同意書かい? 毎日、アイリスちゃんが身体の状態確認するのが条件だね。体調が悪くなったら、即座に中止して、その後の治療費は全部見てくれるって? 随分としっかりした書類じゃないか」
「前世……じゃなくて、お父さんから、薬を作る時は安全が一番大切って教わったから!」
同意書をもらって、慎重に投薬を始めた。毎日、全員の身体をバイオスキャンして、その中から薬の影響範囲のデータだけを暗号化してデータベース化していく。もちろん、テオのデータベースが外部に流出する可能性がないことはわかっているけど、それでも「絶対」ではない。テオには負担をかけるけど、私のこだわりを通してもらう。例え自己満足でも。
「おお、アイリスちゃん。この薬はすごいぞ! 頭痛が嘘みたいに消えたわい」
「本当ですか? でも、心臓がドキドキするとか、強い眠気を感じるとか、気分が悪くなったりしませんか?」
「いやいや、全然大丈夫じゃ。むしろ体が軽くなった気がする」
その瞬間、私の目の前に半透明の画面が浮かび上がる。
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バイオスキャン分析結果:
- 脳内セロトニン濃度:32.1%
→ 58.7%(82.9%上昇)
- 末梢血管拡張率:17.3%
→ 31.6%(82.7%改善)
- 筋肉組織の乳酸濃度:6.8mmol/L
→ 3.2mmol/L(52.9%減少)
- NK細胞活性度:1.4
→ 2.3(64.3%上昇)
総合的な生体機能指数:61.3
→ 82.1(33.9%上昇)
副作用指標:検出限界以下
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(すごい…こんなに効果があるなんて)
正直、前世の細かい医学用語はわからないけれど。
『アイリス様、この結果は非常に良好です。副作用も見られません。ただ、その……』
(どうしたの? 珍しく歯切れが悪いわね)
『バイオスキャンの使用に、私の計算力をかなり使用してしまいました。2時間ほど省エネモードに入ります』
(そんなにバイオスキャンの演算って大変なのね。休憩する?)
『いえ、大丈夫です。ただ、一時的にアイリス様の服装のアドバイスができなくなるかもしれません』
(それは逆にラッキーね!)
『アイリス様! それは酷いです……』
こうしてテオと冗談を言い合いながら、少しずつではあるが、私は薬に自信を持てるようになっていった。そして、予想外の効果もあった。緑知の指スキルに、新たに治験の技能が加わったのだ。
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【スキル】 緑知の指
(採取、鑑定、探知、調合、栽培、抽出、
調薬、治験)
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「テオ、もしかして……これでバイオスキャンを使わなくても副作用の確認ができるようになったの?」
『はい、アイリス様。あなたの努力が実を結びました。これからは、治験と鑑定のスキルで、薬そのものから副作用を確認できます』
私はほっと安堵のため息をついた。
「やっぱり、他人の情報を知るのは気が引けるから、バイオスキャンは、OFFにしておくわ」
『アイリス様のその倫理観こそが、私がおそばにいる最大の理由です』
「えぇぇ、急にどうしたのよ」
こうして、私のステータス画面のスキルの中で、バイオスキャンは初めてOFFにするスキルとなった。
―――― 現在 ――――
『アイリス様、明日のフェスティバルにふさわしい、可愛らしいコーディネートを考えました』
「テオ、それは聞かないでおくわ! 月ちゃーん、聞いて聞いて! 明日から薬を売るのよ~」
私は窓の外を見つめた。市場では、フェスティバルの準備が着々と進んでいる。遠くに見える街路には色とりどりの旗が揺れ、春の風が心地よく通り抜けていく。
「月ちゃん、明日のスプリングフェスティバル、頑張るわね!」
異世界に来て3年目なのに、前世の価値観を完全に捨て切れないでいる自分。それでも、その価値観があったからこそ、安全な薬を作ることができたのだ。治験をした中には、副作用とまではいかなくても、狙った効能以外の影響がでる薬もあったので、それは薬草の組み合わせや濃度を調整して完成させたりもした。頭痛薬を始め、胃痛薬、風邪薬、酔い止め、そして市場の店主たちの強い要望で二日酔いの薬まで、様々な薬を安定して作れるようになっていた。これらの薬が、きっと多くの人々の生活を楽にしてくれるはずだ。
「きっと大丈夫。私の薬で、多くの人を幸せにできるはずよね」
『その通りです、アイリス様。私も全力でサポートさせていただきます』
「テオ、月ちゃんタイムなんだけど?」
『うぐっ……』
総務事務経験者は、異世界に行ったらみんなこうなると思うの……シュレッダー欲しいとか、年末調整が無い世界でよかったとか。




