おや……妻の様子がおかしい…… 後編
儀式の参列者名簿を頭の中に入れ終わったミラジェは、鏡に映った自分を見ながら、ぼんやりと考え事をしていた。
一ヶ月前の自分とは比べ物にならないくらい、顔色の良い桃色の頬。襟ぐりの開いた今日のドレスだって着られてしまう、傷の目立たなくなった体。
その全ては、このエイベッド家が、シャルルが与えてくれたものだ。
シャルルは、ミラジェがエイベッド家で暮らすようになってから、ミラジェに対して娘を見守る父のように接していた。貴族として足りない教養があると言えば、専門の家庭教師を手配し、エイベッド家についてわからない部分があると言えば、家に関する資料を惜しげもなく見せてくれた。本当に、こんなことまで知って良いのか、と思うほどの情報も。
お坊ちゃん育ちの擦れがなく真っ直ぐなシャルルの優しさは、ミラジェにとって不可解にも思えるほど過分だった。何か大きな見返りを求められるのではないかと思ってしまうくらいに。
(旦那様は私に出会って損をしてばかりなのに、私は与えられるばかりだわ……。何か、お返しができたら良いのに……)
与えられた分、与えたい。そんな考えが浮かんだとしても、不遇な境遇に置かれ続けていたミラジェの持っているものは少ない。
(だからこそ。みんなが望む、最低限の役目は果たさなければならない)
貴族女性の一番の役割は家を継ぐもの__男児を産むことだ。
(男児を産めなかった義母様は、いつもお父様に責められて、泣いていたもの……)
アングロッタ男爵家に入った当初、父親から叱咤を受け、涙をこぼす、義母を見たことがあった。その悲しみは捻れて歪み、ミラジェへの暴力へと形を変えたのかもしれない。ミラジェはそう思って、痛みを受け入れていた部分も多少あった。
もし、自分が男児を産めなかったとき、シャルルは自分をあんなふうに詰るだろうか。
今は楽園のように過ごしやすいエイベッド家も、いつか新しい地獄へと姿を変えるのかもしれない。今日の儀式が終われば、ミラジェはエイベッド家の人間となる。
今日という日はその使命を受け入れて生きる覚悟を決めなければならない。
ミラジェは一人、戦場へ向かう前のように顔をピシリと引き締める。
「若奥様。坊っちゃんがいらっしゃいました」
侍女のアレナの声に、ミラジェは弾かれたように、扉の方へと振り向く。
遠慮がちに顔を見せたシャルルは光沢のある白灰色のクロックコートに身を包んでいた。ミラジェはその美丈夫っぷりに目を瞬かせる。
(うわあ。体つきががっしりしているから、まるで物語に出てくる騎士様みたいにかっこいい。お姉様たちが見たら、ギャーギャー騒ぐだろうなあ)
つい見惚れてしまったことに気まずい気分になっていると、シャルルの方もミラジェを凝視していることに気づく。
もしや、あまりにもちんちくりんな姿に呆れてしまったのだろうかと心配になりながらシャルルを観察していると
「美しいな……」
と漏れるような呟きが聞こえてきた。
ミラジェの横にいたアレナは、そんなシャルルの様子を見て、眉を下げ少しだけ呆れたように、ため息をつく。
ミラジェはシャルルの言葉が嘘ではなさそうだと思い、少しだけ安心する。
そして、二人の間に天使が通ったような微妙な間ができる。
(な、なんだろう。この間は。私から何か言い出すのもおかしいし……)
ミラジェが心中、わたわたとしていると、シャルルは急に話しかけ始める。
「そうだ、ミラジェ。テイラー侯爵に水質改善に役立つアイデアを授けてくれたそうじゃないか」
ミラジェはシャルルにいきなり妙な話題を振られたことに瞠目する。
一瞬、なんのことだかわからなかったが、侍女のアレナが先程、シャルルの控室にテイラー侯爵が来室していると言っていたのを思い出し、話の内容を理解した。きっとテイラー侯爵が何か話したのだろう。
「……私のご意見がテイラー侯爵のお役に立てて良かったです」
「どうしてそんなことを思いついたんだ?」
「ああ……あれは、必要に駆られて仕方がなく絞り出しただけです」
ミラジェは男爵家で、日中は使用人のようにこき使われ、夜はなんの生活設備もない牢のような地下部屋に押し込められて暮らしていたため、家族のように水道が自由に使えなかった。
夜に喉が渇いても、ミラジェが使っていた部屋から地上へと上がる扉には鍵をかけられて、水を取りに行くことも許されなかったのだ。
しかし、幸運なことに地下部屋は川へと繋がる通路を持っていた。使用人が川で洗濯するための近道としてこっそりと作られた通路だったので、きっと義母や姉は、その存在も知らなかったのだろう。
しかし当然とも言えるが、川の水をそのまま飲んだ翌日、ミラジェはお腹を壊した。
そうか、川の水は汚れているから、そのまま飲むとお腹を壊すんだ。じゃあ、どうしたら……。
ミラジェにとっては苦肉の策として導き出した手段が濾過だった。
「川の水は汚れているからそのまま飲まずに、石やら布やらで濾すんだよ」
そう教えてくれたのは下町の大人たちだった。彼らは賢かった。家が辺鄙なところにあり、井戸に向かうよりも川が近かったため、自分たちで浄化装置を作りあげるだけの知識と知恵があった。
(そうか、汚れを取ったらいいんだ)
下町の人々がやっていたことを、どうにかこうにか記憶から呼び起こし、形にしていった。
それだけでは不安だったので、最後の仕上げとして暖炉から盗んだ火で、煮沸も施していた。
ミラジェの貴族らしからぬ発想は、優れた発想力でもなんでもなく、ただのサバイバル知識でしかなかったのだ。
「それにしたって、素晴らしい発明だ。侯爵も心から喜んでいたよ」
「それは……よかったです」
ミラジェは自嘲した笑いを浮かべないように、顔を引き締め、外向けの笑顔を作る。
自分のあの、おぞましい経験が役に立つだなんて。あんな思い二度としたくない、絶対にあそこには戻らないと誓いを立てたばかりだと言うのに、以前の経験が役に立ってしまっている。
それはとても複雑で、あまりいい気分ではなかった。
*
ミラジェの浮かない表情に気が付いたのか、シャルルは心配そうに眉を顰める。
「ミラジェ? ……どうかしたのか?」
ミラジェはシャルルの表情を見てハッとする。もし、やっぱり結婚は取りやめよう、なんてことになったら、ミラジェの計画が壊れる。
少しの不安要素も許してはいけない。急いで、ごまかす。
「こんな大きな式典に出るのも初めてですし、いきなり主役ですから、緊張しているのでしょう」
優しい微笑みを携えると、シャルルは口元に手を当て、何か考え込んでいる。
「……少し待っていてくれ」
そう言って、シャルルはミラジェの控室を出ていく。
(え……? で、出て行っちゃった⁉︎)
まさか、自分のあまりにもそっけない態度を見て気が変わってしまったのではないか。悪い考えばかりが脳裏を埋めていく。冷や汗が、ミラジェの背中をつうっと伝った。
「悪い、待たせた。」
十分ほど後、ミラジェの控室に戻ってきたシャルルの手には庭で摘んだであろう、カップ咲きのバラの花が一輪。
シャルルはドレス姿に着飾ったミラジェの前に跪く。
「私に……くださるのですか?」
ミラジェは何がなんだかわからず、目をパチクリと瞬かせることしかできない。
そんな様子のミラジェを優しい瞳で見上げるシャルル。
「国で有名な、騎士の作法だ。これから行われる婚姻の儀式は型式ばったもので、ちっともロマンがない。だから、ここで君に誓いを立てようと思ってね」
「は、はあ……」
まだ動揺しているミラジェに向かって、シャルルは誓いを立て始める。
「この国では全ての脅威から君を守り、幸せにすることを誓うよ」
シャルルにとってこの誓いは、結婚の誓いではなく、この状況に巻き込んでしまったミラジェを保護者として守ることを誓う儀式だったが、周りの者にはそうは見えない。
アレナはやっと腰を据えて、若奥様と向き合うようになったか、とため息をついた。
まるで物語の一部を切り抜いたような展開だ。
シャルルにまっすぐ見つめられたミラジェの心臓はどきりと大きな音を立てて高鳴った。異性に見つめられた経験なんてミラジェにはない。
ときめいたのは数秒だけ。その後は、追い詰められるような焦燥が後を追うように襲ってくる。
(かっこいい誓いだけれど……形式ばった外見を気にした所作。どこか、外面だけはよかったお父様を彷彿とさせるわ……)
自分にとって有益な貴族たちの前では紳士的だと評判だった父。しかし彼は、家族や、自分にとって不必要な人間には非情で、陰湿な手段も厭わなかった。
父のように、貴族の男というものは一様に同じ気質を持ち合わせているのだろうか。
シャルルという人間が、素敵であればあるほど、父の面影を感じて、怖い。完璧な駒であれと言われているようで、息苦しくなる。
この誓いさえ、将来的にミラジェを詰る材料となるのではないか。
急に思考停止をして、固まったミラジェ。そんな彼女を見たシャルルは自分の行動が客観的に見て、キャラに似合わないことをしたように見えたのだろうと解釈し、顔を真っ赤にした。
「やっぱり……こんなことは私には向かないな」
シャルルは耳まで真っ赤に染めながら照れ臭そうに笑う。
(あ、かわいい)
さっきの儀式めいた立ち振る舞いよりも、あくまで素のままのシャルルからこぼれ落ちる、自然な仕草はシャルル自身の魅力を凝縮したように思える。
先程のキメ顔よりもよっぽど大きな音で胸が高鳴った。こんなかわいい人の意外な可愛さをこれからずっと発見し続けられる生活が待っているのだとしたら、それはなんて楽しいことなのだろう。
(やっぱりこの人はお父様とは違うのかもしれない……)
ミラジェがシャルルのかわいらしさにキュンとした時、シャルルは余計な一言を落とす。
「君のことは私が守るよ」
「……え?」
またもや、違和感がある言葉。
(私は……果たしてこの人に守ってほしかったのだろうか)
寝る場所と、食べ物と着る物と。生活に必要な全てを準備してくれたことに関しては、もちろん感謝していた。しかし、守られる、ということがどういうことなのか。今まで自分の命は自分で守り続けてきたミラジェには分からなかった。
守って欲しいとは思えない。
ミラジェはわかりやすく表情を曇らせる。
「……え?」
そんなミラジェを見て、シャルルは先程のキリリとした表情から一転、不安そうな表情を顔に浮かべる。
またミラジェはキュン、とする。
「……旦那様はキリリとした表情よりもそちらのお顔をしていた方が魅力的ですね」
「…………え?」
シャルルは新しく自分の妻になる少女がなにを言っているのか分からず困惑した。
*
儀式が行われる教会に向かうと、入り口前にはエイベッド家を慕う領民たちが集まっていた。
シャルルは、微かに微笑みを浮かべ彼らに手を振る。珍しく笑顔を見せた領主の姿に領民たちは沸く。
ミラジェもシャルルの様子を真似て笑みを浮かべながら、教会へと入っていく。可愛らしい様子の領主夫人の姿は多くの領民にとって好意的に受け入れられた。
教会の中には、国の中でも有数の権力者である貴族達が立ち並んでいた。その中に、王が隠れるように紛れていたことには、唖然としたが、儀式自体はスムーズに進んだ。儀式内では特に難しいことは要求されない。ベールを上げ、妻となるミラジェの顔を確認するだけで終わる。
先程控室で受けた、騎士の誓いの方がよっぽど恥ずかしく、照れてしまうものだった。
「ここに新しい夫婦が誕生いたしました」
わあ! っと大きな歓声が上がる。
その時だった。
「ちょっと待ちなさいよ!」
そこに水を差すように、女の甲高い声が響いた。
声が聞こえてきたのは入り口からだった。
ミラジェは驚いて、そちらに視線を向ける。そこにいたのはアングロッタ男爵家の二人の姉だった。どうやら声を上げたのは上の姉だ。
下の姉は綺麗に着飾られたミラジェの姿を見て、驚いて目と口を広げていた。
「シャルル・エイベッド様! その娘はアングロッタ家の末の妹……。愛妾の血を引く、下賤な人間なのです! あなたに釣り合うような身分ではありません。この結婚は何かの間違いなのです」
と、上の姉が。
「ミラジェ! 立場を弁えて、この場を去りなさい!」
と、下の姉が言う。
減点一。
その言葉を上の姉が言った瞬間、ミラジェはアングロッタ男爵家の未来が閉ざされたことを悟る。姉は、『間違いだ』と言った。この結婚は王命。それを否定したということは王の決定にケチをつけたということになる。地盤が強固で、王家も無下にできないような家ならまだしも、アングロッタ男爵家はさほど力のある男爵家でもない。
そんな小さな家を取り潰すくらい、王家にとってもエイベッド家にとっても、簡単なことだった。
ミラジェはやっと尻尾を出したかと、目を細める。これは自分の結婚式だ。自分の心の底に眠る薄暗い記憶の根源がこの日を境に消えるだなんて、とっても気分がいいじゃないか。
「あなた方は何か勘違いをされているようですが、この方は私の娘です。あなた方の家の娘ではありません」
横からミラジェを守るように声をかけたのは、新たにミラジェの養父となったテイラー侯爵だった。
「はあ? あんた誰?」
教養のない姉たちには、侯爵が何者か分からなかったようだ。顔を歪め、不敬な態度を取る。
減点二。
国の産業を支える大領地の領主を知らないなんて、なんて不勉強なのだろう。そう言えば、姉たちは甘やかされていたため、勉強をしなくても義母や父に怒られるようなことはなかった。その甘さが、この暴挙を起こすきっかけになるとは、二人とも思いもしなかっただろう。
ミラジェはこんな場に出てまでかつての妹を糾弾しようとする姉たちを、率直に可哀想だと思った。
(この人たちもある種被害者なのよ。父に口封じのように金を渡され教育を放棄されたんだもの……)
きっと、彼らにだってやり直せる分岐はたくさん用意されていたのに。一つも選べず、消えていくなんて可哀想。
せめて、引導を渡すのは自分でないと。そうミラジェが思ったときだった。
「この結婚を取り決めた人間は誰なのよ! 頭がおかしいんじゃないの⁉︎」
「君たちは私の決定がそんなに気に食わないのか……」
上の姉の脳天を刺すようなヒステリックな声に、揺るぎない声で返したのはひっそりと儀式に参加していた国王陛下だった。
(おや。陛下はこの不敬極まりない姉たちに、ご自分で引導を渡すつもりかしら)
貴族の顔と名前が一致しないほど不勉強な姉たちでも、この国の王の顔は流石に知っていたようだ。まさか、という表情を浮かべたまま、はくはくと陸に上げられた魚のように苦しげに呼吸をする。
「ど、どうしてここに陛下が⁉︎」
「君は知らなかったかもしれないがこの結婚は王命だ」
シャルルが低く静かな声で姉たちに諭すように言う。
「この儀式を台無しにしたことに、早めに気づけていたならば、シャルルを慕う若い女性の狂乱として、内々にことを収めることもできたが、そこまで言われてしまうと、反逆罪になりかねないな」
酷薄な笑みを浮かべる陛下の言葉に姉たちは顔を真っ青にした。
儀式会場は緊張に包まれていた。
固まり身動きも取れない姉二人に、ゆっくりとミラジェは近づいていく。静まり返った教会内に、ミラジェが纏うドレスの衣擦れの音だけが響く。
「ミラジェ?」
シャルルは自分の隣から離れて行こうとするミラジェの様子に違和感を持ち、声をかける。しかしその声はミラジェには届いていなかった。
ミラジェは信じられないくらい冷たい、薄ら笑いを顔に浮かべていた。
姉の目の前までやってきたミラジェは姉たちの耳元で囁く。
「……そうですね。あなた方が言う通り、元々の私は汚れていたかもしれません。でも今は、戸籍も、美しいものにかわり、侯爵位を賜りました。この婚姻が無事に結ばれたら、その瞬間、公爵位です。……あなたとはもう、立場が違うのですよ」
淡々と、低く耳に届く声に、姉たちはひゅっと息を呑む。
「弁えるのは、あなた達の方です。男爵家のみなさん?」
にっこりと悪辣な笑みを浮かべるミラジェを見て、長女であるエイミーは顔を引き吊らせる。
いつも従順に、自分の言うことを聞いていたはずの妹が、見たこともない、人を見下す冷たい顔をして自分を眺めている。
怖い。姉たちは本能的に思った。
先程の陛下の言葉ももちろん恐ろしかったが、ミラジェの囁きには、静かな憎しみがこもっていた。
自分たちは絶対に、やり返されるだろう。そう理解してしまうほどの威圧感。そんなものを妹に感じたことは今までなかった。
(この子は……一体、誰なの?)
彼女たちは眠れる獅子を叩き起こしてしまった事に未だ気づかずにいた。
*
ミラジェが何か囁いているのはシャルルの目にもわかった。だが、肝心の何を言ったのかは、聞こえない。
わかるのはミラジェの囁きで、ギャイギャイとうるさかったアングロッタ家の御令嬢が急に息を殺し静かになったことだけだった。
「さあ、皆さん。お騒がせして申し訳ありませんでした。憲兵さん。この方々をお外にご案内していただけますか? きっともう、暴れたりはしないでしょうから」
陛下の身を守りつつ、この状況を静かに見守っていた、憲兵はエイベッド家の新しい女主人が、場を仕切り始めたことに虚を衝かれたように動き出す。
「あ、はい」
憲兵は二人の身柄を引き受け、おずおずと去っていく。
その様子をシャルルもポカンとしながら見つめていた。
「まったく……。あの者たちがご迷惑をおかけしました」
小走りでシャルルの隣へと戻ってきたミラジェ。
「あ、ああ……」
「あの者たちのように、貴族として教養の足らない子女を育ててしまった親の責任は重いでしょうね……」
まるで、他人事の様に言うミラジェ。その目は完全に自分の生家を格下の他家として認識していた。
(ん? この子はこんなに……しっかり意見を述べるタイプの子供だったか?)
心なしか、ミラジェの顔が勇ましく見える。その背中はどうしてか覇王、という言葉が似合う。
公爵家が与えた教育、環境、地位を持って初めてミラジェは元来存在していた、自らの強者としての素養を発揮し始めたのだ。
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