おや……妻の様子がおかしい…… 前編
空は雲ひとつなく晴れ渡っている。
ミラジェがシャルルの家に居座るようになってから、一ヶ月が経った今日のよき日。
国中の人が待ちに待った、ミラジェとシャルルの結婚式が執り行われることになった。
(とうとう……。この日がきてしまったのね)
侍女のアレナの手によって、ミラジェの頭に白く薄く透ける、精巧なレースがあしらわれたベールが掛けられた。
国一番の工房の針子が、一ヶ月という短期間で、かつ総力を上げて血眼で作り上げたドレスは、ミラジェの幼い雰囲気を生かしつつ、美しい大人の女性らしい清廉さを引き出す、素晴らしい出来だった。
婚姻の儀式が執り行われるまでの短い期間中、ミラジェは体のあちこちのメンテナンスを行わなければならなかった。例のとんでもない妙薬を身体中に塗りたくったり、一食で胃もたれしてしまうような高カロリー食を食べさせられたり……。苦労をしたおかげで、ガリガリだったミラジェにも僅かながら凹凸が見えるようになり、傷もほとんど目立たなくなった。
ミラジェは謎の技術力を持つ、エイベッド家に恐れ慄いたが、そのおかげで素敵なドレスも似合うようになったのだから……と無理矢理状況を飲み込むことにした。
全ての装飾具を身につけた花嫁姿のミラジェの姿を見て、アレナは眩しいものを見るように目を細めた。
「若奥様、とても美しいです!」
「……ありがとうございます」
ミラジェはこの素晴らしいドレスが自分に百パーセント似合っているとはどうしても思えなかったが、せっかく褒めてくれた侍女の言葉を否定するのもおかしいと思い、控えめに頭を下げる。
この屋敷に来た当初はあの天下のエイベッド家にいるというだけで、吐いてしまいそうなくらいの緊張を抱えながら、探るように過ごしていたミラジェだが、今では少しだけ使用人たちに気安く接することができている。
シャルルが手配してくれた貴族教育に関する家庭教師の指導を受けながら、エイベッド公爵家に相応しい人間になれるよう、勉強を重ねていくうちに今のままのおっかなびっくりな態度では使用人たちに示しがつかないことに気がついたのだ。
(私はこの家の女主人として、不足のない威厳を身につけなければならない……)
勉強をしているうちに意外なことがわかってきた。ミラジェは何事も吸収が早く、とても出来がいい生徒だったのだ。
きっと情報に飢えていたのだと、ミラジェは自分のことを冷静に分析していた。
(私があの日、シャルル様の部屋に入り込んでしまったことで、人生がこんなに好転するなんて……。本当に幸運だったとしか言いようがない)
ひょんなことから、自分とは縁がなかったはずのエイベッド家に拾われることになったミラジェ。
最初は囚われる牢獄の場所が変わっただけだ、とマイナスにばかり考えていたが、蓋を開けてみれば、エイベッド公爵家での生活は楽園でしかない。
毎日、十二分に与えられる食事に、湿る地下牢のような男爵家の自室とは比べ物にならないくらい暮らしやすい清潔な住環境。惜しむことなく与えられる貴族教育と、それに伴う公爵家の貴族に相応しいドレスや装飾品。
最初は身の丈に合わない気がして、手に取るのも恐ろしかったそれらも、一ヶ月公爵家の女主人として暮らしていると、その環境にも慣れ始めてしまった。自分の適応能力の高さに驚くしかない。
*
しかし考え方を変えればそれは必然だったのかも知れない。ミラジェは特殊な環境下で生きている期間が長かったので、ある一定の条件下__ルールがある環境に適応するのが得意だったのだ。
下町のルールは母子二人で助け合い、小さな暮らしを保つこと。
アングロッタ男爵家のルールは義母と姉達に逆らわず、家の最下位の立場を持つ者として、相応しい態度で虐げられること。
早く身を馴染ませなければ、命を失いかねない状況に置かれると、人は意地でも成長しようとするものだ。
そして肝心のエイベッド公爵家ルールは、王族を除けば、王国内最高位の公爵家になる家の女主人として相応しい教養と振る舞いを身につけ、この家を継ぐ、正統な後継を生み出すことだ。
シャルルの血を引く人間を誰もが欲していることは、幼いミラジェの目にも明らかだった。
使用人達は皆、ミラジェが後継を生むことを期待している。ミラジェのことを“若奥様”と呼んで、心から慕ってくれているのは、その役割を達成するための助力でもあるのだ。
それまでの環境が劣悪すぎたミラジェにとって公爵家のルールは今までのルールの中で一番ぬるい。最低限人権が確保されているように感じるし、それほど苦ではなさそうだった。
強いて言えば、女主人として相応しい振る舞いをするために、様々なことを一気に学ばねばならないことは大変であったが、知識に飢えていたミラジェにとってはそれも楽しいご褒美のように思えてしまう。
一つも弱音を吐かず、黙々と学び続けるミラジェの姿を目の当たりにした、エイベッド家の使用人たちは、感心しきりだった。
結婚式の当日も朝早くから、来賓者の名前と顔を一致させるべく、何度も最終確認を繰り返している。
美しいドレスに見惚れることもなく、目の前にあるやるべき課題を片付けていく姿は、若いながらも、この家での女主人そのものだった。
その様子を見て、侍女たちは口々に語る。
「若奥様は本当に真面目な方ねえ……」
「本当に。あんな詰め込むのも無理な量のお勉強を完璧にこなしてしまうなんて」
「初めはあまりにもお若かったから、シャルル様は特殊なご趣味に目覚めてしまったのだわと、悲観的に思ってしまったけれど、あのご様子を見ると若奥様は素晴らしい素養を持った方なんじゃないかしら。どこか肝も据わっているところもあって、とっても頼もしいわ」
「それに、何をしても、“ありがとう”と花が綻ぶような笑顔で言ってくださるところも、グッときますよねえ……。本当に仕え甲斐がある方です」
使用人達はうんうん、と頷き合う。
「シャルル様の目は確かだったのかもしれません」
ミラジェの頑張りは、シャルルの評判を上げるにも一役買っていた。
しかし、当の本人は打算だらけだった。
*
ミラジェはエイベッド家で暮らす日々が長くなっていくにつれ、今までの生活がいかに劣悪であったかを思い知らされた。
(というか……。どうして私はあの家で、素直に虐げられていたのだろう)
今なら、理不尽な義母や姉の怒りに反抗することもできる。しかし、男爵家にいた頃のミラジェは食事も満足に与えられず、いつも体調が芳しくなかったため、抵抗する元気もなかったのだ。このルールを守らねばならないのだと思い込んでしまう__正常な判断ができないところまで、精神的にも肉体的にも追い詰められていた。
もともとのミラジェは、大人しくやられて黙っていられる気質ではなかった。
下町に住んでいた頃は、近所の子供達にいじめられることがあっても、泣いて引っ込むようなことは一度もなかったのだ。
なんなら、いつも数倍にしてやり返していた。拳で殴られたら、箒でブチ返す。物を取られたら、取り返して、鉄拳を返す。
そのくらいの気概はあった。
その強気な行動の根本には母の教えがあった。
「やられたらやり返すのよ。ミラジェ」
握り拳を見せながら、重い声で言う母。
強い大人の女__母の鋭い視線は、今までたくさんの死戦を潜り抜けてきたことを物語っていた。
「うんわかったよ! お母さん!」
(ああ……。私はなんであのお母さんのかっこいい姿を今まで忘れて、素直に虐げられていたんだろう)
健康になったミラジェの心には、消えることのない戦闘心が芽生える。
今まで一ヶ月間、男爵家はミラジェに接近してくることはなかった。だが、結婚式当日には確実に接点を持とうとしてくるとミラジェは予想していた。
しかしミラジェは義母と姉を許すつもりなど毛頭ないし、今の生活を奪わせるつもりもない。
(私は絶対に、この生活を手放さない。その地位を揺るがないものにするため、私にはやることがある)
もう二度と、男爵家に戻らなくて済むように、できることはなんでもやる。
ルールは攻略するために存在しているのだから。
強かなミラジェはある決意を固めていた。
*
この無茶な結婚を押し通すために、シャルルは一ヶ月間、奔走しっぱなしだった。
現実的に考えて、爵位の低い男爵家の娘が公爵家に嫁ぐのは、一般的な婚姻とは言えない。いくら王命だといえどあまりにも身分差が大きすぎる。
そこでシャルルはミラジェをエイベッド家につつがなく嫁がせるために、国の西方に広い領地を持つテイラー侯爵家に協力を仰いでいた。
一度、ミラジェを侯爵家の養子に入れ、そこから嫁入りをする__戸籍ロンダリングを依頼したのだ。
侯爵家は、国内の中では比較的穏やかな気質を持った家だった。領主を務めるテイラー侯爵家は、堅実な領地経営を長年続けていることで有名で、まだ領主としては年若いシャルルにも敬意を示す、なかなかの人徳者であった。
大体の人間はシャルルが領主を務めるエイベッド家を懐柔すべく、擦り寄るような態度を取るか、若いシャルルを見くびって、自分の傀儡にしようと企む中、きちんと一線を引く態度を取るテイラー侯爵家は、貴族家の中でもまともな神経を持ち合わせていると言える。
そして、できればシャルルは、人格者にミラジェを預けたかった。
元々、家族に蔑ろにされてきたミラジェは、人と関わる際、微かに怯えた様子を見せる。
その姿を見るたびに、シャルルはミラジェの境遇を想像し胸を痛めてしまう。
しかし、テイラー侯爵家にミラジェをお願いすることは容易ではなかった。最近、侯爵家領内に新たに建設された工業地域から排出される汚水の被害で、経済に影響が出ていたからだ。侯爵家はその対応に追われていた。
そんな自領が大変な状況下で、ミラジェを養子に入れる余裕は侯爵家には正直なかったはずだ。しかし、侯爵は快くシャルルの申し出を受け入れてくれた。
「あなたの国内での働きぶりは私どもも存じております。私どもがお力になれることであれば引き受けましょう」
そう言ってくれたテイラー侯爵のなんと頼もしいことか。
(この恩は決して忘れられないな。もし万が一侯爵家の汚水被害の収拾が付かなくなった場合は、負債をエイベッド家で引き受けよう)
シャルルはいつもこうして、面倒事を次から次へと抱え込んでしまうのだ。
*
結婚式が始まる一時間時ほど前。シャルルの執務室に、くだんのテイラー侯爵が挨拶にと足を運んでいた。
「テイラー侯爵。本日は遠いところからわざわざありがとうございました」
「これはこれは、エイベッド公爵。今日は空も青々と晴れ渡っていて、良い結婚式日和ですね。誠におめでとうございます」
テイラー侯爵は穏やかに微笑む。その表情はシャルルとミラジェの結婚を心から祝福しているように見えた。
「侯爵には……感謝しても仕切れません。領地で問題が起きているという時にあの子のことでご面倒をかけてしまって……」
申し訳ないという態度でシャルルが切り出すと、テイラー侯爵はとんでもないっ! と首を横に振る。
「いいえ! 感謝するのはこちらの方です。私たちもあの方の素晴らしい着眼点に大変助けられました」
「着眼点……?」
「ええ。今、我が領地では水質汚染に悩ませられているのはご存知でしょう? 私はあの子と面会があった日に、この状況を打開するために何かいい方法はないかと若奥様に尋ねたのですよ」
「ミラジェにですか?」
シャルルはテイラー侯爵の言葉に目を丸くする。正直テイラー侯爵も、なかなか酷なことを聞くな、と思った。
自分のイメージではミラジェはか弱い少女、と言う印象が大きい。そんな彼女に水質汚染を改善できるだけの知恵があるようには思えなかった。
「はい。そうしたら、あの方は素晴らしいアイデアをくださいましてね」
侯爵は視線は穏やかだが、その口ぶりからは隠せない興奮をひしひしと感じた。
「汚染された水をそのまま水路に流すのではなく、濾過をする構造を水路内に作ったらよろしい、と言ってくださったのですよ」
「濾過……ですか?」
ミラジェが提案したのは、最初は砂利を使い大体の汚れを取り除いたあと、徐々に粒子の細かい砂利を通し、最後には目の細かい布を使って、水を濾していくという構造の濾過器だった。
この国では、汚染された水は浄化するという考えはなく、汚れた水は大量の水で薄めるしかないと考えられていた。
そんな彼らにとって、ミラジェの考えは思いもよらぬ大発明だったのだ。
侯爵はミラジェの助言を受け、直ちに浄水施設の建設を始めた。今はまだ実験段階だが、その成果は上々らしい。
「そんなことをあの子が思いつくなんて……信じられないな」
シャルルは、テイラー侯爵の言葉を未だ信じられない気持ちで聞いていた。
「若奥様は、他にも様々なことをご存知のようでした。……もしかしたら彼女は、エイベッド公爵家に繁栄をもたらす、金の卵かもしれませんね」
爛々とした瞳の侯爵はこれからも、侯爵家とミラジェは関係を紡いでいきたい考えであることを告げる。
(ミラジェを養子とすることで、侯爵家に借りができてしまうことを苦々しく思っていたが、まさか彼女が利益をもたらしてくるとは思わなかったな……)
シャルルは侯爵の言葉に曖昧に頷くことしかできなかった。
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