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いらっしゃいませ! 若奥様! 後編


 一応、本日のミラジェは男爵家でも舞踏会へ行くのだから体が汚いままで舞踏会に出席しては男爵家の顔に泥を塗るという指摘を受け、念入りに体を洗ってはいたつもりだった。しかし、長年面倒を見られず放置されていたミラジェの体にはたくさん汚れが詰まっていたようだ。


 アレナに浴室へ連れられ、泡まみれにされたミラジェは自分の体の汚さに目を見張る。

 体を洗い流す時、排水溝へと流れていく水は黒く濁っていた。


「す、すみません……」


 きっとアレナも驚いただろう。恐縮したミラジェは死んでしまいたいほど落ち込む。だが、アレナは何故か目をキラキラと輝かせていた。


「まあ……。若奥様! 若奥様の髪は冬の雲のような優しい灰色かと思いきや、素晴らしいシルクのように美しい銀髪でいらっしゃったのですね!」


 ネズミのように薄汚い色だと思っていた髪は、綺麗に洗髪を終えると、キラキラと銀色の光を纏い、輝きを放っていた。

 埃や煤に隠されていただけで、ミラジェの髪は貴族の中でも、珍しいと尊ばれる、光に透けるような銀色だったのだ。


「え、ええ……?」


 ミラジェは自分の髪の色を見て驚く。自分がこんなに美しい色を持っていると思っていなかったのだ。

 しかしミラジェが自身の髪色を知らないのも無理はなかった。

 幼い頃のミラジェは貧しい下町育ちだったので、洗髪をこまめには行えない生活環境であったし、アングロット男爵家に引き取られてからはもっと酷い環境下で暮らしてきたのだ。自分の命を守ることが最優先で、美容に気を遣うことなんてできなかったのだ。

 

 アレナはミラジェの髪を洗い流しながらつぶやく。


「どうやら、坊っちゃんはとんでもない拾い物をしたようですね……」


 多分、好意的だと思われるその呟きに対して、社会経験が圧倒的に足りないミラジェは上手い返しを考える技術など全くない。とりあえず薄く、笑みを浮かべておこう。


 浴槽を出て、脱衣所に連れられたミラジェはタオルで体を拭かれる。先程までいた浴室はリラックスできるようにとわざと灯りが少ない作りになっていた。しかも今日は終始緊張した様子を見せていたミラジェを楽しませるために浴槽は泡風呂になっていたため、体中に染みつくように付けられた傷は目立たなかった。


 しかし、脱衣所はそうはいかない。雫型の飾りがついた小さなシャンデリア型の照明が煌々と肌を照らす。ミラジェの傷は、アレナの目にどう映ったのだろう。それだけが気がかりでならなかった。


「ごめんなさい。見ていて痛々しいですよね」


 ミラジェは申し訳ない気持ちになりながら、萎縮する。すると何やら片目を瞑り、ウインクを飛ばしたアレナは脱衣所奥に設置された戸棚から美しい極彩色のガラス瓶を取り出した。


「大丈夫です! エイベッド家に伝わるこの秘伝の塗り薬を塗れば、こんな傷くらい簡単に治りますよ!」

「ひ、秘伝……?」

「はい! これはあまりにも効き目が強すぎて、王家にも秘密にしている代物なのです。……その傷薬の効力は凄まじく、前公爵でいらっしゃる坊っちゃんのお父様は戦で受けた槍の刺し傷を傷跡なく治し切ったこともあるのですよ!」


 ちょっとそれは凄過ぎやしないだろうか。ミラジェは慄きながらも、塗り薬を塗ってもらう。

 塗られてすぐには、何も起こらないだろうと思っていたが、先ほど見た時よりも確実に傷が薄くなっている気がした。


(待って……、何これ! こわっ!)


 世の中には自分が知り得ないものがたくさん転がっているのだ、という事を嫌でも思い知らされた。


「さて。こんな感じで塗っていれば、十日ほどで傷はよくなるでしょう。その前に若奥様には少し栄養をつけてもらわなければなりませんね……。いくらなんでも痩せすぎですよ。厨房でとっておきの高カロリー食を手配してもらわないと」

「高カロリー食……」


 自分は何を食べさせられるのだろう。一抹の不安はあるが、自分が嫌と言ったくらいでは止まらないほどに、アレナは目をキラキラさせながら計画を練っている。


(どうやら私はとんでもない家に嫁いで来ちゃったみたい)


 こうなってしまっては仕方がない。きっと彼女は悪いようにはしないだろうから、長いものには巻かれておこう。ミラジェは遠い目をして、見えない未来を想像した。



 翌朝、目を覚まし、身支度を整えたミラジェはシャルルに朝食を一緒に摂るよう呼び出され、今後の話し合いをすることになった。


 エイベッド家の従者たちが用意した朝食は、見るからに美味しそうな代物だった。初めて見るまとも以上の食事に、ミラジェは奥底に押し込められていた、年相応の幼心をくすぐられ目を輝かせる。


 水を弾くほど新鮮な野菜のフレッシュサラダには、この国では一般的な食卓に並ぶお酢ベースのドレッシングと、皮が刻まれて入っている柑橘ベースのものの他にも、嗅いだことのないスパイシーな香りのするドレッシングが添えられている。


(あの家では野菜に味なんてつける余裕もなかったけれど……。ドレッシングだけで三種類も添えられているなんて……豪華だわ)


 ミラジェはそんな小さなことにも喜びを感じてしまう。


 もちろん朝食はそれだけではない。


 焼きたてのパンは種類様々に皿に盛られ、クランベリーが入ったスコーンとかぼちゃのキッシュまである。

 メインは朝食らしく、ベーコンエッグだ。ベーコンは端がカリカリで、卵は半熟。シンプルだが、美しいそれを見るたびに、ミラジェは口の中によだれが溜まっていくのを感じた。


 食事が始まると、ミラジェは昨日と同じように、口の中に少しずつ少しずつ、食べ物を含ませていく。

 あまり、早くは食べられないので全ての料理の味を知るまでの時間が長く、もどかしく感じてしまう。


 こんなに食事が楽しみなのは生まれて初めてだった。


 胃が小さいので量は食べられないにしても、あまりにも美味しい食事をニコニコ微笑みながら堪能していると、はっと我に返る。そうだ、ここは昨日まで面識もなかった大貴族、エイベッド家のお屋敷なのだ。


 それに気が付かず、食事に夢中になってしまったことに、気まずさを感じながら、ゆっくりと顔を上げると、シャルルは手を顔の前で組みながら優しい目をして、こちらを見ていた。


(エイベッド公爵は……。顔つきはキリッとしていて凛々しいお方だし、国の政にも容赦がなくメスを入れる方だと噂だったから冷たい方なのかしらと勝手なイメージを持っていたけれど、全然冷たくないわ。むしろ、男爵家にいた人間よりも優しい……まるで……)


 やっぱりシャルルはどこかミラジェの母の持っていた暖かさに似た優しさを持っているようだ。


(私、昨日までなんて目に遭ってしまったのだろうと悲観していたけれど、もしかしてこれはとっても幸運なくじを引いたのでは?)


 もう、ミラジェの胃袋はエイベッド家の料理人に完全に掴まれていた。


(私、何がなんでも家には帰りたくない。なんなら、ここに一生住みたいかもしれない……。よし、決めた。私この家に拾ってもらえるように、なんとかしてみよう)


 ミラジェの脳裏には、昔、母と街に住んでいた頃に見た、野良猫の姿が浮かんでいた。その野良猫は、ガリガリに痩せ細っていたが、人懐っこく、愛嬌があったがために、近くの裕福な商家の娘に引き取られていったのだ。


(私もあの野良猫みたいに、捨てるのは惜しいな、と思える人間になれたら、この家に入り込めるかもしれない)


 この家の人々はアングロット男爵家の人間たちのようにもう変えることのできないミラジェの生い立ちを、恨むことはない。


 この家での評価は、これからの自分次第でどうにだってなるのだ。


 そう考えると、なんだか燃えてくる。

 絶対に、この家に拾われてやる。

 久しぶりにぐっすり睡眠を取り、精神的にも体力的にも回復を見せ、強かさを取り戻したミラジェは密かに永住計画を立てた。



 ミラジェがふんすと鼻息を荒くしているその時、机を挟んで向かいに座っていたシャルルは、あまりにも細く、食べるペースが遅いミラジェの様子を心配そうに見ていた。


「どうだ? 食事は口に合うか?」

「……はい。とっても美味しいです」


 顔を少し赤らめて恥ずかしそうに言う様は、無垢そのものだった。


 実際の所、ミラジェの脳内は、美味しさで埋め尽くされていた。しかし、シャルルは不慮の事故でこの家に当主の妻として、連れ去られるようにやってきた、小さな子供が、なんとか気を遣って、主人の機嫌を損ねぬようビクビクしながら受け答えをしているように捉えてしまった。


(もしかして、この子は無理をしているのではないか。あんなひどい怪我を負ってはいても、生家は生家だ。本当は帰りたくて仕方がないのかもしれない)


 意を決して、シャルルは問う。できるだけ、威圧的にならぬよう細心の注意を払って表情を作った。


「君は……家に帰りたいとは思っていないのか?」

「ええ。これっぽっちも」


 間髪入れずに返ってきた、簡潔すぎる答えに、シャルルは瞠目する。

 ミラジェの瞳は翳りが全くなかった。そのあまりに清い瞳を見て、シャルルは微かに慄く。


「私はあの家に帰るくらいなら、街にそのまま捨ててくださった方がまだ幸運だと思えます」


 ミラジェは眉を八の字に下げ、自嘲するように笑う。


(この子は男爵家で一体どんな扱いをされてきたのだろう……)


 その短い答えが、ミラジェが男爵家で受けてきた仕打ちの全てを物語っているように聞こえた。


「では……、君の身柄はエイベッド家で保証しよう。何かして欲しいことがあったら何でも遠慮なく言って欲しい」


 そう言うと、ミラジェは瞬きを何度かした後、少し考え込み、ゆっくりと口を開いた。


「……でしたら、わたくしに貴族としての教育を施していただけませんか?」

「貴族としての……教育?」

「はい。私は男爵家の娘ではありますが、この通り家族に構われず、貴族として相応しい素養がないままに、成人近くまで育ってしまいました。こちらのお屋敷でお世話になる身として、エイベッド公爵に泥を塗るような真似はしたくありません」


 養われる身として、百点の答えだった。


 シャルルは、考えていた子供の答えとは方向性が違うことに驚いていた。もっと、女児らしく新しい洋服が欲しいだとか、話が合うお友達が欲しいだとか、のびやかな欲求を期待していたのだ。


「……わかった。その種の事柄に長けた家庭教師を手配しよう」

「ありがとうございます」


(え?)


 シャルルは目を瞠る。

 ミラジェは小さな肢体に似合わぬ、どこかぞくりとする色香を感じる大人の笑みを浮かべていたからだ。


 それは怯えていただけの昨日とは明らかに様子が違っていた。シャルルはそんな彼女に、言葉に言い表せない末恐ろしさを感じたのだ。



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