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いらっしゃいませ! 若奥様! 前編


(どうしてこんなことになったのだろう……)


 ミラジェは家に帰ることは許されぬまま、シャルルの住む、エイベッド家にそのまま連行された。

 もちろん、ミラジェは虐待をしてくる家族がいる男爵家に帰りたいだなんて微塵も思っていなかったが……。


 しかしながら急すぎる展開に頭がついていくわけもない。姉たちを際立たせるための添え物として舞踏会に乗り込んだのに、まさか会場内一、特等の人間に召し上げられるだなんて誰が思っただろう。少なくともミラジェ自身だけではなく家族もこんな展開になるとは思っていなかったはずだ。


 ミラジェの脳内には、彼女が家に帰らないことに対してどういった連絡が家族に伝えられているのか、気になる気持ちが僅かばかりあった。しかし、今は自分の状況整理で精一杯すぎて、そちらの問題に思考の余力を回す暇はない。


 エイベッド家へと向かう馬車の中でも、ミラジェは何も喋れぬまま、氷漬けになったかのように身動きもできなかった。


 状況を未だ把握できていないミラジェを乗せた馬車がエイベッド公爵家の門へ入っていく。

 入り口に入っても、全貌を把握できぬほど広大な敷地に唖然とすることしかできない。住んでいた男爵家とは比べ物にならないくらい広かった。


 エイベッド公爵家の敷地は、もはやここは一つの集落と言われても、納得してしまうだけの広さがあった。

 屋敷の敷地内のはずなのに、なぜか小川が流れ、心地の良いせせらぎが耳に届く。植えられている花も、街の花壇で見るような整えられたものではなく、野花に近いような野趣がある花々が多く、気持ちが和らぐようなあしらいがミラジェの心をくすぐった。


 きっとこの家にはこういった派手ではないがかわいらしい趣向を好む人物が暮らしているのだろう。


「ミラジェ……ここが私の家だ」


 シャルルは未だ緊張で身動きもできないミラジェに向かって、心が少しでも解けるよう、めいいっぱい気を遣って優しく声をかけた。


 まだ緊張が解けないミラジェは、下唇を噛みながら、油の切れた機械のように、グギギ……と震えながら頷いて見せる。

 少しでも気を抜くとあまりの心労でまた倒れてしまいそうだった。


 シャルルにエスコートをされる形で馬車から降りると、屋敷から飛び出すように一人の女性が走ってきた。男爵家でも見たことがある標準的なメイド服を着ているので、きっと彼女も従者なのだろう。


 メイド服を着た女性は柔和な顔立ちだったが、その顔が台無しになるくらい目を釣り上げてシャルルを睨む。


「おかえりなさいませ坊っちゃま。……あの。このお嬢様はどちらの方ですか?」


 シャルルには棘のある言葉遣いだったが、ミラジェにはふんわりと優しい目線を向けてくれる。ミラジェは、どうやら嫌われてはいないようだぞ、と胸を撫で下ろした。


「ああ、彼女はアングロッタ男爵家の御令嬢で……この度俺は、彼女と縁を結ぶよう王命を受けた」


 それを聞いた侍女は大きく目を見開いた。


「まあっ!」


 驚く侍女の様子を見て、ミラジェはまた胸が痛くなった。


(ああ……、きっとどうしてこんなちんちくりんな子供がエイベッド公爵家に嫁ぐのだろうと疑問を持ったのだろう。私だってなんでこうなったのかわからないもの)


 糾弾されるに違いない……。そう思って身を縮めた時だった。


「ようこそ、いらっしゃいました! 若奥様!」


 侍女は一切の翳りを持たない明るい声でミラジェの手を両手で包み込むように握り、膝を折って臣下の礼を見せた。




「……」


 予想外な反応にミラジェはまた言葉を失う。


「いやあ! やっと、あの坊っちゃんも伴侶とする女性をお決めになりましたか! 坊っちゃんは昔から猫やぬいぐるみだとか……とにかくかわいいものが大好きでしたものねえ……。若奥様も大変お可愛らしい方ですもの……。今回のご縁はそれが決めてだったのかしら?」

「アレナ……。息を吸うように俺の恥ずかしい過去をバラさないでくれないか……」


(かわいいものが好きってことはもしかして、この屋敷の装飾もこの人の趣味なのかしら……。それにしてもアレナさんとシャルル様は気安くお話になるのだわ)


 主人と従者という関係は厳格で、絶対にどんなに小さな粗相も許されない関係だと思っていたミラジェにとって、幼馴染のように気安い二人の掛け合いは、理解不能の代物だった。


 男爵家で自分が求められていた扱いとはあまりに異なる光景を呆然と見守ることしかできない。


 ポカンとしたまま、二人の掛け合いを見ていると、アレナはパンパン、と手を叩く。


「ささ。外で立ち話もなんですから、中でお話をしましょう。お二人は舞踏会で何かお食べになりましたか?」

「いや。何も食べられなかったな……。本当にそれどころではなかったからな」

「あら? そうだったのですか? ……では、軽く食べられるサンドイッチでもご用意いたしましょう」


 軽い足取りで屋敷へと入っていった侍女__アレナを見送り、二人は屋敷の中へと入っていく。

 なんだか、嵐のような襲撃だった……。ミラジェはこのシャルルという公爵が一体どういった人物なのか、アレナという侍女を見て一層わからなくなった。


(世間では氷の公爵と呼ばれているのは知っていたけれど、ちっとも冷たくないわ。……むしろいい人そうに見えるけれど。今はそう見せているだけなのかしら?)


 どうしてか理由は定かではないが、シャルルといると何故か母と一緒に暮らした温かい日々のことを思い出してしまう。


 自分を大切に思う温かい眼差し。


 シャルルは出会ってすぐのミラジェを壊れ物のように大事に、大事に扱ってくれようとする。家族から虐待を受けていたミラジェにとって久しぶりの優しさは、あまりにも甘く、時を置かずに信頼を置くなんてあまりにも不用心だとわかっていてもついつい、心が解けてしまうのだ。


「夜食を食べるなら、月明かりが映えるテラスがいいだろう。こちらにおいで」


 コクリと小さく頷く。ミラジェは案内されるがまま、大人しくシャルルの後を追った。



(わあ……なんて素敵なの。まるで植物園の温室みたい)


 テラスというのだから、出窓の延長線のような空間かと思いきや、招かれたのは暖かな地方でしか咲かない花々が集められた素敵な温室だった。


 ここも先程までいた舞踏会会場と同じく、ガラス張りになっていて、月や星の明かりが柔らかに差し込む。舞踏会会場の作りが好みだったミラジェはこの場所にも同じように心を奪われた。

 それと同時に高貴な人々は、こういった何気ない空間にもお金をかけるのだと、階位の違いを見せつけられたような気もしてしまう。


 中へ進むと、ソファとテーブルが現れる。ソファには可愛らしい薄緑色のタッセル付きふかふかのクッションが敷かれており、なかなかに居心地が良さそうだ。


「ミラジェ、こちらに座れるかい?」


 シャルルが優しく促す。


 ミラジェはたじろぎながら、ちょこんと置物のように座った。

 向かい合うようにシャルルが座る。目の前にいる男は、三十を超えているというのに、恐ろしいくらいに若々しく皺ひとつない。

 月明かりに照らされたシャルルは繊細な彫刻のように儚く、美しかった。


(え、冗談でもなんでもなく、私こんな綺麗な人と結婚するの?)


 その状況を認識したところで本日三回目の目眩を覚える。


 しばらくすると、先程の侍女、アレナがサービングカートを押しながら、テラスに入ってきた。


「軽く食べられるサンドウィッチと紅茶をご用意しました。もしかして若奥様は甘いものがお好きかしらと思って、しょっぱいものの他にいちごのサンドウィッチもご用意したんですよ。もし、お嫌でなければお召し上がりください」


 ミラジェはありがたい申し出に、ペコリと軽く頭を下げた。

 その様子をじろりと横目で見たシャルルは苦言を呈す。


「……アレナ。さっきからミラジェのことを若奥様と呼んでいるが、まだ彼女は正式に妻となったわけではない。彼女が萎縮しては可哀想だからせめて名前で呼んではくれないか?」

「あら。おかしなことを言うのですね。坊っちゃん。いいではないですか。早いうちから若奥様と呼ばれることに慣れてしまった方が後々楽かもしれませんよ?」

「俺のことはまだ、坊っちゃん呼びなのか……」

「青臭さが抜けないうちは永遠に坊っちゃんですわ」


 アレナのつれない受け答えに、シャルルは頭を抱え、掻きむしる。

 ミラジェは氷の公爵と呼ばれ、恐れられていたシャルルがあまりにも御し易く、使用人にまで揶揄われている様子を見て既存の印象とのギャップに困惑していた。


「はあ……。俺もまだまだ、鍛錬が足りないようだな。ミラジェ。食べられるかい?」


 シャルルの声にコクリと頷き、ミラジェは恐る恐るサンドウィッチに手を伸ばした。



 パクリと小さな口が動く。


 大きな手を持つシャルルが二本指で摘めるくらい小さなサンドイッチをミラジェは両手で掴んで食べていた。

 一口で食べることはせず小さな口で少しずつ咀嚼をする。


 シャルルはそのかわいらしい少女の様子を、じいっと見ていた。


(こういう小動物の絵を小さい頃絵本で見た気がする……なんともかわいいな)


 口に食べ物が運ばれるたびに、目を微かに輝かせるミラジェのかわいさにシャルルは目元をうっすらと紅色に染めた。


 ゆっくりと時間をかけて一切れサンドウィッチを食べ切ったミラジェは膝に手を置いて、固まってしまった。


「もう食べないのか?」

「食べたい気持ちはあるのですが、もうお腹がいっぱいで……」


 か細く、空気に溶けてしまいそうな声だった。

 ミラジェはいちごのサンドウィッチをじっと眺めながらも、首を横に振った。

 本当に、もうこれ以上は食べられないらしい。あまりの少食さにシャルルは目を瞠る。


(いくらあと一月で十五になるといっても、この子はあまりにも成長が芳しくない。もしかしたら、男爵家で暮らしていた頃は満足に食べ物も与えられていなかったのかもしれない)


 果たして、このか弱い子供を自分の妻としてしまうことは、ミラジェにとって幸せなのだろうか。不幸な事故と行ってもいい事態に巻き込んでしまったことを悔やみ、考え込んでしまう。

 シャルルは生来優しい性格で、自分の利益よりも他人の利益を優先する気質であった。


 長い間独身でいたのにも理由がある。

 歴史ある高貴な血筋であるエイベッド家は、他の貴族よりも王家に近い存在であった。


 公務や後継問題などの問題が山盛りの書類のように積まれる、ただでさえ気苦労が多い立場だ。公爵夫人はその補助を求められる。社交界でのパワーバランスを整えることであったり、常に目新しい話題を提供し、その地位を保ち続けることであったり……求められる内容は多種多様だ。


 それに加えて、公爵家は恨みを買うことが多いため、不届き者に命を狙われることも多い。もちろん、公爵夫人も狙われる立場にある。今日のミラジェの出現やホーライド家の御令嬢の登場だって、最初は刺客か、とジャンと共に身を硬くしたのだ。


 シャルルも剣の腕は立つが、従者のジャンはいざという時、主人の盾となるよう訓練を受けている。


 最初は見目で釣られた女性たちだって、その気苦労を知ればきっと離れていってしまうに違いないとシャルルは考えていた。


 実際、シャルルの母親はその気苦労と重圧に負けて、シャルルの少年時代、父である前公爵と離縁している。


 その経験が、シャルル自身の呪縛にもなっているのだ。


 そんな思いを抱えるシャルルは、危うい立場にいる自分の人生に巻き込んでしまったミラジェに対して心底申し訳ないと思っていた。


 どうせ巻き込んでしまうのであれば、精一杯幸せだと思ってもらえるよう、環境を整えよう。それがミラジェにできる最大の贖罪だ。


 __もしかしたら自分は、この子供の療育を天から任されたのかもしれない。


 シャルルはサンドウィッチも完食できぬほど胃袋が小さく、細く脆い体を持つミラジェを眺め見ながら、そんなことを考え始めていた。



「養子にすると言う手だってあるよな……」


 テラスでの夜食を食べ終わり、一人自室へと戻ったシャルルは自身の寝台に腰掛けながらポツリとひとりごちる。


「それはなりません」

「うわっ!」


 誰もいないと思っての発言だったが、後ろを振り返ると、毎晩寝台横に置かれる果実水を手に持った、ジャンがデデーンと存在感を示すように立っていた。


 ジャンにはミラジェの部屋を準備するよう頼んでいたが、三十分もしないうちに戻ってきたことにシャルルは驚く。


「私たちはせっかくいらっしゃった若奥様を逃すつもりなんてありませんから」


 優男顔のジャンが真顔でこちらを見ていることに妙な迫力を感じてしまい、シャルルは怯む。


「ず、随分こちらに戻ってくるのが早いな……。あの子は__ミラジェは大丈夫そうだったか?」

「ええ。問題ありません。アレナが張り切っていますし、奥様の部屋はいつでも使えるように現状維持されていましたから」

「あの部屋を使ったのか……」


 どうやらミラジェが案内されたのは以前はシャルルの母が使っていたあせびの間らしい。あせびの間は公爵家の女主人が使う間とされていて、部屋の中に屋敷の主人であるシャルルが使う寝室に直接向かえるよう、隠し扉が付いている。


「ええ。ミラジェ様はこの家の若奥様ですから」


 従者たちは本気であの幼い少女をミラジェの妻として扱うと決めたらしい。

 予想もしていない従者たちの柔軟さに、シャルルは頭を痛めた。


「お前だって……あんな小さい子供を娶るのは外聞が悪いと内心思っているだろう?」

「今のままではそうですね。ですが、坊っちゃん。女の子と言う生き物は、蝶が羽化するように短期間で美しい女性へと変貌を遂げてしまうのですよっ! あの幼かったアレナが大人の色香を見せるようになった時、私は何度悶えたか!」


 体をくねくねと捻らせて、頬を染めながら熱弁するジャンは、正直に言って気持ちが悪かった。


「お前、気持ち悪いな」

「なにおう⁉︎ 恋をすると大体の人間は気持ち悪くなるのですよ」

「ははは……」


 シャルルは乾いた笑いを浮かべた。


「笑っていられるのも今のうちですよ。若奥様は幼いながら、美しい女性としての原石的な魅力を有している気配を感じます。……いつかあなたも、若奥様の色香に悶え、気持ち悪くなる時が来ると……私は思っていますよ」

「そんなわけないだろう?」


 シャルルはうへえと項垂れながら否定する。しかしジャンはどこか生暖かい目をしながら続ける。


「いいえ断言します。あなたはいつか、若奥様の魅力にメロメロにされる時が来るのですよ。……さっきだって、小さいお口で、小動物のようにサンドウィッチを食べる若奥様を見て目元を赤らめていたでしょう」


 シャルルはぎくりとして肩を強張らせた。


「あれは……彼女に子供らしいかわいさを感じただけだ」

「ふふふ……いいえ。あれだって若奥様が持つ魅力の内の氷山の一角にすぎないのでしょう。そもそも幼くても男性にかわいいと思わせる仕草ができるだけで、素晴らしい才能の持ち主だと思いませんか⁉︎」


 興奮気味に話すジャンを止められる者はいない。シラーっとした顔で、話を受け流していたシャルルは、その後も続いた、ジャンの女性談義に嫌気が差し、その重い口を開いた。


「……お前は、もう寝ろ」


 ジャンが部屋から下がり、一人きりになったシャルルは寝台に入りながら、ぼんやりと思考を巡らせる。


(どういう風になるにせよ、俺はあの子を生家に戻すつもりはない。あの子とどういう関係性を築いていくかは今後よく考えて行かねばならないな……)


 ひょんなことから、ミラジェの人生を受け持つことになってしまったが、年長者として、彼女の幸福を守ってやりたいとは思う。


 シャルルは昨日まで見知らぬ子供だった人間にも情をかけてしまうほどのお人好しなのだ。


 どうしたら、彼女が一番幸せになるだろう……そんなことを考えながら、シャルルは眠りの世界へ旅立った。



アセビは鈴のような可憐な花をつけますが、毒があります。

花言葉は、犠牲、献身、あなたと二人で旅をしましょう。


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