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その出会いはただの事故 後編


(この子供は一体なんなんだ……)


 子供はよほどシャルルの顔が怖かったのか、わんわんと泣き続けている。

 仕方がないので、背中を撫でて宥めてやろうと思って手を伸ばすと、驚いたのか子供は一気に涙を引っ込ませた。


(そんなに私が恐ろしいか……)


 それも、それで癪な気分になったが、涙が止まったのは泣かれ続けるより状況が好転したと言えるだろう。


「君からすると私は恐ろしい人間のように見えるかもしれない。しかし私は今回のことについてちっとも怒っていないんだよ」


 シャルルはできるだけ、優しく柔和に聞こえるように声音を調整し、ささやきかけるように説く。


「ほ、本当に……?」

「ああ。本当だ。君の家にこのことが漏れるのを心配しているのであれば、一切伝えないことを誓おう」


 そう告げると、子供はかすかにほっとしたような仕草を見せた。

 気持ちが緩んだ姿の子供は、緊張している時よりも幼さが際立っているように見えた。


(俺がもう少し若い頃に子供をもうけていたら、このくらいの子供がいてもおかしくない)


 そう思うと、なんだか感慨深い気持ちになった。


「今日は一人でこの舞踏会に来たのか?」

「いいえ。姉と一緒に参りました」


「そうか……。では君の姉君のところに送っていこう」


 そう言うと、ミラジェは血の気が引いた真っ青な顔になった。


「も、申し訳ありませんが、その申し出は断らせてください。一人で帰れます! 一生のお願いです、姉とはお会いにならないでくださいっ!」

「あ、ああ。わかった」


 あまりにも必死にぺこぺこ頭を下げるミラジェの様子を不思議に思いながらも、体調不良で自分がいる部屋に迷い込んでしまったことがよほど恥ずかしかったのだろう、と違和感に目を瞑り、無理矢理自分を納得させようとする。


「で、では! ご機嫌よう」

「あっ待て!」


 人の良いシャルルは不自然なほどに痩せ細ったミラジェの様子を不審に思っていた。もし、何か問題がある家に暮らしているのであれば、自分が何かしら助けられる部分があるかもしれない。

 だが、後日訪れるにしても名を聞いていない。シャルルは飛び出そうとする、ミラジェの腕を掴んだ。


「っ⁉︎」


 すると、ミラジェは腕を掴まれたことが痛かったのか、顔を激しく歪めた。


「すまない! 少々強目に掴んでしまったようだ」

「いえ、そんなことは」


ミラジェは咄嗟に否定したが、痛がり方は異常だった。急所を突かれたような表情をし、額にはじっとりとした脂汗をかいている。心なしか、掴んだ部分も熱を持っていた気がする。


(しかし……それほど強い力ではなかったと思うのだが……)


 嫌な予感がした。シャルルはこの子供をこのまま帰してはいけないということを本能的に悟った。


「掴んだ力が強すぎてもしかしたら、痣ができてしまったかもしれない。ドレスを捲ってみせてくれないか」

「い、いえっ! ご心配はいりません!」


 少女の顔は追い詰められた罪人が罪を隠すような、あまりにも必死な表情を浮かべていた。その表情に、不可解さを感じたシャルルは訝しさを深める。


「見せなさい。俺が御令嬢を傷物にしていたら、申し訳ないだろう」

「おやめくださいっ! 見ないでください!」


 その様子を見ていたジャンは慌てて声をかける。


「坊っちゃん⁉︎」


 しかし、シャルルは呼びかけを受けて静止しなかった。

 目の前にいる少女の怯える姿に嫌な予感がしていたからだ。


 シャルルは嫌がるミラジェの服の裾を捲り上げた。

 そこには見るも無惨な青紫色の痣と化膿した肌が広がっていた。どう見ても腕を掴んだくらいではつかないような酷い怪我だった。


(この傷……まだ加害を受けてからそう時間が経っていないな。傷の具合から見て、事故ではなく誰かから危害を加えられているのだろう)


 それと同時に、茶色に変色し色素沈着を起こしてしまっている古傷も多数見られた。

 長い間、少女は痛めつけられていたのだろう。年月を感じさせる古傷の多さにシャルルは目を瞠った。



「君……これはどういうことだ?」

「申し訳ありませんっ! 高貴な方のお目汚しをっ!」

「ああ……。悪い。怒っているわけでは決してないんだ」


 シャルルはミラジェの背中を撫で、優しく慰めようと努める。震えるミラジェの様子は痛々しかった。


「誰にやられたんだ? ……これは命令だ。答えなさい」


 自分よりも身分の高い人間に命令されてしまうと、ミラジェは正直に答えることしかできない。


「……家族です」

「家族?」


 ということは虐待か。もしかしたら、異様に軽く細い様子を見ると、この子供は食事も満足に与えられていないのではないか。


「この様子では、腕以外の場所にも傷があるのではないか?」

「っ!」


 その遠慮のない問いかけに、ミラジェは目を大きく見開いた。


「もしそれがあったとして……あなたには関係のないことでしょう……?」


 か細く、消えそうな否定は涙に濡れていた。


「ああ。関係はない。だが、このまま君を元の場所に戻したら……。間違いなく、加虐を受けるのだろう? それを想像するだけで寝覚が悪いな」


 恐ろしく冷ややかな声だった。ミラジェの家族の傲慢さとは違う、格上の地位を持つ者の、逆らうことを許さない、絶対的な響き。


「大人しく服の下を見せなさい」


(どうしてこんな目に遭うの……?)


 ミラジェは泣きじゃくりたい気持ちでいっぱいだった。


 体調不良で逃げ込むように入った部屋があの、シャルル・エイベッドの控室だなんて、誰が想像するだろうか。

 自分への虐待が家外の人々へばれてしまったら、ミラジェの家族は間違いなく後ろ指を指されてしまうだろう。

 そうしたら、自分は生きていけるだろうか。男爵家の人間に完全に洗脳され切ってしまっていたミラジェには男爵家の呪縛から解かれ、家を出ると言う選択肢が全く思いつかなかった。


 悲しいことに、ミラジェはこのままシャルルに泣きつけば家を離れられるとは思えずに、家に戻ったら、また激しい折檻が待っているのだ、と思い込んでしまっていた。


 ぐちゃぐちゃの感情のまま、フリーズしながら固まっていると、ヌッと横から見慣れぬ男が現れた。服装からしてこの男はどうやら、シャルルの従者らしい。光の中に溶けてしまいそうな薄い金色の髪に、ヘーゼルブラウンの瞳を持ったメガネ姿の男は、小さく遠慮がちに手を上げながら、話に割り込んでくる。


「……あの。恐れながら、坊っちゃん。あまりにもそういった方面に整えられたこの場で、そのセリフは……。いかんせん誤解を生みますよ?」

「は?」


 シャルルはポカンと口を開ける。


「……。坊っちゃんはお気づきではないかもしれませんが、そのポーズと言葉だけを抜粋すると、少女趣味がある高位の人間が、逆らえない少女に迫っているように見えます」

「はあ? そんなわけないだろう? 俺はこの子供のことを心配してだな……」

「貴方様の情が深く、お人好しなところは、評価すべき美点だとは思いますよ? しかし、面倒事に自ら足を踏み入れて行くのはどうかと思います」


 ミラジェは内心、従者の言葉に賛同する。


(そうよ! 私のことなんて放っておいて!)


 これ以上、このどう見ても自分とは立場の違う人間の近くにいたくない。ここに長い時間いたら、何か大きな問題に発展してしまいそうな予感がする。

 そう思って逃げ出そうとしたのに、シャルルは首を縦に振らなかった。


「だからといって、傷の具合を確認しないわけにはいかないだろう。子供への虐待は間違いなく罪だ。私は高位の人間として、この子の家族を罰する必要が出てくるだろう」

「つみ?」


 その言葉を聞いて“つみ”が“罪”だと理解するのに数秒を要した。

 ミラジェにとって家族がミラジェに与える行いが咎められる事態だ、ということが思いつかないことだったからだ。ミラジェはどこかで、自分はいらない子供なのだから、折檻されるのは当たり前だと思ってしまっていた。

 しかし、側から見るとそれはあまりにも暴論的で、あり得ないルールなのだ。


 ルールの外にいる人間はその異常さをいとも容易く指摘をしてしまう。


(もしかして、この人に助けを求めれば、私は……もうひどい目には遭わないのかしら)


 ミラジェは無性に泣きたくなった。現に、目頭は熱く、涙を少しずつ生み出している。


「必ず、君を悪いようにはしない。だから、服の下を見せてほしい」


 低く、落ちてくるように響いたその声は優しくミラジェの体に染み込む。

 抵抗するのも、しんどくなってしまったミラジェはもう考えることをやめた。


 首元のボタンに、シャルルの手が伸びる。一つ一つ丁寧にボタンが外され、今まで立ち襟に隠されていた首の皮膚が空気に触れる。

 ミラジェの傷が、シャルルの目に晒されてしまう。


「これは……酷いな」


 シャルルは憐れみで、顔を顰めた。


(氷の公爵と呼ばれた人が見て顔を顰めるほど私の姿は醜いのだわ……)


 ミラジェがポロリと涙をこぼした瞬間、何者かによって、閉められていた入り口扉がバン! と、無作法なほど大きな音を立てて開いた。



 突然開いた扉に部屋にいた三人は驚く。扉の先にはシャルルと顔見知りの御令嬢が立っていた。


(確かあの御令嬢は……。以前から俺に執着をしていた、ホーライド家の御令嬢ではなかったか?)


 ホーライド家の御令嬢は、なんというか……思い込みが激しく、一直線な性格で、自分に見込みがあると長年信じ込み、シャルルに付き纏っていた御令嬢なのだ。

 今日も、いつも通りシャルルの部屋を探り当て、乗り込んできたらしい。


 御令嬢はシャルルとミラジェの姿を見て目をこれでもかと言うほど大きく見開いた。

 __シャルルの手はミラジェの服を脱がせている最中だった。


「ぎゃああああああ! 氷の公爵、麗しのシャルル様が、子供の服を脱がせてるうううう!」


 舞踏会会場を揺らすほどの大絶叫だった。


「ご、誤解だ!」


 シャルルは慌てて弁解したが、その声は残念ながら発狂した御令嬢には届かなかった。


「長い間、独身でいらっしゃったから、特定の変わったご趣味でもあるのかしらと勘繰っていたけれど……まさか……まさかっ、少女趣味だったなんてっ!」


 わなわなと震え泣く御令嬢。慌てるシャルル。ポカンとしたまま、硬直したままのミラジェ。

 状況は恐ろしいほどにカオスだった。


 その様子をどこか客観的に眺めていた従者のジャンは呆れた表情をしてシャルルの方を見た。


「あーあ。坊っちゃん。言わんこっちゃないですよ。今日のパーティーの話題はこれで持ちきりですね」


 ジャンの言う通り、ぎゃあああと叫び走り去った御令嬢は自分が今見た現状をみるみるうちに、周りの人間へと伝えていく。


「なんだ?」

「エイベッド公爵が少女趣味?」

「やはりあの方はなかなか結婚しないと思っていたが、特殊な性癖を持ち合わせていたのだな……」


 三十分も経った頃には、噂は完全に貴族中に回りきったところだった。開いた扉の奥から、漣のように人々の呟き声が聞こえてきた。


「……どうやら、これで私は少女趣味の醜名を得てしまったようだな」


 項垂れたシャルルの様子を見たミラジェは何が何だかわからない。

 とりあえず、わかったのは自分のせいで、この見目麗しい人が何か大きな被害を被ったらしい、と言うことだけだった。




 夜の闇が深くなった頃。

 シャルルのロリコン発覚で混乱の渦にあった舞踏会がお開きになった頃。一人の男がシャルルとミラジェとジャンがいる部屋を訪ねてきた。


「やあやあ、シャルル兄様。なんだか大変なことになっているらしいじゃないか」


 穏やかな笑みを携えたこの男はぱっと見、二十代後半に見える。まだ、若い年齢のはずなのに、不思議なほど落ち着きがあり、貫禄を感じる佇まいをしていた。


(この方は誰かしら……? 一度もお会いしたことがない方だということはわかるのだけれど、どこかで見た気がする……)


 ミラジェは目の前にいる男とは面識がない。それなのに、どう言う訳か、見覚えがあるような気がしてならなかった。

 

(服装からして、高貴な方には間違いないのだろうけれど)


 ミラジェがぼんやりと思考を巡らせていると、シャルルが立ち上がり、男に向かって臣下の礼を見せた。


「……陛下。お騒がせしてしまって申し訳ありません」

「へ、陛下⁉︎」


 なんと目の前にいる男はこの国の王だったのだ。普通に生きていれば絶対に対面する機会などないブルジョア中のブルジョアに出会ってしまったことで、ミラジェは口から泡を吹いて倒れそうになる。


「いやあ。まさかシャルル兄様が少女趣味だとは思わなかった。道理で年頃の娘を宛てがっても、いい顔をしないわけだ」

「……陛下。御言葉ですが、今回のことについては完全に誤解です。俺はこの子が怪我をしていることに気がついて、心配し様子を確認していただけなのです」

「……彼はそう言っているけれど、それは本当かい?」


 陛下は訝しげに目を細めながらミラジェに問いかけた。


「は、はいっ! 事実です……。この方は私の怪我があまりにも醜いので情をかけて下さって……」

「……なんだかその言い方も、誤解を生みそうな言い回しだが……」


 シャルルはげんなりと眉を下げている。考えるような表情をしていた陛下は首を捻りながら口を開いた。


「……不躾な質問で申し訳ないのだが、君はどの家の出身なのかな? 私はこれでも記憶力がいいのが自慢でね。この国中の貴族とそれに連なる有力者の顔と名前は全て覚えているのだが……私は君を知らないんだ」


 陛下の言葉にミラジェは驚く。


「……無理もありません。私はアングロッタ男爵家の庶子なのです」

「アングロッタ男爵家……」


 陛下は顔を顰めた。


「よりによってあの一族か……押しが強く陰湿で、私は奴らのことは好かんのだ」

「家族が迷惑をおかけしているようで……申し訳ありません。……私もあの方々が大嫌いです」


 最後に漏れたのはミラジェの本音だった。

 その言いように、陛下はおや? と片眉を上げた。


「どうやら、彼女はアングロッタ家の者から虐待を受けているようなのです。……それを知ってしまったからには、俺はこの子をあの家に戻せません」


 それを聞いた陛下は一瞬驚いた表情を見せたが、アングロッタ家の人間の顔を頭に思い浮かべて、さもあらんと思い直す。

 そうして、思いつきである言葉を口にした。


「ではいっそ、この娘を本当に娶ってしまったらいいのではないか?」

「は?」


 シャルルは目を点にする。

 ミラジェはまさか『めとる』が『娶る』だと結びつかず、めとるってなんだっけ……? と理解が追いつかない顔をしていた。まさか自分が氷の公爵の相手になるとは思っていない。


「娘、歳はいくつだ?」


 陛下に話しかけられたミラジェは一瞬頭がフリーズしかけたが、どうにか口を開く。


「……あと一月で十五歳です」

「はあ⁉︎」


 シャルルは成長が思わしくなく、どう見ても十五歳には見えない少女を見て声を上げた。

 十歳ほどにしか見えぬ、こんな小さい子供が、成人近い年齢だったなんて! 先程の服を剥ぐような行為は彼女にとって屈辱だったのではないか……。そんな思いが頭を巡り、申し訳なさに押し潰されそうになったが、もう遅い。


 一人頭を抱えるシャルルを放置して、陛下はあっけらかんと言い放った。


「なんだ。それならより好都合ではないか。娘、婚約者はいるか?」

「い、いえ。……いませんけど」


 ミラジェがそう答えると、陛下は目をきらりと光らせ、白い歯をにっと見せて無邪気な少年のように笑った。


「エイベッド公爵」


 いとこという血縁関係からいつもはシャルルのことを親しげにシャルル兄様と呼ぶ陛下が、エイベッド公爵と呼ぶ時は、改まった場面でのみだ。今、この場でその呼び方を持ち出してきたことに、嫌な予感を覚える。


「……なんでしょうか」

「この騒ぎを収めるためにも、この娘と婚姻を結べ。これは王命だ」


 シャルルは驚き、椅子から転げ落ちそうになる。それをスマートに従者のジャンは後ろから支えた。


「へ、陛下? それは……いくらなんでも」

「この騒ぎでエイベッド家の評判は地に落ちた。近いうちに私の母の耳にも届くだろう。この娘を娶ってしまうのが一番騒ぎを大きくせずに済む方法ではないか? ……それにこのままお前の性癖が広まれば、年端もいかぬ娘を持つ貴族たちが、釣書を持ってうじゃうじゃ集ってくるぞ」

「うっ!」


 シャルルは顔を青くした。

 それはあまりにも、面倒だ。


「私はシャルル兄様のために舞踏会まで開いたのに、兄様は控室から出てこないまま、時間を潰そうと考えていたようだし……まあ、縁がある人間に一人でも出会えたのなら、よかったのだろう」


 陛下はニヤリと人の悪い笑顔を見せた。


 こうして、氷の騎士として名高い三十二歳のシャルルと、来月十五歳になるが、見た目はまったくの幼な子と言っても過言ではないミラジェの婚姻は決まったのであった



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