事件の顛末とこれからの話 前編
昼間だというのに、日差しが入りにくい、使用人塔の廊下を、一人の女が歩いている。
女は、パッと見た限りでは平凡な、どこにでもいる量産型の侍女にしか見えない。
しかし、よく耳を澄ませると、その女の立ち振る舞いの違和感に気がついてしまう。女は歩く時に、足音一つ立てないのだ。その様子はまるで、自分の存在を屋敷の使用人たちという木々の中に溶け込ませて、自分の悍ましさを隠そうとする魔木のよう。
魔木は近づいてきた人間をしたり顔で喰らうのだ。
その使用人の女はとある貴族家に雇われた暗殺専門業者の一員だった。
(はあ。なんて面倒な仕事なんだろう。殺さずに、痛めつけるだけでいいなんて)
ぼんやりとした脳裏に依頼人の傲慢な姿が蘇る。
あの女からはいいところのお嬢ちゃんを体現した様なバニラの香水の匂いがした。
自分の手は悪事に染めたことがないであろう、高位の人間にありがちな、鼻につくふんぞり返った態度。
「私はね。シャルル様を奪ったあの女が許せないの。すぐに殺すなんてつまらないことはしないわ。少しずつ、少しずつ、痛めつけて頂戴」
そう女に言いつけた、今回の依頼人は頭が悪い。
確実に、自分の存在を相手に悟られずに対象を消すのであれば、一度で仕留めるのが一番手っ取り早いのに。
どうして私はこんな依頼を引き受けてしまったのだろう。女がため息をついた瞬間だった。
「……あなたね?」
後ろから気配もなく小さい影が近づいていた。使用人の女がその姿に気がついたのは、首の動脈に爪を強く当てられてからだった。
「ひっ!」
動けない。
自分を捕らえた人物は、素早い動きで、自分を壁へ押し当て、急所を押さえ込んだ。
押さえ込んだ人間はさほど力があるようには見えない。だが、これ以上動いたら敵の爪先が自分の頸動脈に食い込んでしまう絶妙な角度で、押さえ込まれてしまっている。
(なんだこいつは……。この身のこなし……相当な手練れっ!)
眼球だけをなんとか動かし、抑え込んできた人物を確認すると、そこにいたのは今回の対象、公爵夫人のミラジェ・エイベッドその人だった。
王宮に忍び込んでも、無傷で逃げ切れた自分がどうしてこんな子娘に抑え込まれているのだろう。
「あなたって本当にいけない人。旦那様がいる前で、私に毒を仕込むなんて……」
ミラジェの言葉に女は息を呑む。女は自分が関与していると推測されてしまうような、証拠は一切残していなかったはずなのに。
「どうして私が……毒を仕掛けていることがわかった⁉︎」
「私はね。お姉さん。ずうっと悪意に浸されて育ってきたの。だから、悪意ある人間にとっても敏感なんです。あなたが私を見る目……。他の皆さんと違うからすぐにわかっちゃった。ふふふっ!」
ミラジェの目の奥にはどろんとした底のない薄暗さがあった。
それは女にミラジェを害することを依頼した人間が持つ、上っ面だけの浅ましさや愚かさとは一線を画す、己の手を汚したことがある人間の目だった。
(これは誰なの! 私は依頼者に何もできない、幼いだけの子供だと聞いていたはずなのに)
薄暗さを感じる不敵な笑みに使用人の女は背筋を凍らせた。
ミラジェは耳元で囁くようにいう。
「やるなら、もっと徹底的にやれ。隙を見せるな」
地を這うような低い声で紡がれたそれは、悪役のセリフそのものだった。
*
日暮れのエイベッド家の庭園は、楽園のように美しい。物語の中に出てくる妖精たちが戯れていてもおかしくないほど、生命力に溢れた植物たちは、今日も健やかに新芽を伸ばす。
シャルルの執務室から出てきたばかりのジャンは、今日の一連の流れを頭の中で思い返し、ふうと息をつく。
(やれやれ。若奥様を心配する坊ちゃんをなんとか宥めていたらこんな時間になってしまいましたね)
毒混入事件から丸一日が経ったというのにまだ犯人は捕まっていない。屋敷の中は今までになく殺伐としていて、居心地がとても悪い。
早く片付けねば、と思っているが……。
ぐるぐると思考を巡らせていたジャンは長い廊下の先からズルズルと何かを引き摺るような不審な音が聞こえてくることに気がつく。
(なんだ? まるで重いものを引き摺るみたいな音じゃないか)
目を細めて確認すると、そこには自室のベッドで寝ていたはずのミラジェの姿があった。
ミラジェは瞳を三日月型にしてこちらを見ていた。
「ジャンさん。はいどうぞ。この方をお探しだったのでしょう?」
「っ!」
ジャンはぐいっと押し付けられたそれを見て、言葉を失った。
__そこには縄でぐるぐるに縛られた、侍女がいたのだ。状況が状況なので、この女が何者かは見当がつく。きっと、ミラジェを襲った人物に違いない。だが……。
「どうやってこの者を捕らえたのですか?」
「ああ、私は男爵家で使用人たちにいびられることも多かったので、牽制のために護身術を身につけていたのですよ。とは言っても、私は体が小さいので、力技を使うことはできませんでしたから、急所を押さえ込んだり、毒を入れられた食事の毒性を使って、相手を倒すことしかできませんでしたけど……」
男爵家にいた頃。ミラジェは家族だけではなく、使用人にも危害を加えられることがあったのだ。しかしそれをミラジェはよしとしなかった。
ミラジェが決めたルールでは、自分に危害を加えていい、正当な理由があるのは家族のみだった。
いくら妾の子とはいえ、男爵家の血筋を継ぐ、貴族の子である自分に、庶民である使用人たちが危害を加えるのはルール違反であった。
そんなルール違反者を、ミラジェは自らの手で葬っていた。
そんなミラジェにとって、殺意の薄い間者を捕まえることなんて、お茶の子さいさいなのである。
(いやそれだけできれば十分でしょう……)
ジャンは逞しすぎるミラジェの口ぶりに、あんぐりと口を開けてしまう。
ジャン自身もシャルルを守るために、武道は嗜んでいるが、いざと言うときに、ミラジェのように機転を利かせて相手をのすことができるだろうか。
若奥様からはこれからも様々なことを学ぶべきだと思い返す。
それはさておき。
ジャンは侍女の顔に見覚えがあった。
だが、その人物がだれなのか、すぐには思い出せなかった。それは随分昔のことだったからだ。
(……どこで見たんだ?)
思考を巡らせると、やっと何者かがわかり始める。
「あっ!」
「? ジャンさんはこの方をご存知なのですか? 身のこなしから察するに、暗殺の専門業者のようですが……」
ミラジェが訝しげに顔を歪める様子を見て、ジャンはなんでそんなことがわかるのだ……と、末恐ろしさを覚えた。
だが、今はその情報が重要な手がかりになる。
「シャルル様が以前王宮に招かれた時、陛下が暗殺未遂に遭ったことがあったのです。その時、王宮ですれ違ったことが……」
その言葉を聞いたミラジェはへえ、と耳奥に余韻が残る声音を出す。
「陛下にまで害を為そうとした前科がおありなの。まあ……愚かねえ」
ミラジェは縄の根元をぐいっと引っ張り、間者の女の体がより絞められるように持ち方を変えた。
「ねえ、あなたの主人はどなた?」
「……言うわけないでしょ」
「そう……。言わないの。……じゃあ、爪でも剥ぎます?」
「「えっ!」」
ジャンと間者の女が同じタイミングで声を上げた。
間者の女は、信じられないものを見たかのように目を瞬かせる。
可愛らしい、フリルのドレスに身を包んだ、華奢な少女から出るとは思えないギャップに満ちた__満ちすぎた言葉だったからかもしれない。
「私、知っている拷問レパートリーの豊富さなら……誰にも負けない自信があるんです。大丈夫。どこまでなら死なないかも、ちゃあんと見極められますから」
仄暗い笑顔は、それが脅しでないことを明確に表していた。
「ひっ! ひいいいいっ!」
可憐な幼姿のミラジェが笑顔で爪を剥ぐ様子を、リアルに想像してしまったのだろうか。間者の女は泡を吹いて、倒れてしまった。
「あら、脅しただけなのに気絶しちゃったわ。案外、打たれ弱いのかしら?」
ふう、と息吐くミラジェの隣で、しげしげと目を凝らすジャン。
「なかなか、見応えのある光景でした……今の発言は冗談ですか?」
「いいえ。本気よ」
おおう……。本気だったか。
(そういえば、猫って……虫を一発で仕留めずに、動きが止まるまでいたぶって弄ぶことを好む)
背中を冷たい汗が一筋通った。
ジャンはにっこりと笑うこの人には逆らわないようにしようと、密かに心に決める。
その時だった。廊下の先から、速度の速い何かが走ってきた。
「ミ、ミラジェ……⁉︎」
そう叫びながら走ってきたのはシャルルだった。シャルルはミラジェの無事を確認して安心したのか、ミラジェの体をがっしりと抱きしめる。
「なっ! なんですかっ! いきなり!」
「ミラジェが部屋にいないと聞いて……間者と接触したのではないかと心配してっ!」
「……間者なら、そこで伸びていますが」
どうやら、シャルルはミラジェを心配するあまり、彼女しか視界に入っておらず、すぐそこで床に倒れ込む間者の女に気がつかなかったようだ。
*
「ミラジェ! 君は何をしたんだ!」
シャルルは伸びる間者を指差して、ミラジェを問い詰める。
「少々、キャットファイトをして参りました」
うまいこと言った、と言わんばかりの表情のミラジェ。
ああ、こりゃ何を言ってもだめだ__ミラジェの扱いを覚え始めたシャルルは、叱るのをやめ、ため息をつきながらしゃがみ込む。床に伸びた間者の女の顔をじろりと覗き込んだ。
「ああ。やはりその女だったか」
「? 旦那様はこの女がどこの手の者だか知っているのですか?」
「ホーライド家の御令嬢が放った間者だろう」
シャルルの言葉にミラジェは一瞬なんだか分からず、思考を一時停止させる。
「ホーライド家って……あの、舞踏会でシャルル様の部屋に入って泣き喚いていた?」
キョトンとした表情のミラジェがシャルルに聞き返す。
「ああ。彼女は私が冷徹そうに見えて、実はヘタレで女の子に振り回されるのが大好きな男だと決めつけて私に迫っていたのだ」
「当たっているじゃないですか」
と、ジャンが
「私と……同族?」
とミラジェがつぶやく。
その言葉に空気が一瞬、ピシリと凍った。
「こんなところに競合が……」とミラジェが深刻そうな表情を浮かべると、シャルルはぶんぶん首を横に振る。
「いいやっ! ホーライド家の御令嬢は悪質で……。人の話を聞かず、自分の理想を押し付けてくる気質があった! 彼女に追いかけられて……私は何度悪夢を見たか!」
なぜだかよくわからないが、弁解するように捲し立てるシャルルを見て、ミラジェは頭にはてなを浮かべてしまう。
(ん? 旦那様は何をこんなに焦っているのだろう)
「それは……災難でしたね。私も自分の固執した考えに飲まれて、旦那様に理想を押し付ける様な真似をしない様に気をつけます……?」
「ミラジェはそんなことしないだろう? 君はいつだって、線引きがはっきりしていて、現実的だ」
「はあ……。私は夢を見るのは布団の中だけと決めているので……?」
言葉を返せば、返すほど、何を言いたいのか全くわからない、可愛げのない言葉ばかりが口から出てくる。
ミラジェの様子を見たシャルルは、困った顔でミラジェと向かい合う。
「あのなあ……。ミラジェ、君はホーライド家の御令嬢と自分をどうして同じテーブルに載せようとするんだ?」
「旦那様の元に押しかけてきたという点ではあの方と私は同じ様な存在でしょう? それに……迷惑をかけたという点でも」
「君は迷惑な存在なんかじゃない」
シャルルはミラジェの目を真っ直ぐ見据えて言った。
「君は全く気づいていないかもしれないけれど。私は……もうすっかり君に絆されているんだよ」
「まあ……」
「可愛い君と、これからの人生を共に歩んでいきたいと考えている」
シャルルはここぞとばかりに勇気を振り絞った。
後ろではジャンが「坊っちゃん……成長して……」と小声でぶつぶつ呟いている。
「えっ……。旦那様、私のこと可愛いと思っていたんですか?」
意外な言葉に、ミラジェはばっと勢いよく顔を上げる。
「君が部屋に来たり、楽しそうに過ごしている姿は、愛らしいと思っていたが……それがどうした?」
(そっか……。私この家に来て、ろくなことをしていないから、てっきり呆れられていると思っていたけれど)
受け入れられていたのだ。その当たり前のようで大きい事実が、馬鹿みたいに嬉しい。
今まで自分が、本当に受け入れられる場所なんてなかったのだから。
ミラジェはむずむずと口元を緩ませた。
「口に出してくれないとわかりませんよ! 私、嫌われているかと思ってました!」
「嫌ってはないぞ⁉︎ 」
シャルルは自分の考えが全くミラジェに伝わっていないことに気がつきわかりやすく萎れていた。
二人には言葉が驚くほど足りない。だからこそ、これからいくらでも埋め合わせが利く可能性を秘めている。
(急がなくてもいいから。旦那様を支えられる公爵家の妻になりたいわ)
ミラジェは役割、ルール上の夫という立場を取り払って、シャルルというどうしようもない一個人のことを好いてしまっていることに気がついた。
図体は大きいくせに、小動物のようなしおらしさを見せて落ち込むシャルル。
その様子を見て、ミラジェはふふふと笑みをこぼす。
(私、旦那様のこういうしょぼんとした顔に弱いのかもしれない)
シャルルの性格は物語の王子様らしさとは、遠く離れているが、困らせることに楽しみを覚えるミラジェにはとても好ましい性格だった。
「じゃあ、わたくしはいつまでもかわいい妻でいられる様に努力しますね?」
ミラジェがふふふ、と笑みをこぼしたその時、シャルルが余計な一言を言い放つ。
「努力なんてしなくとも、子供はいつだってかわいいだろう」
子供。
その言葉で、廊下が氷河に覆われた様に冷え切った。
「まーたそうやって子供扱いする!」
二人の関係性はそう早く深まらない。こうして三歩進んで、また二歩戻るのが常だ。
「面白かった〜」
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