猫なので綺麗好きです 後編
(ああ、どうしてこの子が泣いていると心が痛いのだろう)
シャルルは痛々しくて見ていられない気持ちになる。だが、同時にミラジェから目を逸らしてはいけない気分にも襲われる。
目を逸らせば、ミラジェは消えてしまう気がした。
(ミラジェを少しでも幸せにしたいと考えていたはずなのに、私が彼女に与えたのは、初夜をでっち上げたと言う恥辱と、私が受けるべきだった毒を喰んだと言う事実だけだ)
与えたい、とずっと思ってきた。公爵家の主人として生まれてきた自分はずっと人に与える立場だった。
なのに、ミラジェには何も与えられずにいることをシャルルは悔しく思っていた。
それどころか、ミラジェはたくさんの素晴らしい恩恵をシャルルにもたらしてくれる。
ミラジェが来てからの屋敷は、格段に賑やかになった。ジャンやアレナを始めとした従者たちは、ミラジェが来てから活発な様子を見せるようになった。
何に対しても、無邪気に喜ぶミラジェを喜ばそうと、料理人たちは腕を振るい、使用人たちは屋敷を張り切って磨く。シャルルだけがこの屋敷を管理していた時よりも、何倍も何倍も空気がいい。
それどころか、公爵家の女主人として足りない部分を補おうと、毎日勉学に励み、努力を続けている。
元々持っていた知識だって素晴らしい。その知識はテイラー侯爵家の水質汚染問題までをも、解決してしまった。
いつの間にか、ミラジェは守られているだけの子供ではなく、守れるだけの力を持った人間になっていた。
シャルルはまだ守ってやりたいと思っているのだが。
「この家で、取り戻せるように、私は力になりたい……」
「……何をですか」
「失われた日々で手に入るはずだったものを」
シャルルは願うように言った。せめて、せめて。与えてくれた分の幸福を返せるよう、幼き日のミラジェが救われて欲しい。そんな気持ちからの言葉だった。
しかし、どこかぼんやりと焦点の合わない目でミラジェは否定をする。
「失われたものはもう二度と戻りません」
酷く冷たい、人間離れした淡々さに、シャルルは息を呑む。
「君は……どうしてそんなに」
悲観的に物事を語るのか。そう続けようにも、言葉がうまく喉から出ない。
「旦那様は苦しい時間を過ごしたわたくしはかわいそうな人間だとお思いですか?」
その言葉にシャルルは目を見開く。
「辛い過去、辛い経験。忘れたいこと……。私の人生にはそれしかありませんけれど、それがまったく役に立たない空白の期間ではないと思うのです。現にテイラー侯爵にお伝えした水質改善の知恵だって、毒に気づけたことだって、あの経験があってこそなのです。……悔しいですがね」
「ミラジェ……」
「私にはあの環境で生き抜いてきたことを汚点ではなく財産にするしか経験を正当化する方法がないのです。その財産と生き汚なさをフルに使ってこの家を盛り立てて見せますよ。だから、旦那様……私を利用してください」
その言葉を受け、シャルルは自分がミラジェのあり方を誤解していたことに気がついた。
自分は、ミラジェを幸せにしなければならないと半ば義務のように思い込んでいた部分が少なからずあった。
しかし、ミラジェは強い。
どんな環境であっても最善を選べるだけの知能と勘の良さを持っている。なんなら、シャルルよりも頭が切れるし、非道な選択を選べるだけの冷徹さも持ち合わせている。
ミラジェに必要だったのは、庇護ではなくその素養を遺憾なく発揮させるためのサポートだったのだ。
ミラジェは可哀想な少女、と一括りにまとめられる様な人間ではない。シャルルが知らないだけで、彼女にはまだ多くの武器が隠されている気配がする。そんなミラジェだからこそ、彼女だけを幸せにすることを考えるよりも、シャルルとミラジェも両名が、ひいてはエイベッド家が、幸せになれる方法を考えていった方が遥かに有意義なのだ。
ミラジェにはそれを可能にするだけの、度量がある。
「公爵家の女主人になるには……勉強が足りない部分も多いですが……。努力して、吸収して。この家に相応しい人間になります! ……変えられるのは未来しかないのですから」
その言葉は力強くシャルルに届く。
ミラジェはちっとも悲観的ではなかった。シャルルの考える何倍も、何倍も、強く、逞しかった。
(ああ、ミラジェは眩しいな)
きっとミラジェとなら、この妬みやしがらみの多い公爵家の職務を全うできるだろう。
力強い彼女と、今後も人生を共に歩けることを、シャルルは心の底から嬉しく思った。
*
一方、シャルルが自分の気質を買ってくれているだなんて微塵も思っていないミラジェは、シャルルがいなくなった部屋のベッドの上で一人、考えてこんでいた。
(うーんこれからどうしようかな……)
この公爵家の主人である、シャルルに妻扱いしてもらえず、猫として扱われるのはいい。
しかし、なんの成果も出さずにただ養われているミラジェの存在を、使用人達はそのことをどう思うだろうか。
シャルルは猫の様に伸びやかに過ごしてくれたらいいと言っていたが、基本的にミラジェは対価なしの愛情や親愛がこの世に存在するとは考えていない。
唯一、それを与えてくれた母はとうの昔に亡くなってしまっている。
親元を離れ自立した人間が、次に求めるのは対価ありきの男女の関係__恋愛感情だ。しかし、シャルルは自分に積極的に恋愛感情を持ちたいとは思っていないだろう。彼としては、自分はあくまでも庇護者であって、ミラジェのことを守られるべき猫だと思い込みたい様に見える。とりあえず、幼いうちは。
猫と定義しておけば、恋愛感情なんて不安定なものとは関係なく、ミラジェを庇護することができるのだとシャルルは定義付けている。
__しかし彼は、猫にだって飼い主を守りたいと言う気持ちが存在していることを、忘れているのだ。
ミラジェは今、自分が置かれている環境の素晴らしさを思い返す。
自分のことを気にかけてくれる素敵な従者たち。特にアレナやジャンは本当にいつもミラジェのことを気にかけてくれていた。彼らはまるで姉や兄のように、優しく、ミラジェを導いてくれる彼らはミラジェにとっても大切な人々だった。
そして忘れてはいけない、ちょっとヘタレだけれど、自分のことを大切に思ってくれる、シャルル。
この家を守りたい。自分にとって、この家は失い難い、幸せな環境だった。
(このまま間者が混じったままだと、みんな怯えて仕事がしにくくてたまらないだろうな……。まずはそこをどうにかしなくちゃ)
目的を設定したミラジェの切り替えの速さは一級品である。
主人に害を為そうとする人間がいる今。その人間を見つけ出し、排除することに、従者たちは尽力しているに違いない。自分も女主人として協力すべきではないだろうか。
じっとしているのはミラジェの性に合わない。
(この家の掃除から始めましょうか)
「ふふふ……」
堪え切れない不敵な笑い声が漏れる。
ミラジェは、その不遇な境遇から、いろんな意味で掃除が大の得意な少女だった。
*
ミラジェが毒を受けてから一日が経った。
いつもであればバラの芳しい香りが広がり、誰もが夢の様にうっとりしてしまうエイベッド家の屋敷だが、公爵夫人が襲われた翌日ということもあり、陰りが感じられる。今ここにも間者が紛れ込んでいるのではないかという疑念と、恐れが充満していた。
「まだ、ミラジェを害した人間は見つからないのか?」
シャルルは重さを感じさせる低い声で、従者のジャンに問う。
「申し訳ありません……」
ジャンは心から申し訳なさそうに、頭を垂れる。
シャルルは焦っていた。ジャンに調べさせたところ、毒はミラジェのカップにのみ入れられていることがわかった。
この家のどこかに、ミラジェの存在を疎ましく思っている者がいるのだ。
ミラジェに危険が及ぶ前に、間者を見つけ出し、手を打たなければならない。
「まあ、ミラジェの輿入れに当たって使用人の人数も大幅に増えたからな。その間に間者が入り込んだのだろう」
「しかし、どの者も名の通った貴族から紹介状を持っているものばかりです。そもそも今のエイベッド家は国内で王族に次ぐ権力を持っていますから……。そんな家を敵に回したいと思う愚かな者は国中探しても見つからないでしょう」
「本当に愚かな者は、手段なんて選ばずに感情的に動くだろう。しばらくの間、ミラジェの周辺の警備を堅くするように。何か口に入れる際は全て毒見を通せ」
「かしこまりました」
(第一にミラジェを亡き者にしようと考えるミラジェの家族はもう排除済みだ。しかし私は一人だけ、感情に身を任せて動く人間に心当たりがある……)
眉間に渓谷のような皺を刻んだシャルルの脳内には一人の女の姿が浮かんでいた。
*
「……というわけで、若奥様。私が護衛として若奥様のお側につくことになりました」
毒を受けた次の日。まだ今日一日は様子を見て大人しくベッドで寝ていろと、命令されたミラジェの元に、恭しい態度のジャンがやってきた。
ジャンはシャルルの右腕である。エイベッド公爵領の頭脳とも言える彼は領地会議前の今、会議資料をまとめるのに忙しいはずだ。
ミラジェは昨日の資料作成の進み具合を思い出す。ミラジェの側で甲斐甲斐しく面倒を見る暇なんてないのだ。
「旦那様はこの忙しい時期に、ジャンさんをつけるなんて……馬鹿なのではないですか?」
ミラジェは呆れてしまって、淑女らしからぬ表情を浮かべてしまう。
以前よりも大分砕けた様子を見せるミラジェを見てジャンは心の距離が近づいたことへの嬉しさを感じていたが、それ以上に年若い若奥様にもわかることがシャルルにわからないもどかしさに苦笑した。
「……まあ、それだけ若奥様のことを大切に思っているのでしょう」
「だからといって、こんなふうに右腕であるジャンさんを私に寄越すのは本当にどうかと思います!」
「坊っちゃんは今、すべての従者を疑っておられますから。今はこの家に代々仕えている者は私とアレナしかいませんから」
ジャンの口語られた、意外な事実に目を丸くする。
「エイベッド家は……歴史が古く、王家と直接的なつながりを持つ公爵家なのに、代々仕えている従者は少ないのですか?」
「ええ。この家の当主が変わる際に、多くの者がこの家を離れて行ってしまいましたから」
伏目がちに言ったジャンの言葉は重かった。ミラジェは聞いていい内容なのか迷いつつも。エイベッド家に関することなら知っておかねばならないだろうと考え詳しく聞いてみることにした。
「使用人たちは、辞職して他の家に移ってしまったということですか?」
「いいえ。他の者は前公爵であるレイヤード様の屋敷にいるのですよ」
(ん? どういうことだ?)
ミラジェはなぜそんな人事異動があったのかわからなかった。
「確か……レイヤード様は税の不正申告を告発され、当主を退かれたのでしたっけ」
シャルルが若くして公爵としての地位に就いたのは、父親で、前公爵である、レイヤードの不正があってのことだったはずだ。
罪人であるはずのレイヤードに、多くの従者を持たせるのはおかしいのではないだろうか。
「ミラジェ様もそのように解釈されていましたか。でも、実際の顛末は少し違うのですよ」
「え?」
ジャンは、困った表情でことの顛末を話し始めた。
「当時、当主であったシャルル様の父、レイヤード様は長年連れ添った奥様に逃げられ、酷く心を病んでおられました」
「逃げられた?」
知らなかった新情報を受けミラジェは顔を顰める。
「ええ。前公爵夫人は……心がとてもお優しい方__こう言ってはいけませんが、心が弱い方でしてね」
「こう言ってはなんですが……シャルル様みたいですね」
「ええ、そういうところはシャルル様によく似ていらっしゃいます。__優しすぎる彼女には公爵夫人という地位は重すぎたのでしょう。ミラジェ様が毒を受けたように、前公爵夫人も多くの危険な目に遭いました。仲がよろしかったお友達に陥れられることも日常茶飯事で、誰かに裏切られる度に衰弱し……生家に逃げ帰ってしまったのですよ」
「まあ……」
なんて脆弱な精神だ、と健康な体を手に入れ、すっかりメンタル強者になってしまったミラジェは思ってしまったが、ミラジェだって体が辛い状態であったら、同じ手段を選んだだろう。辛い状況に陥って、そこから逃げる手段があったとしたら、そこに逃げ込んでしまう気持ちもわかる。
前公爵夫人は今のシャルルにとっての、ジャンやアレナの様な存在も得られなかったのだろう。
その当時のエイベッド公爵家には、柔らかな心を持つ彼女を守れるだけの地盤がなかったのだ。
「その後レイヤード前公爵は全盛期ならあり得ぬミスを犯し、それを隠蔽することも多くなりましてね……。そぶりには出しませんでしたが、レイヤード様も戦友の様に思っていた奥様が突然目の前から消えてしまったことが相当堪えていたのでしょう。そのうち、隠蔽できない様な間違いを犯すほどに狂い始めてしまいましてね」
ミラジェはジャンの語り口を聞きながら胸が苦しくなる様な感覚を覚えた。
人が狂い始める様子を見ているのは、酷く心が削られる。ミラジェの場合、それは義母や姉たちであって、さほど好意がない人物だったからこそ耐えられた部分もあったが、シャルルはきっと、少なからず自分の父親を尊敬していただろう。
尊敬の対象が醜く形を変えていく過程を見ていたシャルルは、あの柔らかい心を損なわなかっただろうか。
「……しかし、意地があったのかレイヤード様は自ら退こうとはされなかった。どんなに説得してもです。そんなレイヤード様の様子に胸を痛めたシャルル坊ちゃんが、隠していた不備をまとめる形で申告したのですよ」
もちろん、シャルル様は愛情があったからこそ、前公爵に隠居を言い渡したのですよ、とジャンは付け加えた。
しかし、その申告はもはや告発である。
レイヤード前公爵は息子の優しさを正しく受け取れていたのだろうか。
「……なんだか。それでいいのかという展開ですね」
「旦那様の優しさは、分かりやすすぎるところと、分かりにくすぎるところが混在していますよね……」
ミラジェの実感がこもった言葉にジャンは柔らかく微笑む。
なんとなくだが、この経緯はシャルルが君は猫でいろ! といった経緯に形式が似ているような気がする。もしかしたら、シャルルは自分を妻だと認めてくれているのだろうか。
「そんな旦那様のことを、めんどくさいと切り捨ててしまいたくなりますか?」
ジャンはいたずらに笑って問う。
「そう思って切り捨ててしまえたら、きっと楽なんでしょうけれど」
問われたミラジェは眉を八の字に下げる。
「最近、旦那様と関わる時間が増えて……。なぜ、聡明なジャンさんとアレナさんが旦那様に仕え続けるのかがやっとわかった気がするのです」
アレナはおや、という顔で目を見開く。
「若奥様にもわかってしまいましたか……」
「うーん……。なんとなく旦那様って……危なっかしくて守ってあげたくなるなるところがありますよね……」
アレナは十五歳の少女にそれを言われる三十代はどうなのだ、と多少慄きながらも、自分も同じような理由でこの家に残ってしまったのだからミラジェの意見を否定することはできなかった。
「まあ、愚かしさは愛おしさに通じますからねえ」
「……旦那様も、私の愚かしい部分をかわいいと思ってくださればいいのですが」
ジャンはふうと息つくミラジェの様子を見て、おやと片眉をあげる。
「旦那様はミラジェ様に猫のようにあって欲しいとおっしゃったのでしょう? その言葉もきっと、ぼっちゃまのわかりにくすぎる優しさがねじ込まれた結果のような気がしてならないのですよ」
「そうでしょうか?」
「そうですよ。シャルル様は一度内側に入れた方にはとても優しいお方ですから。家族を見捨てるような真似は致しません」
優しさよりも、確実な対価がほしいと思ってしまう自分は非情なのか。
ミラジェは自分の欲望まみれの醜さを感じ取り、苦笑した。
「どうせわたくしは逃げ帰る家もありません。前公爵夫人と同じ轍を踏みたくない公爵家にとって、こんなに都合のいい人材はいませんのに」
「若奥様……」
表情を曇らせたジャンを気遣うように、ミラジェは朗らかな微笑みをつくり浮かべる。
「ええい! 何事においても、この調子じゃいけませんね。もう少し泳がせておこうかと思いましたが、旦那様のお仕事にこうも差し支えるといけません。とっととお掃除を完了させて、旦那様を問い詰めなければいけませんね!」
「お掃除……? 若奥様……?」
一体何をするつもりなのだろう。ジャンは少し心配になりながらも、アレナと同じく、なんだか面白そうなのでとりあえず放置してみることにした。
アレナとジャンは似た者夫婦なのである。
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