猫なので綺麗好きです 前編
「今すぐ、吐き出せ!」
(あら、旦那様は慌てるとこんなに大声を出すのだわ)
ミラジェは毒を盛られた直後だというのに冷静にその場を観察していた。巷では氷の公爵と呼ばれているシャルルだったが、家では柔らかな気質を隠そうとしなかったため、こういった鋭い声を上げることに微かに驚く。
しかし、ミラジェは吐き出すどころか、もう一口カモミールティーを口に含む。この毒が何由来のものなのか、舌の上で転がしながら、見聞する余裕すらあった。
五秒ほど口の中でカモミールティーを転がすように含んでいると口の中がピリピリと痛むのがわかった。きっと、この毒は即効性のある毒。
ミラジェの脳裏にリストアップされた毒の中に、同じ効果を出すものがいくつかあった。
(味からして、植物性の毒だろうな。すぐ効果が出るところを見ると__この季節に紫色の花を咲かせるリンドラの根から取れる毒かしら?)
リンドラは、致死に至るほど毒性が強くない。飲み込んだとしても一回の摂取であれば、腹痛を起こす程度だ。
何度も摂取していると耐性がつく毒でもあるので、ミラジェにとっては無害に等しい毒なのだが……。
(どうやら、この毒を仕込んだ人間は、私や旦那様を殺そうと思った訳ではないようね。そうすると、単なる嫌がらせなのかしら。でも、公爵家の人間に害をなすと言うことはこの国では大罪だわ。この国に流通している毒の中には一瞬で人を殺められるものもあると言うのに、よりによって殺さずに体調を崩させる毒だなんて、一体どういう考えの上でこの毒を選んだのだろう……)
なかなか口からお茶を吐き出さないミラジェの様子を見て慌てたジャンが口元までタオルを差し出す。
ミラジェはせっつかれてやっと、お茶を吐き出した。
口まわりもかぶれないように、きちんと拭う。そして真っ白なタオルに染みた、お茶の色を確認する。
色は飲み込む前と変わっていない。となると、ミラジェの脳内にある、毒データベースの中で該当するものは一つしかない。考えていた通り、これはやはりリンドラの毒だ。
「若奥様! 早く解毒剤をお飲みください!」
ジャンは額に脂汗を掻きながら捲し立てるように言う。
どうやら、エイベッド家にはあのちょっと恐ろしさすら感じさせる傷薬以外にも、大体の毒にオールマイティーに効く万能的解毒剤があるらしい。
ミラジェは、その無尽蔵っぷりに内心引いた。
(でも、そんな素晴らしいものを使わなくとも私は大丈夫なのに……)
実は、毒には慣れっこのミラジェ。この程度、口を水で濯いておけば、問題ないと思っていたが、この家の人間はそうは思わないらしい。
「大丈夫よ。飲み込んでいないし、それほど毒性が強いものでもなかったみたいだから、解毒剤はいらないわ。うがいしておけばこの程度なら大丈夫」
ミラジェが何を根拠にそう判断しているのか、シャルルとジャンはわからなかったが、飲み物を飲み込まず、大事に至らなかったことに安心し、ほっとため息をつく。
今の状況を記録しておこうと、ミラジェがドレスのポケットから手のひらサイズの小さな手帳を取り出したとき、体がふわりと宙に浮く感覚を覚えた。
シャルルがミラジェを持ち上げたのだ。
「ちょっと! 何するのですか!」
「すぐに休めるよう、君の自室に連れて行くだけだ!」
ミラジェはシャルルに俵のように抱えられ、自室へと連行される。
しかしどうせなら、お姫様抱っこが良かった。
(こんな微かな毒、私の体には効かないのに……。何をこんなに焦っているのだろう。まだ、旦那様の仕事は終わっていないのだからそっちを優先するべきなのに)
多分、彼らは自分を心配してくれているのだろう。それなのに、ミラジェはどこか他人事のように思えてしまう。
担がれて、密着するシャルルの体温は直に感じられるというのに、自分はこの状況をどこか遠くで俯瞰的に見ているような気分になってしまう。
この家の温かい人たちに囲まれている状況が普通になってからだいぶ月日が経ち、大切にされることに慣れてきたかと思っていたが、長年染み付いた自分を蔑ろにしていいという考えは、真っ白な布に落ちた、インクの染みのようになかなか消えてくれない。
*
ミラジェの部屋についた途端、シャルルはミラジェをベッドに寝かせる。
なんだかんだでミラジェは毎日シャルルの部屋に出向いて、シャルルのベッドに潜り込んでいるので、自分のために用意された部屋で眠るのは久しぶりだった。
それでも、ベッドのシーツはこの部屋の主人であるミラジェがいつ訪ねてきてもいいように、清潔に保たれていた。
「本当に体調に違和感はないのか?」
ベッドに寝かされたミラジェ。彼女の手をすぐ隣に置かれた一人がけの椅子に座ったシャルルが握りしめる。
「そんなに騒ぎ立てなくても……このくらい、なんの問題もありませんよ。何かあったとしても、こうして一日静かに休んでいればよくなります。猫だって、草食べて吐いたあとはなんともなさそうにしているでしょう?」
「それとこれとは違うだろう……」
大丈夫と答えたのは虚言ではなかった。口に含んだ量も少量だったので体内にはさほど取り込まれていない。
ミラジェが以前その毒を摂取した際は、十分も経たないうちに酷い腹痛が襲ってきたが、今回はそのような予兆も見られなかった。
「どうして毒に気がついたんだ?」
シャルルは聴きにくそうに尋ねる。きっと彼の目にはあまりにも冷静に毒に対処するミラジェの姿にひどく違和感を感じたのだろう。
「男爵家での食事にたまに入れられていたものと同じ味がしたので……」
シャルルはミラジェの言葉に瞠目する。
「……あの家の人間は君の食事の中に、毒を入れていたのか?」
「ええ。でもあの方々の目的はわたくしを亡き者にすることではなく、死なない程度に痛めつけることでしたから。今はこうして、ピンピン生きております」
ミラジェが握り拳を作って気丈な様子を見せると、シャルルは顔を左手で覆うようにして表情が崩れるのを隠した。
「だからといって家族に毒を盛るなんて……許されることではないだろう……」
この人は自分の今までの処遇に胸を痛めて心を揺らしている。それはミラジェの目にも見て取れる動きだった。
(同情されるのは嫌いだったはずなのに……。旦那様が私のことで心を痛めている様子を見るとなぜか心が痛くなるわ……)
ミラジェは初めての感情に戸惑っていた。初夜を工作するような度胸がないヘタレなのに、シャルルのことは嫌いになれない。
シャルルはいつも妻という立場の人間を大切にしているというよりも、大胆不敵な行動をするミラジェ自身を見てくれている気がしていた。
今まで厄介者としか扱われていなかったミラジェは、その真っ直ぐすぎる思いを感じ取る度に、心が掻き乱されてしまう。
「そういえば……取り乱していたせいで君にお礼を言っていなかった。本当にありがとう。君が飲むな、と言わなかったらきっと私は毒を口にしていただろう」
「私のどうしようもない経験が旦那様を救えたのなら……。よかったのかもしれません」
「いや……君がされていたことはどう考えても、不当な暴力だ。正当化することはできない。私は……君を傷つけていた君の家族のことを、永遠に許すことはできないよ」
苦いものを噛み締めたような口調で言うシャルルの様子を、ミラジェはぼんやりと眺める。
(どうしてこの人はこんなに他人に寄り添おうとするのだろう。そうやって生きるのは辛くないのかしら)
何もかもを最低保証で考えてしまうミラジェにとって、恵まれた環境に生まれ人を動かす立場として生きてきた、シャルルの思考は理解しきれないことが多い。
わからない人間を理解しようとするには時間と労力がかかる。
(でも、これから時間をかけて理解していけばいいのかしら……って思ってしまう程度には、旦那様に絆されているのよね……)
妻のかつての境遇を想像し、頭を悩ませるシャルルを、ミラジェは優しい目で見つめていた。
*
それはそうと、この毒を入れた犯人を探さなければならない。
エイベッド公爵家に恨みや妬みを持つ貴族はたくさんあるだろうが、第一に疑われるのは、ミラジェの生家である、アングロッタ男爵家だ。
(一応、元お姉様には釘を刺しておいたけれど、彼女たちがその後どう処理されたのか聞いていないのよね)
「ちなみになんですが……。今回の毒を盛ったのはアングロッタ男爵家の人間ではないのですか?」
ミラジェは臆せず問う。
まさかあんな末端の男爵家の人間を引き入れてしまうほど、緩い警備を敷いていないでしょうね、という考えの元、ミラジェが乾いた笑みを浮かべながらいう。シャルルは硬い表情のまま、首を横にゆっくりと振った。
「それはあり得ない。なんたって、アングロッタ男爵家は取り潰しになってもうあの場所に残っていないのだから」
「……まあ」
ミラジェは目を見開く。
誰も__使用人も、家庭教師も、そんなことは教えてくれなかったのに。
しかし思い返してみれば、婚姻の儀式が終わった頃。ミラジェの周りにいた人間たちの様子が、あまりにもよそよそしいというか……ギクシャクとしていた期間があった。あれは、ミラジェが正式にこの家の女主人になったことで生まれた戸惑いに近い感情かと思っていたが、生家が跡形もなく消えてしまったミラジェに対する憐れみの感情だったのかもしれない。
「男爵は娘達の教育が及ばなかったことの責を問われた際に、元々存在していた余罪を暴かれ爵位を返上することになった。そこで釈放されたわけではなく、彼に恨みがある貴族に引き渡されたと聞いている。……送られた先の貴族のことは知っているが……あそこに送られたら生きてはいないだろうな」
ミラジェはその言葉を聞いて、父が送られた貴族がどの家なのか、見当がついてしまった。
「もしかしたら、父が送られたのはサイラム家ではありませんか?」
「そうだが……。なんでわかった?」
「以前、アングロッタ男爵家にいた頃、サイラム家で働いていた使用人に護身術を習ったことがあったのです。護身術とは言っても……どちらかというと、酷く実用的な……拷問に近い類のことで、とっても勉強になったのですが、同時に手慣れているな、とも感じていて」
ミラジェの言葉に、シャルルは顔を青くする。
「待て待て待て! ミラジェ……。君は一体、サイラム家の人間から何を学んだんだ!」
「生きていく上で便利なことを一通りですかね……。拷問用の国内で用いられる毒の種類を教えてくれたのも彼でしたし」
やけに毒に詳しい様子であるミラジェの知識の源が気になっていたシャルルだったが、まさかこんなところで意外な貴族との繋がりが露見するとは思っていなかった。
「彼にはもっといろんなことを教えて欲しかったのですが……。三年ほど前にアングロッタ家を離れてしまって……」
その言葉にシャルルはおや、と目を見開く。
シャルルはミラジェの身辺をジャンに調べさせていた。その情報の中には、三年前までのミラジェは、たびたび折檻を受けることはあっても、栄養状態はさほど悪くなかったそうだ。もしかしたら、ミラジェがいう、サイラム家出身の使用人という男がミラジェを影ながら守っていたのかもしれない。
「君が余計な武器を増やす前に、その使用人が離れて行ったことは幸運だったのかもしれない……」
「私は武器を持てるだけ持っておきたい性質の人間ですけれど。それで? 義母様とお姉様たちは?」
「娘と母親は辺境にある修道院に送られた。戒律が厳しいと有名な修道院だから、外に出ることは二度とないだろう」
「そうなんですね……」
ミラジェは淡々と呟く。
「……驚かないんだな」
そう言ったシャルルの声は沈んでいた。きっと、彼は自分の年若い女性らしくない、乾いた部分に辟易しているのかもしれないとミラジェは思ったが、これは長年の諦めで作られたミラジェの性格なのだから、すぐに変わることはない。
「まあ、陛下の前であんな醜態を晒しておきながら、のうのうとこれから生きるのは難しいのではないかと思っていましたから。あの場には国内の有力貴族が集まっていたでしょう? でしたら、陛下への反逆罪で、その場にいた誰かが、自主的に片付けているんじゃないかなって思ってました」
「……そうか」
俯くシャルルを見て、ミラジェは薄く微笑む。
(これで私の懸念は一つ減ったわ)
家庭教師が説く貴族教育の中で、ミラジェは自分の立場がどれだけ高位であるかを知っていた。
同時にミラジェは公爵夫人である自分に不敬な振る舞いをした元家族を糾弾し、自分が直接男爵家を取り潰すことができる階位であることも知っていた。
今彼らに与えられている罰以上の酷い罪に処することだってできたのだ。__それこそ、気が済むまで。
『やられたらやり返すのよ。ミラジェ』
母の教えが、ミラジェの頭に蘇る。
(きっと、やり返したら気分はいいんだろうな……)
自分をとことん追い詰めた人間のことを、自分も追い詰めてやろう、と思った瞬間もあった。
でも、ミラジェはそれをしなかった。
清廉な心を持っているからではない。
裁きを下すことも、何もかも面倒だっただけだ。
一時の快楽のために、己の腕を血染めにするような人間の屑ともう二度と関わりたくない感情が勝つ。
(あの人たちがやってきたことは非生産的だわ。そんなことに時間をかけるくらいなら、もっと生産的なことに時間をかけるべきよ)
私は、あの人たちの先を行くのだ。そう割り切りたかった。
だけども……。
今まで自分を苦しめてきた人間がいなくなった。その一言を聞いただけだと言うのに、ミラジェの心中にはさまざまな感情が渦巻く。
怒り、苦しみ、不甲斐なさ。
その時、何もできずにやられっぱなしだった自分が、どれだけ無力で、非力な子供だったのか、権力を持った今だからこそ思い知らされる。
(多分、私は私が思っていた以上に、あの扱いに傷ついていたんだわ)
体の傷の大半は、公爵家の秘薬によって治された。しかし、心の傷は?
きっと幼い頃にできた傷は、永遠に古傷としてミラジェに残り続ける。
しかし、治ることのない傷は隠さなければいけないのか。
傷は、本当に傷としての役割しか持たないのだろうか。
無言で、唇を噛みしめて静寂を貫いていると、シャルルが少し震えた声で問う。
「こんなことを聞くのは……よくないのはわかっているんだが……男爵家の人間がいなくなって清々したか?」
(本当にこの人は……。無神経なのかしら。こんなことをこのタイミングで私に問うなんて……)
それでも百パーセント嫌いになれないのは、なぜなのか。
それはどんなに無神経な人であっても、シャルルはミラジェにとって、救世主であるからだろう。
シャルルに会わなければ、ミラジェは永遠にあの男爵家に囚われたままだった。
ここには王都で売られている絵本に出てくる登場人物のような、完璧な王子様はいない。
いるのはヘタレで無神経な旦那様だけ。
でもその男は古傷だらけの人間を案じる心優しい一面も持ち合わせている、恩寵でもあるのだ。
渦巻く感情を押さえ、シャルルを睨みつけたミラジェはポロリと一粒涙を流す。
「清々すると思っていたのに……。心がひねり潰されるように辛いんです。あんなにすぐに消してしまえる人たちに、私は十年間も苦しんでいたのかって……。私の十年は何だったのって……」
「すまん……。無神経なことを聞いた。許してくれ」
それ以上言わなくてもいいとでも言いたげに、シャルルはミラジェをがっしりと抱き締めた。その腕は怒りなのか、悲しみなのか、憐れみなのかはわからないが、小刻みに震えていた。
(どうして……。どうして。この人はいつもいつも、私以上に苦しげな表情をするのだろう)
まるで、本当に案じているようじゃないか。
シャルルがわからない。どうして、自分をこんなにも大切に思ってくれているのか。
わからない。わからないけれど。
シャルルが自分の人生に寄り添おうとしてくれることがひどく嬉しいのは確かなのだ。
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