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家主の心中は察せず、猫道まっしぐら 後編


 静寂が広がる夜の寝室で、シャルルが一人本を開いていると、とてて……と小さな足音が聞こえて来た。


「旦那様、こんばんは〜」


 伴侶用の小さな扉を開けて、やってきたのはもちろんミラジェだ。


 いつものように、シャルルの座る一人がけのソファの前までくると、よいしょっと掛け声を共わせ、膝の上へと登頂を始める。


「……」


 また膝に乗ってきたか……。いい加減何回もやられていると、耐性がついてくる。すごくかわいいことには違いないが、こんなくらいで動揺を見せたりはしない。私の理性はそのレベルまで磨かれているのだ。

 と、シャルルがタカを括ってきた時だった。


 膝に乗ったミラジェがシャルルと向き合うように、腕を首あたりに巻きつけたかと思ったら……。


 ペロリ。


「っっ⁉︎⁉︎⁉︎」


 シャルルは声にならない悲鳴を上げる。

 ミラジェはシャルルの顔に自身の顔を近づけると、そのままシャルルの下唇をなぞるように舐めてきたのである。


「な、なめっ⁉︎」

「まあ、私は猫なので飼い主の口を舐めることもありますよね?」


 へへーん、どうだ! と悪い顔をしたミラジェ。シャルルの顔は信じられないくらい真っ赤だった。


「舐めるのは流石にやめなさいっ!」

「どうしてもですか?」

「どうしてもだ!」


 シャルルが勢いよく言うと、ミラジェは不思議そうな表情を見せる。


「でも……。私、わかるんです。旦那様、私のやること、あんまり嫌がってないですよね?」


 断定するような言い方にシャルルは怯む。


「ここ数日で気が付いたんです。旦那様ってわりと、私にこうやって振り回されるのが好きなんじゃないかって」

「……何を根拠に」

「目です」

「目?」

「ええ。目には感情が顕著に反映されます。その人が怒っているのか、楽しんでいるのか……。感情の揺らぎはどんなに訓練を重ねても、全て隠し通すことはできません。私は男爵家の皆さんの感情を読み取らなければ、より酷い折檻に遭う境遇にいましたから、人の顔色を読むのは得意なのです」


 人の顔色を読むという能力は、ミラジェが男爵家の悲惨な生活の中で身につけた特殊能力だった。


 自分を害そうとしている人間の瞳には、薄暗い影がかかる。逆に自分に好意的な人間は瞳の奥が淡く柔らかいものへと変化していく傾向がある。ミラジェはどんな時でもその色を確認してから行動を起こす癖がついていた。


 ミラジェがちょっかいを出す時、シャルルは困った表情は浮かべるが、瞳の奥に翳りはなく、むしろ柔らかさすら滲ませる。


 独自に観察分析を続けた結果、シャルルは嫌がっていないとミラジェは断定し、ちょっかいを加速させていたのだ。


「そういうのが好きな人もいるって……ジャンさんは言ってましたよ?」

「ジャ……ジャン……」


 シャルルは自身の従者のしたり顔を想像し、脱力した。


(とんでもないことを教えるな!)


 シャルルは使用人の自由さと、ミラジェの天真爛漫さのコラボレーションがあまりにも相性がいいことに、頭を抱えて天を仰いだ。



「でも……本当に旦那様ってお優しい人ですね。こんなことをしても怒らないなんて……」


 不安そうな目でシャルルを見つめるミラジェ。

 シャルルはその時やっと理解した。ミラジェは自分がどれだけのことをしでかしたら、シャルルが怒り出すのか、測っていたのだ。


「試すような真似をしなくとも……。私は君を家から追い出すような真似はしない」


 その言葉を受けて、ミラジェは怪しむように目を細める。


「さあ、どうだか。人は変わってしまう生き物ですもの」

「君が言うと、酷く説得力があるな」


 この家に来てから、たった二ヶ月。その短い期間でミラジェは、花開くように己の素質を開花させていった。

 この家に来たばかりの頃、ミラジェはものを言わぬ人形のように見えた。それは彼女が自分を守るために作り上げた外面であって本当のミラジェではない。

 本当のミラジェは勝気で負けず嫌いな気質の持ち主だったのだ。


 思っても見ない変化だったが、むしろそんな無邪気で無鉄砲なミラジェの様子を、シャルルは意外にも好ましく思っていた。


「じゃあ、もう舐めるのはしません。その代わり……私のお願いを一つ聞いてくれますか?」

「内容によるな……」


 一体どんな事を要求されるのか……。シャルルは身構える。

 ミラジェは嬉しそうなニッコニコの笑顔だ。


「じゃあ、言いますね……。あのですね……たまにぎゅっと抱きしめて欲しいんです」

「抱きしめる?」


 もっとすごいことを要求されるのではないかと身構えていたシャルルは気が抜けてしまった。


「ええ。今日、ジャンさんと話していて、ジャンさんがお兄さんみたいに感じてとっても嬉しかったんです。今まであんな風に話してくれる人は家族にいなかったから」


 ミラジェの言葉を聞いたシャルルははっとする。

 今まで、家族に蔑ろにされ、かつ虐待めいたことをされていたミラジェは当たり前にもらえるはずの愛情を受けることなく育ったのだ。今、求められなかった愛情を求めても不思議ではない。


「それで思い出したんです。本当のお母さんがいた時は、よく抱きしめてもらっていたなあって。……今は抱きしめてくれる人がいないことが、急に寂しくなっちゃったんです」

「ミラジェ……」

「男爵家にいた時はそんなこと、思わなかったんですよ? 今、生活に必要なものが揃って、精神的に満たされたから、そういう欲が出てきたんだと思います。でも、いくらお兄さんみたいだからって妻帯者であるジャンさんにそんなこと頼めませんし。旦那様は一応、猫である私の飼い主ですけど家族には違いありませんので、頼んでもいいのかなって……」


 捲し立てるように言った後、ミラジェはかあっと頬を赤く染めた。言った後、自分の子どもすぎる欲求に恥ずかしくなったのだろう。


「やっぱり、いいです。……ごめんなさい、調子に乗って変なことを言って」


 ミラジェが部屋を去ろうとした時、シャルルは腕をギュッと掴み、ミラジェを引き寄せ、両腕で抱き締めた。


「不埒な感情は抱いていないからな」


 いちいち断りを入れるのがおかしくて、ミラジェはクスッと笑いをこぼしてしまう。


「知ってますよ。飼い主は猫を抱きしめるものです……あと、吸ったり……」

「吸わない」



 年下の少女に唇を舐められるというシャルルにとって衝撃的な事件が起こってから、三ヶ月が経った。

 執務室で領主業務に勤しんでいたシャルルは、大きなため息を吐く。


「やっぱり……あの子と婚姻を結んだことは間違いだっただろうか」

「は? 今更何を言っているんですか?」


 傍で書類の整理を手伝っていた使用人のジャンは、主人の血迷った言葉を受けて眉根を寄せる。


「……あの子は家族の愛情に飢えているんだ。ミラジェのことを知れば知るほど、彼女から底知れぬ寂しさと愛情に対する飢えを感じる」


 その後も何日かおきに、ミラジェはシャルルに抱擁を求めた。小さなミラジェは抱きしめられると、安心しきったように表情を緩めるのだ。


 シャルルはそんなミラジェの様子を可愛い、と思うのと同時に、ミラジェが今までに感じていた孤独をひしひしと感じ、切なさを覚えるようになった。


 まだ幼く、心が成長しきっていない彼女に必要だったのは、夫ではなく、彼女自身を百パーセント愛してくれる家族だっただろうに、と。


 自分はその機会を一足飛びに奪ってしまったのではないか、と。


「あなたが寂しくないように支えてあげればいい話でしょう? 今更投げ出すなんて許されませんよ?」


 ジャンの手厳しい言葉はシャルルを頷かせるだけの説得力を持っていた。


「まあ……そうなんだが。婚姻が決まった当初はあまり騒がしくならないうちに、婚姻を破棄してあの子をエイベッド家の養子にでもしようと考えていたが、もうテイラー侯爵家の養子になってしまっているからなあ。テイラー侯爵に面倒をかけることになるのは避けたい。それに陛下も婚姻の儀式に参列しまっている……」


 今更甘ったれたことを言う主人に、ジャンは呆れてしまう。


「そもそもこの婚姻は、王命によるものです。破棄しようものなら反逆罪ですよ……。外堀は固められているんです。観念してください」

「そうは言ってもなあ……」

「若奥様の何が不満なんですか? あんな素敵な方はいないでしょう。私たち使用人にも優しくしてくださいますし……貴族としての勉強も文句言わずに黙々とこなしますし。……あと、何よりちゃめっけたっぷりで可愛いですし」


 ジャンはあの後も度々、ミラジェに入れ知恵をしている。それによって、ミラジェ猫がちょっかいのバリエーションを増やしている事実を、シャルルは知らない。


 ……そして、アレナを始めとする侍女たちにおねーさま的必勝手練手管を教え込まれていることを知らない。


「それにしたって若すぎるだろう⁉︎」

「何を今更。一応成人は超えているんですからなんの問題もないでしょう?」

「それにしたって、あんな幼い子供に……」

「大丈夫です。国内で坊っちゃんは幼女趣味という評判が広がっていますから。手を出してもやっぱりそうか、とみな納得するだけなので、なんら問題はありません」

「もう評判が広がっているのか⁉︎ 国中に⁉︎」


 シャルルは頭を抱える。


「大丈夫です。今まで坊っちゃんはなんでも簡単にこなしすぎて、貴族達に目の上のたんこぶ扱いされてましたけど、このことが発覚したおかげで、皆さん、完璧な人間なんていないんだなあ、と生暖かい目を向けてくれるようになりましたよ?」

「そんな目はいらない!」


 うわああ! と叫びたくなる気持ちを抑えるのにもう必死だ。


「坊っちゃんは、若奥様とじゃれるだけではなく、話し合うことも大切かと思います」

「向こうが勝手にじゃれてきているだけだろう……」


 シャルルは言葉を返すことに疲れて、執務机に突っ伏してしまう。


「と、いうことで、今日は若奥様をお連れしました」

「はい、来ました〜」


 まるで3分クッキングのようなすっ飛ばし方だった。顔を上げると執務机の隣に置いてある、ソファにミラジェがちょこんとお行儀よく座っていた。


「わ、わあああ⁉︎ なんでここにいるんだ⁉︎」

「話し合いと……書類整理のお手伝いに?」

「最近忙しくて、書類が溜まっているでしょう? 若奥様は経理仕事が得意ということだったので、ぜひ手伝っていただこうと思いまして、お呼びしました」

「はい! 実は私、こういう作業は大の得意です! 任せてください!」


 ミラジェはドンと胸を叩いてさも自信があります、と言わんばかりの表情を作る。


(大丈夫か……? これは……)


 男爵家で蔑ろにされていたミラジェに果たして、書類作業などできるのだろうか。一抹の不安を抱えながらも、ジャンとミラジェは楽しげに準備を始めてしまう。


「ささ、若奥様。早速こちらの書類をお願いしてもよろしいでしょうか」


 ジャンはあれもこれもと計算が必要な書類をミラジェに手渡し始める。最初の方は心配してちらちらと視線をやってしまっていたが、ミラジェは意外と手際がいい。

 それどころか元々、書類を扱うのに慣れているかのように、分類の仕方も明確だ。しかも計算についてはジャンより早いくらいだ。


「どうして、君はそんなに手際がいいんだ……?」


 シャルルは素朴な疑問を抱き、ミラジェに質問をした。一瞬、気まずそうに下へと視線を落としたミラジェは、気を取り直したように口を開く。


「男爵家で瑣末な書類は全て押し付けられていましたから。主に使用人が管理する書類中心ですけど」


 その言葉で、シャルルはミラジェは思っているほど、貴族教育に遅れがないという報告を受けていたことを思い出す。

 家族に放置されていた、ということは計算や文字の読み書きなど、基本的なこともできないのではないかと思っていたが、意外にもミラジェは問題なくこなすことができたのだ。そのことを不思議に思っていたが、まさか……。


「あの家では使用人たちにもこき使われていましたから。でもみんな、家族よりも優しかったですよ? 仕事をこなすと、ご飯を分けてくれたりしましたし……。難しい仕事をした方がおこぼれもらえる率が高かったので、字の読み書きも計算も使用人に習ったり……見よう見まねで覚えました」


 そうだったのか……とシャルルは小さな声で呟く。


「でもこうやって役に立っているならいいのかも知れません。その辺の御令嬢よりも事務仕事ができる自信がありますよ?」

「御令嬢は事務仕事は習わないからな……」


 ミラジェに手伝ってもらいながら、仕事を片付けていると予定よりも二時間ほど早く仕事が片付いてしまう。この結果には手伝いを頼んだジャン自身も驚いていた。


「早く終わりましたから、ご褒美にケーキでもお持ちしましょう」


 そう言ったジャンは扉の外に控えていた侍女に声をかけた。サービングカートで運ばれて来たのはいちごの載った四角いショートケーキと最近ミラジェが気に入って飲んでいる、カモミールティーだった。


「わあ! 美味しそう!」


 心から無邪気に喜び、年頃の少女らしさを見せたミラジェの姿を見てシャルルとジャンは、目を三日月型に細めた。


 さあ食べよう。


 まずはお茶で口を潤してから……そう、ティーカップに口をつけた瞬間、ミラジェはハッと目を見開く。


「そのお茶、飲まないでください」

「え?」

「毒が入っています!」


 切り裂くようなミラジェの声が、執務室に響き渡った。



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