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私はどうやら妻ではなく猫だったらしい 後編


 翌朝。

 眠い目を擦りベッドから起き上がると、アレナが満面の笑みで、ミラジェの方を見ていた。


「おめでとうございます」

「へ?」


 何がおめでとうなのだろうか。自分は役目を完遂できず、不甲斐ない気持ちでいっぱいだというのに……。ミラジェは頭にはてなを大量に浮かべる。


「大丈夫ですよ。お体が辛いでしょう」


 どうやらアレナはミラジェたちがそれを完遂したと勘違いをしているらしい。


「ええっと……アレナは何を思ってそれを……?」


 そう、ミラジェが口にしようとし、みじろぎをすると真っ白なシーツの真ん中に小さな赤い染みが映る。


 なんだあれは。


 行為が行われていれば、ああいう染みがつくこともある、ということは家庭教師に教えられており、ミラジェも知っていた。

 しかし、昨夜、二人の間にそれは起こらなかった。

 もちろんミラジェはただ寝ていただけなので、どこも怪我はしていない。……ということは、シャルルが行為があったと見せかけるために自身の血液を落とし、偽装したのだろう。


 己の保身のために。


 ミラジェは怒りでワナワナと震え出す。


「あの男ぉ〜! 馬鹿にした真似をっ!」


 ミラジェは怒りのままに、ボスンとベッドを殴り叩き、うううー! と獣のように唸り声を上げた。ベッドのスプリングがギシィ、キィィイと不穏な音を立てている。

 そんな主人の様子を見て、アレナは目を丸くしてギョッとさせる。


「ど、どうしたのですか! 若奥様、お加減が悪うございますか?」

「お加減も悪くなりますよ! 旦那様と私の間にそういうことは一切起こっていないんですから!」

「えっ! と、言いますと……?」

「あの人はあなたたち使用人の目を欺くために偽装をしたんですよ! くそおお! あっちがその気なら……。今に見てろ! やり返す! 絶対にやり返す!」


 昨日の儀式前、一瞬でも、かっこいい、と胸をときめかせた自分が馬鹿だった。

 彼は氷の公爵と巷では呼ばれているが、実情はただのロマンティックヘタレ野郎だったのだ。


 さすがシャルルとも付き合いの長い侍女だ。シャルルの考えそうなことはすぐにわかったようだ。

 そうして、ベッドに蹲るミラジェを見て何が起こったのかを大体察し、怒りをあらわにする。


「な、なんですって〜! あんのっ! ヘタレ坊ちゃんめっ!」


 アレナは飛び出すように、部屋を出る。きっと、真っ直ぐにシャルルのところまでいき、シャルルを詰めるに違いない。


 領主と親しい侍女というのは大変頼りになるということを、ミラジェは思い知ったのだ。



 あんなことがあっても、シャルルの一日はいつも通り始まる。


 今日は治めている領地の管理人が午後から屋敷を訪ねてくる予定だった。その前に、日常的に発生する雑務を片付けておかねばならない。ジャンは昨日のようにニヤニヤしながら、シャルルに話しかける。


「昨日はいい夜を過ごせたみたいですね」

「……そうだな」


 シャルルが後ろめたい気持ちを隠しながら、言葉を返した時だった。バンッと勢いよく執務室の扉が開いた。

 なんの敵襲かと思い身を固くしたが、そこに立っていたのは長年エイベッド公爵家に仕えている、侍女のアレナだった。


「アレナ? ど、どうした? ノックもせずに扉を開けるなんて……」


 顔が怖い。

 背後に暗い影をまといながらやってきたアレナはまるで、般若のような顔をしていた。

 おだやかな人物が怒った時というのはなぜこんなにも恐ろしいのだろうか。


 牙を剥き出しにした、猛獣のようにふうーーーと息を長く吐く、アレナの様子を見て、二人は慌てる。


 ジャンは自分が何か妻を怒らせるようなことをしたのだろうかと慌てていたが、隣にいるシャルルはその怒りの原因がすぐにわかった。


 きっとミラジェがアレナに泣きついたのだろう。


 彼女にも貴族的なプライドというものがあって、事実を隠そうとするだろうと、安易に見積もったのが間違いだった。

 彼女はまだ子供だ、もしかしたらシーツに残った血の意味を知らなかったのかもしれない。


「旦那様……! どうして、使用人を騙すような真似を!」

「いや……あれは……」


 シャルルが表情を曇らせたのを見て、アレナははっと息を飲んだ。


「もしかして直前でミラジェ様が怖がったりしたのですか?」

「いや……。ミラジェは受け入れようとしてくれたが、俺が断ったんだ」


 シャルルの言葉にアレナは目をかっぴらく。


「なのに……断ったのですか……?」

「嘘でしょう……?」


 ジャンとアレナがこの世のものでない悍ましいものを見るような目でこちらを見てくる。


「有罪」


 ジャンが冷たい声で告げる。


「本当、有罪ですよっ!あんな小さい若奥様に据え膳作っていただいて、それをあんたは断ったんですかぁ⁉︎ 据え膳の製作費を払え!」

「落ち着け! アレナ! 意味がわからないことを口走っているぞ! それにあまり感情を揺らすと体に触る。お前は一人の体じゃないんだ!」


 ジャンの声にハッとしたアレナ。自身のお腹をさすり、少し落ち着いた様子を見せる。もう安定期に入ったとはいえ、身重の体で、廊下を走り抜けてしまったことを思い出し、気まずい顔をした。


 アレナが少し落ち着いたことに安心した男二人は、ほっと息をつく。


「それにしても……。いやあ、あなたがそんなにヘタレだとは思いませんでしたよ。シャルル様」

「本当に……。呆れてものが言えませんよ。あなたはまだお若いあの方の決死の思いを踏み躙ったのですよ?」


 噴火した火山のような怒り具合ではなくなったが、それでもネチネチと攻撃してくるアレナ。


「悪かった……」

「謝るなら若奥様に直接謝ってくださいよ。とっても心を揺らしていらっしゃいましたから」

「……いやあ。それにしたってアレナほど怒ったりはしないだろう?」

「若奥様は私と比べ物にならないくらい……烈火の如く怒ってましたよ?」

「え?」


 シャルルは目を点にする。あのおとなしいミラジェが烈火の如く怒る?

 少なくともミラジェはシャルルの前ではいつも従順である。


「あの男ぉ〜! って言って、ベッドのスプリングがダメになるくらい猛烈に殴り叩いてました。それに、やり返すっ! 絶対にやり返す! とも言ってましたよ?」

「え?」


 背中にヒヤリと汗が流れるのがわかった。


(ミラジェは……。そんなに過激な質の少女だっただろうか。いや、そう言えば、ミラジェは婚姻の儀式の途中で乱入してきた姉たちへの態度は酷く伶俐ではあったが)


 それを聞いた姉たちは顔を青くして、一気に大人しくなった姿は酷く印象的だった。


 きっと彼女は、そのくらい恐ろしいことを口にしたのだろう。可憐な少女に似合わぬ、狂気を孕んだ言葉を。

 それを自分に向けられる時がこんなに早く来てしまうとは……。


「何を仕掛けられても甘んじて受け入れてくださいね?」


 アレナの言葉に、シャルルは項垂れることしかできなかった。



 一方、あれだけ怒ったミラジェの一日も、いつも以上にスムーズに始まろうとしていた。


 ミラジェは今日もスケジュール通り家庭教師を呼び、勉強を始めた。アレナは今日くらいは休んだほうがいいのではないかとしきりに勧めたが、休んだらこのイラつきが余計に煮詰まってしまいそうだ。


 今朝のことを忘れるために、脳の容量を国を作る主要貴族のデータベースで埋め尽くして、昇華していく。


(ふうん。なるほど、この家は昨年の不作で資金繰りが苦しいみたいね。そういえば……こちらの御令嬢は婚約破棄をされて新しい婚約者ができたんでしたっけ)


 貴族内の情勢は山の天気のようにコロコロ変わる。

 その全てを把握することが、公爵夫人になったミラジェには求められるのだ。


 元々、内情を詳しく知る__明け透けに言えば、ゴシップを追うことには慣れている。男爵家にいた頃も、小さな社会ではあったが、男爵家内の人間関係を知り、誰であれば自分を助けてくれるのか、誰の弱みを握ればいいのか、自分が生き残るためには誰を排除すればいいのかを考えながら過ごしていたのでその類の事は得意だ。


 男爵家で暮らしていた頃のミラジェの中のルールでは、ミラジェに危害を加える権利を持っている人間は、姉と義母しかいない。彼女たちはミラジェにとって上司に当たる人間だ。下手に逆らうと、男爵家という社会から追い出されてしまう。


 しかしそれ以外の人間__使用人の中にも、ミラジェに害を為そうとする者がいたのだ。

 きっと、彼、彼女たちにも、平常に生活を送る中では決して消すことができない、ストレスがあったのかもしれない。


 しかしそんな人間を、ミラジェはことごとく排除していた。許さなかったのだ。……とは言っても、体の調子が悪くなってからは、なかなかそれも難しくなってしまったのだが……。


 男爵家の使用人たちはそんなミラジェの存在を恐ろしく思っていた。


(貴族の世界だって、あの男爵家の混沌とそこまで変わらないわ。少し規模を大きくしただけだもの)


 薄汚れた性根の自分にはちょうどいい世界だ。ミラジェは今日の朝のイラつきを消し去るように、資料の海へと潜った。



 ガリガリと激しい音を立てて万年筆を滑らせ、黙々と勉強を続けるミラジェの背中には薄暗い靄が見える気がした。


 シャルルの執務室から戻ったアレナは一心不乱に資料に書き込みを入れる主人に、おずおずと話しかける。


「今朝は……いや、昨晩からですか。坊っちゃんがデリカシーのない真似をして……申し訳ありませんでした」

「……アレナさんが謝るのはおかしいですよ。あれは旦那様が勝手に考えて行動した結果です」

「しかし、それでも……幼い頃から仕え、そして同時に友人でもあった坊っちゃんがあんなにも無神経に育ち上がっているとは私どもも思っていなかったんです」


 アレナの申し訳なさそうな顔を見て、ミラジェは頭のすみに押しやっていた今日と昨日の出来事を思い出す。


“じゃあ、君のことは家にもらってきた猫だと思うことにしよう”


 自分の容姿は成人を超えていると言っても、あまりにも子供なので、もう少し成長しなければ妻扱いはしてもらえないかもしれないとは思っていた。しかしまさか人間扱いしてもらえないとは思わなかった。


(ねこ……。猫かあ。そういえば男爵家にいた頃、冬の季節は地下部屋に野良猫が入ってくることもあったなあ……)


 ミラジェの地下部屋は屋敷の北側にある川と接していたため、寒い季節になると隙間から野良猫の親子が暖を求めて入り込んでくることもたびたびあったのだ。


 あの時の猫は本当に可愛かった。隙間風が入ってきて寒いあの牢獄のような自室も猫がいれば暖かかった。確かにシャルルが言う通り、猫は最高にいい生き物である。


 そうだ__自分も猫扱いということは、ああいった行動が許されるのだ。


 ミラジェは閃いてしまった。


 どうせ、自分が不敬なことをやらかしてシャルルに嫌われようと、この家から叩き出されるだけだ。

 自分に危害を与えていた男爵家に戻されるわけでもないし、なんなら離縁してもテイラー侯爵家との養子縁組自体は切られるわけではないので、テイラー侯爵家にお世話になることもできるはずだ。あの侯爵家の当主は、また何かいいアイデアを渡せば、自分のことを大切にしてくれるだろう。


 そう考えると、もうミラジェに怖いものは何もない。 

 与えられた自由というギフトを、創意工夫を凝らして隅から隅まで楽しんでもいいのだ。


「アレナさん。あの男__おっと失礼……。旦那様は私に猫のようにまったりとこの家で暮らしていればいいと言ったんです」


 そんなことをシャルルは言ったのか、と引き気味に思ったアレナだったが、よくできた侍女らしく、口を挟んで話の腰を折ったりはしない。


 ミラジェはにこーっと口角の両端を上げる。


「だから、猫がやるようなことは何をやっても許されるんじゃないかって」

「猫のやるようなこと……ですか?」

「ふふふ。そうです。私、今日の夜が楽しみになってきました!」


 ミラジェは何か思案したような薄暗い笑みを浮かべる。

 この女主人は何をやらかすのだろう。ミラジェの一ヶ月の様子を見てきたアレナは、ミラジェのことをある程度信用していた。最低限分別はありそうだし、第一この家に見放されることを恐れているので、法に触れるようなことはしないだろう。


 アレナにとってシャルルはどうしようもないボンボン坊ちゃんである。しかしボンボン坊ちゃんは、妙に器用で、優秀で、隙なくなんでもこなしてしまう優等生なところがあった。


 主人のそういった姿を見て、自分の主人ながら、なんとなく気に食わないというか……もっと苦しむべきところで苦しまず、スカした態度でなんでもクリアしてしまうところに対して微妙に悔しい思いをいつも抱えていたのだ。


 この小さな若奥様は、そんなシャルルの鼻を明かしてくれるような気がする。


「やってしまってください! 若奥様!」

「ええ、アレナさん。私、こうなったら、あの男を気がすむまでブン振り回してやりますから!」


 アレナは心の奥でワクワクする気持ちを抑えられなかった。



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