それにまつわる誤解とあれこれ その3
湯浴みを済ませ、自分で魔法を使って髪を乾かし、ランに夜着の後ろのリボンを結んでもらう。
これからのことを思うと緊張して、立っているだけなのにゆらゆら揺れてしまった。
「ミズキ様。僭越ながら一言よろしいでしょうか」
震える指先をもう片方の手で包むように暖めていると、その上からランが手を重ねてミズキの目を覗き込んだ。
ミズキがランの目を見ると、彼女の深い青い瞳が優しく微笑んだ。
「大きく深呼吸してください」
突然いわれて少し戸惑ったけれど、いわれるまま深呼吸を数度繰り返した。
すると、さっきまでの震えはどうにか収まった。
―――おお!
ミズキが少し感動を覚えていると
「お怖いかもしれませんが、ガチガチになられてしまいますと、痛みを伴うこともあります。どうか力を緩めておうけとめくださいませ」
ランが母のような、姉のような慈愛のこもった瞳で告げてくれる。
「え……痛みを伴うって……痛いんですか!?」
―――あの人、今から何をする気なんだ!?
ミズキが目を白黒させていると
「個人差はあると聞きますが、少なくとも私は慣れるまで痛かったです。いや痛いばかりではなかったですけれども」
恥ずかしそうに顔を赤らめながら、しかし至極まじめに訴えるランの言葉にミズキはさらに驚いた。
「え!? ユリウス様、ランさんにもしたの!?」
するとランも驚いて、顔を赤くしながらまさかまさかと首を横に振った。
「いえいえいえ! そんな、とんでもございません。ただ、ミズキ様に参考になればというお話です。私は主人が最初でしたし、主人としかしてません」
ミズキはほっと胸をなでおろした。
ユリウスがこれからミズキに何をしようとしているのか、考えると怖いし不気味だけれど、とりあえずランが過去にユリウスにそういう怖い思いをさせられたんじゃないと知ると安心した。
しかし。
―――あれ? 今の話って?
ミズキはランの言葉を思い返して、一つ結論に至った。
ミズキの世話をしてくれているランやユリたちには当然ミズキとユリウスがまだ体の関係を持っていないことは筒抜けなわけで……。
ランの心配しているところはつまるところ……。
ミズキは全身から湯気が立ち上りそうなほど真っ赤になった。
いや、うん。そういうことならランがユリウスとは何もないのがわかる。だってそういうことだったらランの体が無事ですむはずないものな。
「あ、あの……その、一応ユリウス様とお約束してもらっていて、結婚式まではしないことになってるんで……」
ミズキが顔を真っ赤にしながらランにいうと、ランは一瞬驚いたように、でもミズキののぼせが伝染したのか同じくらい真っ赤になってそうですかと頷いた。
―――そうそう、そうなんですよ。だからそっちの心配はまだないんですけどね?
さっき、覚えてろとか言われたけど、いやいや、それはそれ。これはこれ。
この前のあの超投げやりのくせに、なんだかんだとやる気満々だった時ですら何にもなかったのだ、きっとなにもないはずだ。
しかし、それはそれとして気になる。
「……けど、やっぱり最初って痛いですか? アカデミーの時に女の子たちが話しているのは聞いていたんですけど……」
別に部屋には2人しかいないのに、なぜかこそりととても小さな慎重な声で尋ねてしまった。すると
「ええ、私は体が小さいほうなので……逆に主人は大柄なほうだったためかなり痛かったです」
ランもかなり抑えた声で神妙そうに頷いた。
確かにランもこのあたりの女性標準である肉感的な体型から比べると、わりと細身である。しかしミズキはそれよりさらに華奢だ。
ユリウスは細身ではあるけれど、数度背中や肩に手を回した感覚を思えば、何気に肩幅や筋肉量はすごい。引き締まった鍛え抜かれた体をしている。
それらから推測すれば
「そっか、痛いのか……」
ミズキは、はあと大きく息をついた。
一瞬諦めにも似た落胆をしたところではっとして頭をあげる。
「いやいや! だからそんな日は来ないんですって」
ミズキがガッツポーズを作ったところで
「何が来ないって?」
冷ややかな声が戸口からミズキのガッツポーズを凍りつかせた。
「ユリウス様!? いつからそこに!?」
ミズキが慌てて問うと、またしてもユリウスが眉を寄せたが
「たった今だ。……また変な話でもしていたのか?」
風呂から出た直後なのか濡れた髪をそのままにこちらに向かって歩いてきた。
彼が歩くたびに彼の髪から伝い落ちた雫が、絨毯にしみを作る。
「魔法でも何でもいいですからちゃんと乾かしてくださいな! 風邪を召されますよ!?」
ミズキはランに渡されたタオルをユリウスに渡そうとした。しかしユリウスはそれを一瞥しただけでふいっと視線をそらせる。触ろうともせずにミズキの部屋のソファに腰をかけた。
背もたれが、じんわりとユリウスの髪の水分を吸い込んで濡れ始める。
―――どこの子どもだ!
ミズキはタオルを広げるとユリウスの頭にかぶせた。子どもたちと水浴びしたあとよく子どもたちにしてやったみたいに、わしゃわしゃとかき混ぜる。タオルの隙間からユリウスがくつりと笑んだのがわかった。
嫌ならやめろといっているだろうけれど、頭を下げたままされるがままになっているということは続けろということだろう。
ミズキがやれやれと思いながら、タオルに水分をうつしていると、ユリウスが手で下がれ下がれとしているのが見えた。そちらを振り返れば、ユリウスの座るテーブルの前に冷たいお茶を置いたランが、にこやかに頷いて頭を下げた。そして静かに出て行ってしまう。
音もなく扉が閉じ、今度こそ2人きりになってしまってミズキは小さく息をついた。
冷たくなってしまっているユリウスの髪は、このままでは風邪を引いてしまうかもしれない。
「魔法、使いますよ?」
ミズキは指に少しの熱と風の魔法を纏わせてユリウスの髪をすいた。
柔らかなさらさらの金色の猫毛。少し長めの髪はミズキの手のひらをしっとりと冷やした。
「へえ。おもしろい魔法の使い方をするんだな」
ユリウスが感心したようにミズキを見上げる。
「自分だったら一瞬で乾かせますけど、人相手には慎重にしてるんです。いろいろ結構コントロールしなくちゃいけないから疲れちゃうんです。ですから自分でやってほしいんですけど? 朝飯前でしょう?」
ミズキが不満をこめてユリウスに告げると、ユリウスはくすりと笑った。
「そうか。お前の場合、詠唱で求める量に対し、帰ってくる魔法量が大きすぎるから微コントロールが苦手なんだな。じゃあちょうどいいじゃないか。これから毎晩練習台になってやろう」
ミズキは手を止めた。
「いえ、もう得意になりました! レニー先生のおかげで!!」
慌てて言ってみたけど、もう遅い。
「ならその成果を披露してもらおう。毎晩」
やっぱりどうしても毎晩らしい。
―――墓穴掘ってしまった……。
ミズキはとほうと息をついた。
「で?」
「で、とは?」
ミズキが尋ね返すとユリウスはむっとした表情を口元に乗せた。
「お前は話の趣旨をなんでそうすぐに忘れるんだ」
「いや忘れてはいませんけど……」
―――忘れ去りたいけれど。
ミズキは心持ち反論した。
ちゃんとユリウスの話の趣旨はちゃんと覚えている。二人きりになったときの彼の呼び方講座だ。
「ならちゃんと結論を言えばいい」
催促されてミズキは言葉に詰まった。
ミズキは最後の一房を綺麗に乾かしてユリウスの髪から手をのけた。
タオルを汚れ物入れの籠にそっと入れる。
「……一応、おぼろげながら私があなたをユーリと呼んでいたかもしれない記憶はあるんですよ」
どうにか告げると、彼は無言のままミズキを見つめた。
綺麗な夕闇色の瞳にどきどきする。
ミズキはユリウスを見やって手をもじもじさせた。
「でも、あれから時間は流れましたし、いろいろ状況も変わりましたし、そんなね? 子どもの頃の、しかも夢幻みたいなあいまいな呼び方をするのも……正直失礼になるんじゃないかと……」
ミズキはそういってユリウスの顔を見たとき、ギクリとした。
ユリウスの目が先日のようにとても暗いものになっていた。
―――失敗、した。
瞬時にミズキは自分の言葉選びの失敗を悟った。
「……わかった、好きに呼べばいい」
ユリウスはふいっと立ち上がると続きの間の扉に向かって歩き始めた。
ミズキは慌ててその背に続けた。
「だから、ユーリ様とお呼びしてもよろしいですか?」
無邪気な物事を知らない子どもだった頃みたいに、ユーリなどと呼び捨てなんかで呼べない。恐れ多くて呼べない。
自分は庶民なのだ。少なくとも、公爵である彼といろいろ対等に物事を考えられる立場でもない。
彼がどう考えているのか知らない、けれどミズキにも譲れない部分はある。
けれど、エリザベスや他の人間が彼をユーリと呼ぶのは胸が痛む。
自分なりの精一杯の譲歩だ。
ユリウスはやっと振り返った。苦く笑って
「しょうがないな。それにしてもお前はどこまでも強固だ。生活費を入れるというところもそうだが、ここはお前の家なんだぞ?」
さっきよりもずいぶん瞳に明るい色を取り戻して、今度こそ隣の部屋に戻っていった。
「……だってそれこそしょうがないじゃない」
まだ、ミズキは彼の妻になることをちゃんと納得したわけではないのだ。
だって、やはり彼はミズキに彼の対の聖霊獣がいるから、それだけの理由で結婚するといっているのだから。
それに対し、ミズキは相手を愛し、相手からも愛されて結婚したいとねがっていた。ユリウスは自分に必要だから大切にしてくれるけれどそれはミズキが彼の対の聖霊獣を宿しているからで、決してミズキ自身を愛しているわけじゃない。
―――それが私なんだもの。
ミズキは小さく呟いて寝台に腰掛けた。




