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辻道


 

 一人いろんなことを考えながら、いつもはランドルフ公爵家の好意に甘えて馬車で行き来している道を、自分の足で歩く。

 遠いのはわかっている。

 それでも歩きたかった。

 いろんな事が毎日めまぐるしく起こりすぎて、すっかり麻痺しそうな自分の価値観を、ちゃんと取り戻したかった。

 幼い頃の記憶にある生家を今冷静に分析すれば、ミズキが生まれ育ったレイノールという家は、田舎の小さな村の中でも確かに魔法で大成したという感じの大きな家だった。

 家の中はたぶん豪華なつくりだっただろう。作法や勉強も、今思えば厳しくしつけられていたように思う。

 けれど、ミズキの今の価値観を作っているのは、教会にきてからノアにおしえてもらった庶民的なものばかり。決してすべてが手に入る状態ではなかったけれど、それを上回る工夫をしてくれて心はとても豊かだった。

 贅沢はなくても十分人間は幸せに生きていける。

 ノアはそんな素敵なことを身をもって教えてくれた。

 ミズキは辻道で立ち止まった。

 いつもならまっすぐ馬車は正面を進む。けれど、ミズキは左のほうを見た。

 ……この道を行けば、リラに続く。




    辻道




 ―――なんであんなに怒っていたのかな……。

 帰り際のユリウスの様子を思い出してミズキは俯いた。

 いや、怒っていたのじゃない。ミズキは唇をかみ締めた。

 ユリウスはたぶん悲しんでいた。

 何に対してかはわからない。

 でも、一つわかることがある。

 たぶん、これで当面食事はしなくてもいいはずだ。

 だからあんな口付けはもうしなくていい。

 そのことが救いだった。

 あのひどい飢えは、本当につらかった。

 今は満たされているけれど、これがどれくらいで切れるのか。

 ユリウスは慣れるとわかるようになると言っていたけれど、まだ今のミズキにはわからない。

 とすれば、またこの前のような状態になってしまってユリウスから分けてもらうのか?

 ミズキは頬がかっと赤くなった。

 ミズキだってもうすぐ19になろうという、世間では結婚適齢期を迎えた女性だ。

 なんだかんだとそういう知識だって持ってる。

 王様と王妃様、それにエリザベスとヴィクター夫妻にあって、自分とユリウスの間にないもの。

 そんなの、人に言われるまでもなくわかってる。

 けれど抵抗あるものは仕方ないじゃない。

 こんな風に食事という理由付けでされている口付けだって、結局やっぱりこれはミズキにすれば口付け行為でしかなくて、それをやっぱり食事とユリウスの口で言われたら悲しいのだ。

 きっと強くミズキの右手とユリウスの左手を重ね合わせたら、こんなちっぽけなこだわりなんていとも簡単に裏切って、体を重ねることもいとわないほど溺れてしまうだろう。でもやっぱりその理由も互いに対の聖霊獣を宿しているからだなんていわれたら? 食事をするのに手っ取り早いからなんていわれたら? 想像しただけで心が痛い。

 聖霊獣が覚醒してから、体と周りの人達、それに物事が、ミズキの気持ちを置いてけぼりにしてどんどん進んでいく、この事実がミズキにはたまらなく辛かった。

 ユリウスがミズキを口説くと言ったのも結局、せめてミズキがユリウスを好きになれば彼を受け入れるだろうと考えているからだろう。

 そうではないのに、ミズキが欲しているのはそれだけではないのに。

 気付いてしまえば、この体は辛い。

 ユリウスにしか反応しないというこの体は、なんとも辛い、ただの入れ物だった。


 でも、ちゃんとわかってもいる。

 この体は大事なものだと。

 両親が残そうとしてくれた繋ごうとしてくれた命だ。

 そしてユリウスにも助けてもらったものだ。

 粗末にはしたくない。

 したくないけれど。

 ミズキは今歩いていた道を振り返った。

 後ろには誰もいない。

 この辻道をまっすぐ行けば程なくしてランドルフ家につくだろう。

 右に行けば王城。

 左に行けば……。

 ―――リラに、戻りたいな。

 ミズキは長く離れてしまったノアの顔を思い出した。

 ちゃんとごはんを食べているだろうか?

 そして初めて受け持った生徒たちは?

 あの子たちは元気に勉強をしているだろうか?

 今までいろんなことがあって思い出す暇もなかったけれど、一度思い出してしまえば、堰を切ったようにいろんな気持ちがあふれてきた。

 ―――皆に、会いたい。

 ミズキは辻道に立ったまま体を左に向けた。

 一歩でいい、このまままっすぐか、またあっちにむいてでも踏み出せば、またどの道にせよ歩くだろう。

 けれど、ミズキの足は止まってしまった。

 いろんな想いがあふれて、足に伝わらない。


 あたりが薄暗くなってきたころ。

 「姉ちゃん、大丈夫か?」

 少し身なりの悪そうな男が3人ほど下卑た笑いを浮かべながらこちらにやってきた。

 ミズキは乾いた顔をそちらに向けた。

 酔っているのだろう、酒臭い息がここまで届いてきて、眉をしかめた。

 しかし3人は気にした様子もなくピュウッと口笛を吹く。

 「なーんだ? まだ子供かと思ったがなかなかの上玉だな」

 「浮かない顔して辛いことでもあったのか?」

 「ならしょうがねえな。俺たちが優しく慰めてやるよ」 

 男たちはミズキを三方から囲んだ。

 ミズキは俯いた。

 もう、どうでも良かったというのが正直な気持ち。

 そりゃあ、この男たちの慰み者になるのはいやだ。いやだけれど。

 今は抵抗する気も起きない。

 「へっ。やけに従順じゃないか」

 「そうそう。大人しくしていたらしっかり優しく気持ちよーく可愛がってやるよ」

 「たっぷりとな」

 笑いながら伸びてくる男たちの手がミズキにかかろうとしたとき、ミズキの体が動いた。

 すうっと流れるように、男の手から逃れる。

 「はっ? なんだ?」

 霞でもつかんだような感覚に男がいぶかしげに見る。

 別の男がミズキの背後から音もなく忍び寄って羽交い絞めにしようとしたけれど、ミズキの体はそれもまたすうっと逃れた。

 「なんだ? ここに来て怖気づいてんのか?」

 3人めがミズキに飛び掛ったけれどミズキはそれもまたかわした。

 彼女の目は焦点がろくにあっていない。

 3人ともいぶかしげにミズキを見た。

 「おいたがすぎると、優しくするどころじゃねえんだぞっ」

 男が腰にはいていた剣をミズキに突きつけた。男はちょっと脅すつもりだった。

 しかし。

 ゴロリ。

 おちたのは剣を握った男の腕……。

 男がそちらを見ると、うつろな目をしたミズキの左手には、男たちが見たこともない形の剣が握られていた。

 いつ剣を抜いたのかもわからなかった。

 「ひっ」

 「なんだ!? やるのか?」

 もう一人の男が後ずさりしながら剣に手をかけた。

 が。

 バシュッ。

 血しぶきを上げて男の腕が落ちていく。

 男は転がる腕と、さっきまであったはずのそれがなくなった空間を見て、ヒッと悲鳴を上げた。

 「ば、化け物!」

 男たちはミズキに向かって叫んだ。

 「化け物とは失礼な。あれは俺の妻だ」

 いつ現れたのかユリウスが五体満足の男の腕をつかんでたっていた。

 その神々しいほど冷たく美しい姿にミズキは笑いたくなった。

 妻、そうだろう。

 この体は彼のために存在する。

 彼の血筋の存続に必要だから。

 「俺の女に何をするつもりだったのか……この状況では聞くだけ野暮だな」

 ユリウスの声は低い。

 「お前の女って、あれは化け物だぞ!」

 男がユリウスに血相を変えて訴える。ユリウスは笑った。

 「化け物、ね?」

 ユリウスは自分の中にいる同じく化け物を具現化させた。ひゅるりと出てきたそれは馬とも狼ともつかない肢体。見たこともない色と体のそれが、男たちに恐ろしく低い声で嘶いた。

 男たちは恐ろしい獣に腰を抜かせた。

 「ヒッ」

 「うわあああ!!!」

 男たちはめいめい自分の腕をはいつくばって拾い上げて、どうにか立ち上がり走って逃げる。

 躓いて、転んでもまだ走って逃げていた。

 男たちが消え去ったあと

 「はは……」

 ミズキは顔を押さえた。「ははははは!!」

 一度こぼれたかわいた笑いは、腹筋を壊したようにあふれ出てとまらない。

 化け物、あの男たちの言葉は言いえて妙だ。

 ミズキはもう人ですらなくなった。

 「……ッ」

 ミズキは俯いて顔を抑え、くつくつと笑っていた。

 ―――私は化け物だ。

 この中の聖霊獣と呼ばれるとてつもない化け物の器に選ばれたゆえに。

 ただ、普通に生きていきたかった。

 貧乏でも、自分がちゃんと生きていけたら十分だと思っていた。

 教師でも良い、薬剤師でも良い。仕事を続けてお世話になった教会に恩返しをして。

 趣味の薬草の研究をしながら、地道に生きていきたかった。

 そんな日々の中でいつか好きな人が出来て、もしその人が自分を好きになってくれたなら……そうしたらその人と家庭を持って。

 毎日どんなごはんを作ったら喜んでもらえるか考えるとか、いつかそのうち生まれるだろう子どもに野菜嫌いを起こさせないようにメニューを考えるとか。

 望んでいたのは平凡なありふれた日常だったはずなのに!

 そんな平凡な日常は訪れることはない。

 ミズキがそんな日常を手に入れる日は絶対に来ない。

 来ないのだ。

 そして今ある道から逃げることもできない。

 この体はもう、寿命以外で死ぬことも許されない。

 ミズキの危機を、この体は徹底的に排除するだろう。

 どんな危険からもミズキを守るだろう。

 ―――こうなるのなら、ずっと目覚めなければ良かったのに!

 ずっとずっと……!!

 「化け物の夫と化け物の妻ですか? 化け物同士、さぞ気が合うことでしょう」

 ミズキはユリウスを見上げた。

 瞳は絶望の色に染まり、頬に涙が伝っていた。しかしその口元はぞっとしてしまうほど妖艶な笑みが浮かんでいた。、

 ユリウスの瞳が深い色になる。

 ミズキはふわっとはかなげに微笑むときびすをかえした。

 歩き始めたのはランドルフ家へと続く道。

 さっきはどうしても踏み出せなかった一歩が、簡単に出た。

 「こっちでいいのか?」

 ユリウスの声が静かに響く。

 ……彼はいつからミズキを見ていたのか。

 「どうせ、リラに戻ってもこっちに戻されるんでしょう?」

 ミズキが振り向きもせずに確認する。

 ミズキの体に宿る紋章ゆえに。

 ユリウスはミズキを手放せない。

 「ああ。どこにいっても連れ戻す。お前は絶対にどこにもやらない」

 思ったとおりのユリウスの返答に、ミズキは、はっと小さく声を上げて笑った。

 それからゆっくりとユリウスを振り返る。

 その頬には幾筋もの涙が伝っていた。

 ミズキはユリウスに左手を差し出した。

 「じゃ、帰りましょう」

 ユリウスはその手をとった。


 どちらの指先も、硬くて冷たかった。




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