11 少年剣士と“呪い”①
エイバが目を開けた時、とても美味しそうな匂いがしていた。
――何だろうな、多分、マジョラムの香りがしてっけど……。
呑気にそんなことを考えながら、目に入った天井に疑問を覚える。
見覚えがあるようなないような天井だった。
あれ、と思いながら身を起こす。
瞬間、眩暈を覚えて慌てて腕をついて上半身を支えた。
「おはようございます、エイバ殿」
「……ええと、ゼエンさん、おはようございます……?」
くらくらする頭を抑えながら、反射的に挨拶を返す。
――なんでゼエンさん? つうかここは、二人の家か……、って、服、これ、見られた!?
下は一応穿いているが、上半身は裸である。
エイバは生娘のように掛け布団を引っ張り上げた。
当然そんなことが起こったなどとは疑いもしないが、状況が掴めない。
茫然とするエイバに、竈の前からゼエンは穏やかに告げた。
「あれだけの大怪我をした後ですから、まだ横になっていた方が良いのですなぁ。ヴィゼ殿が帰ってきたら食事にしようと思いますが、食べられそうですかな?」
「……多分」
大怪我、と聞いてようやくエイバは記憶を蘇らせた。
森でリザードマンと遭遇し、窮地に陥ったこと。
これで終わりかと思ったところで、ヴィゼたちの顔を見たと思ったが――自分の願望が見せる幻でも夢でもなかったのか。
助かった。
けれど、間違いなくこれは見られてしまっただろう。
忌々しく、エイバは黒く染まった右腕を睨みつける。
どうしたものかと小さく溜め息を吐いて、ゼエンの助言に従い大人しく横になった。
――黙っては、いられないよな……。
ゼエンの後姿に礼を告げたいのに、その思いが言葉を封じる。
エイバが懊悩していると、やがてヴィゼが戻ってきた。
その両腕は食料が詰まった紙袋を抱えている。
どうやら買い物に出ていたらしい。
どうしてかそれに続くように、レヴァーレがドアから入ってくる。
ただ寝っ転がってもいられず、エイバは今度こそ慎重に半身を起こした。
ヴィゼとレヴァーレもすぐに、もぞりと動いたエイバに気付く。
「エイバ、目が覚めたんだね。良かった」
「エイやん……!」
ほっと胸を撫で下ろしたヴィゼの後ろから、レヴァーレが耐え切れなかったように大股で近付いてくる。
「良かった、ほんま、良かった……!」
そして、レヴァーレはエイバの傍ら、大粒の涙を零し始めた。
思わぬことに、エイバはただその美しい雫が頬から床へ落ちていくのを見つめることしかできない。
どうにかしてその涙を止めてやりたいと思うのだが、狼狽えてしまうばかりで、震える肩に触れることすら躊躇ってしまう。
ヴィゼとゼエンが、苦笑しながらも温かい目で見守っているのに気付く余裕も、まるでなかったのだった。
レヴァーレが落ち着いてから、エイバは彼女の診察を受けた。
黒々と主張する痣を見られたくはなかったが、今更だ。
泣かれてしまった後では拒絶などできたものではなく、エイバは大人しくレヴァーレに従った。
傷は彼女のおかげでほぼなくなっている。
意識もはっきりしており、レヴァーレは改めて安堵を表情に乗せた。
「大丈夫そうやね。ただ、しばらくは血を補えるような食事をとること。ゼエンさんに昼食は消化に良さそうなもの、作ってもろたから……」
「昼食? 今は昼か……。寝てたのは、一晩だけだよな?」
「意識戻るのが遅うならんでほっとしたわ」
微笑んだレヴァーレに上に着るシャツを差し出される。
エイバは素直にそれを頭からかぶった。
どうやらシャツは、ヴィゼが買い物の際に買ってきてくれたらしい。
今エイバが横になっているベッドもヴィゼが使っているものであるし、借りが増えていくばかりでどうにも申し訳なかった。
「では、昼食にしましょうかなぁ」
と、ゼエンが二つの器をテーブルへ運んだ。
ヴィゼが残りの二つを運び、四人で小さな食卓を囲む。
ほかほかと湯気を立てるシチューを見つめながら、エイバはどうにも落ち着かない気持ちになった。
レヴァーレがいることがいつもと違っているし、三人はこの痣を見てしまった後だ。
森に一人で入ったことについてもきっと事情を聞きたいと思っていることだろう。
けれど三人はそれを表には出さずにいてくれている。
それが逆に、やりづらかった。
「森の見回り、もっと早くに出るつもりだったんだけど、いつの間にか夕方でね……」
野菜がたっぷり入ったシチューを頬張りながら、ヴィゼは普段と変わらない調子で言う。
昨日のヴィゼたちの事情――どうしてあの場に居合わせたのか等々――をエイバが気にしていることを、年下の少年は察したようだ。
「でも今回は、それが幸いしたよ。寝坊して良かった」
「ヴィゼ殿、だからといって不規則な生活習慣は正当化されませんからな?」
呆れたようにゼエンが窘めれば、ヴィゼは都合良くスプーンを口に入れて返答を避けた。
「……それでその、俺を?」
「そう。レヴァーレさんとも偶然会ってね」
今度はレヴァーレが思い切りじゃがいもを口に入れる番だった。
彼女の動揺には気付かず、エイバはヴィゼの言葉の続きを聞く。
「宿とか教会とかよりこっちに運んだ方が色々と面倒が少ないと思って、エイバをここに連れてきたってわけ。あ、リザードマンの処理と綻びの修復は協会にお願いしておいたよ。エイバのことは言っていないから、報酬はなしになるけど、」
「んなもん請求できる立場じゃねえよ。それより色々ありがとな、気ぃ使ってもらっちまって」
「どういたしまして」
「ゼエンさんも、レヴァも、本当にありがとう。皆がいなきゃ、俺は死んでた。馬鹿なことしてるって……、自覚はあったんだけどな」
器をテーブルに戻し、エイバは深く頭を下げると、三人には見えないところで自嘲の笑みを浮かべた。
「自覚していてもせざるを得なかった、ってことは、これからも同じことをするつもり?」
エイバははっと顔を上げた。
真剣な表情のヴィゼと目が合う。
ヴィゼがそこまで強い言葉を使うとは思っていなかったゼエンとレヴァーレは、強張った顔で二人を見つめた。
「……仕方がねえのさ。生きるために、必要なことなんだ」
まるで責めるように言ったヴィゼにエイバは怒りを覚えたが、それは束の間のことだった。
ヴィゼはエイバを糾弾しているのではない。心配しているのだ。
エイバは嘆息一つで落ち着いて、諦めたようにそう返す。
生きるために、死にかけた。
矛盾しているようで、普遍のことのようで、それが真実だった。
「それなら僕らもこれからは一緒に行くよ」
「……は、おい、」
「レヴァーレさんも、ゼエン殿も、賛成してくれますよね」
「当ったり前や!」
「はいですなぁ」
まさかこんな流れになるとは全く考えもしていなかったエイバは、ぽかんと口を開ける。
「そういうわけだから、今後ともよろしく」
ふてぶてしいまでにヴィゼは告げた。
レヴァーレもゼエンも、それに同意するように微笑みを浮かべている。
――なんだこれ。
嬉しすぎて泣きそうな自分にエイバは引いた。
ぐっとせり上がってくる熱いものを堪えて、あえて顰め面を作る。
「……それは、有り難いんだけどな。その前に、俺の話を聞いてくれ。聞いてから、判断すべきだと思うんだが」
「そうだね。できれば事情は聞いておきたいかな。僕たちの意見は変わらないと思うけど」
「時々心からお前が憎たらしいよ……」
半分本音、半分は照れ隠しでエイバもう一度深く溜め息を吐いた。
「まあ、少しばかり長い話になるが……」
そう前置きして、エイバは話し始める。
話せば巻き込んでしまうことは分かっていた。
ヴィゼの言葉は正しくて、きっと彼らはエイバを見捨てない。見捨てられない。彼らの優しさは、この数ヶ月でよく分かっていた。
だから本当は、知られずに、話さずにいられるようにしなければならなかったのだ。
だが、こうなってしまった以上、エイバは黙っているわけにはいかない。ヴィゼたちには知ってもらわなければならない。
彼らを守るために、エイバは覚悟を決めて口を開いた。
「前に話したかもしれねえが、うちの実家は鍛冶屋でな……。親父はあの辺じゃそれなりに有名な職人だった。とんでもねえ田舎だったけどな、色んな剣士が親父を訪ねてきたもんだ。俺にも剣を教えてくれたりな。俺は次男だし、小さい頃から将来は戦士かなんて考えてたもんだ。……すまん、早速脱線したな。
その親父なんだが、二年前のある日、珍しい素材だっつって、黒い鋼を持って帰ってきたのさ。それを早速打ち始めたんだが……、すぐにその鋼は何の変哲もない金属の塊になって、親父の腕の方が真っ黒に染まってた。最初は特に異状もなくてな、なんだこりゃって首を傾げるだけだったんだが……。
その内親父は幻聴に悩まされるようになった。『殺せ』とか『憎い』とか、そんな声が聞こえてくるんだってな。それは少しずつひどくなって、寝ても覚めても聞こえてくるって、親父は図太い人だったけど相当神経参らせちまってな。町の薬師を訪ねてみたが、ゆっくり休めば治るって言うだけだった。でもいくらベッドで横になったって、ちっとも良くなりゃしねえ。
しまいにゃある日、親父はうちにあった剣を引っ掴んで、すごい形相で出ていった。追いかけようにも追いかけられない速さで、茫然と見送ったもんだ。帰ってきた時には血塗れでな、家族全員顔面蒼白だったが、親父は憑き物が落ちたみたいにいつも通りの顔色になってた。聞いてみたら、何体も魔物を狩ってきたって言うのさ。一応親父もある程度剣を使えるとは聞いてたが、一人で何体も殺れるような人じゃなかった。痣のある腕が、信じられないくらいの力を出したっつってたぜ。
それから時々、親父は魔物退治に行くようになった。そうすると幻聴が遠くなって楽だっつうから、俺たちは迂闊に止められなかったんだ。おふくろたちは余程親父は鬱屈を溜め込んでたんだろうとか、若い頃剣士になりたかったのを今頃惜しんでるんだろうとか言ってたがな。俺はおふくろたちと違ってあの黒い鋼を見てたし、親父の腕の黒い染みが段々広がってるのに気付いてた。あれが全部の元凶だと思った。
だから戦士の客が来た時、俺は聞いてみることにした。黒い痣が広がっていって、幻聴が聞こえて、いつもと違う行動をとるようになる、そんな病気に心辺りはないかってな。親父は薬師が全くの役立たずだったもんだから他の人間に頼ったところでと思ってたみたいでな、知られたら怒られそうでこっそり聞いて回るのは苦労したぜ。これぞという話はすぐに聞けるもんじゃなかったしな。皆親父が不調なのかって心配してくれたが、それだけだったよ。……俺は親父だってことは伏せてたんだけどな、皆ずっと親父の顔色が悪いのを気にしてくれてたのさ。
そんな時にある魔術士のじいさんがうちの村に立ち寄ることがあってな。あちこちを巡ってる魔術士らしくて、それなら今までとは違う話が聞けるかもしれねえって期待して、会いに行ってみたんだ。期待は半分当たりで、半分外れだった。
その人は、親父と全く同じ症状で苦しんでいた人を知っていた。昔の仲間がそうだったって話だ。今までに見たこともないような魔物を倒した後、その仲間さんの体には黒い痣が広がって、幻聴・幻覚に苦しめられたそうだ。数年間それに耐えて、その後仲間の前から姿を消しちまったんだってさ。魔術士のじいさんはそれからも色々と調べて、消えちまった仲間が一体何に苦しめられていたのか知ったらしい。いくつかの文献に記述を見つけたがそれだけだった、と言ってた。
それによると、親父の腕に引っ付いた黒い染みは“呪い”なんだそうだ。おとぎ話に出てくるのとは違って、人間とか、魔物とかのどろどろした感情なんかが死んだ後にも残って、生き物や物なんかに憑りつくのを言うらしい。それはじわじわ憑りついたものに染み込むみたいに広がって、最終的には憑りつかれたものも“呪い”になる。
それが本当かどうかは分からない。でも、あの黒いのが“呪い”だとして、何かの暗い感情の塊だとしたら、親父の幻聴と行動については納得できた。あれは魔物が憎いんだ。堪らなく許せなくて、殺さないと気が済まない、そういうものなんだってな。
問題は、正体が分かったところで痣を消す方法は見当もつかないってことだ。期待が外れたってのはそういうことさ。それからも何とかできないか聞いて回ったりしてみたが、それ以上の成果は上がらなかった。痣はだんだん広がって、親父はだんだんおかしくなっていったよ。魔物を退治する時だけじゃなくて、それ以外の時も、まるで親父じゃないみたいに振る舞うことが多くなっていった。気が触れた、ってのともちょっと違う。全然別の人間に変化してる、とでも言うのか……、でも違和感を覚えることは長く続かなかった。
親父は、自分でない自分になっていってることをちゃんと自覚してた。だから自分でなくなる前に――舌を噛み切って死んだのさ。
そんな顔すんな――仕方がなかったんだ。止められなかったことは悔しかったが、かといって親父がずっと苦しみ続けるのを見たかったわけじゃねえし……、たとえ親父の体が生きてても、親父じゃなくなっちまったらそれはそれで耐え難い。何とかできりゃそれが一番だったが……。
とにかく親父は死んだ。最初に見つけたのは俺だった。……そう言えば、どうなったかはもう言わずもがな、だな。親父に駆け寄って、その体に触った俺に、今度は“呪い”が移った、ってわけだ。
だから俺はここに来たのさ。魔物を一体でも多く倒すために。少しでも長く生きるためにな。殺せば殺すほど声は遠くなるし、痣の広がり方も小さくて済む。それでも少しずつ範囲を広げてきちゃあいるがな。
この際だから言っておくが、クランに入らなかったのは戦闘中に俺が死んじまったら、また誰かに“呪い”が移っちまってやばいと思ったからだ。誰かと組むなんて、全く考えてなかった。“呪い”が進行したら、誰も近付かねえような場所で親父みたいにできるように、なんて考えちゃあいたがな。ヴィゼ、お前たちともこれ以上はって、何度も思ってたんだぜ。それがまあ、こんなことになっちまって……。
――さて、どうする?
この話を信じようが信じまいが、こんな厄介事、背負わない方がいいと、俺は思うがな」
そう、エイバは話を締めくくった。




