07 治療術師の少女と憂心
貴族らの求婚から逃れやすくなり、キトルスにも随分慣れて、レヴァーレは精神的に余裕を覚えるようになっていた。
だが一方で、はっきりと自覚した恋心に、落ち着かなくなる時も多い。
――告白、する? けどなぁ……。
今の関係は居心地が良く、振られてしまうことを考えると怖かった。
そう――レヴァーレには分かっていたのだ。エイバに拒絶されることは、分かり切っていた。
エイバは、己の内に他人を踏み込ませないようにしている。
何やら事情を抱えているらしい彼に自分の想いをぶつけて煩わせてしまうことは、本意ではなかった。
何より振られた後に気まずくなってしまって、エイバの仕事についていけないことの方が怖い。クランに入ることを拒む彼が、知らないところで無茶をして何かあったらと思うと、軽はずみなことはできなかった。
幸いなことは、彼がレヴァーレ以外の女性を受け入れることもないだろう、ということだ。
だがその考えに、レヴァーレは自己嫌悪に襲われるのだった。
――あかん……。うち、めっちゃ嫌な女になっとる……。
恋をするとはそういうことだと若干開き直りつつも、レヴァーレは内省する。
そして、エイバが困った事情を抱えているのなら、まずはそれを解決するために自分にできることをしよう、と前向きに考えることにした。
そんな風にレヴァーレが思いを巡らせていた日々の、とある夕方のことだ。
街の一角、曇り空の下、空と同じようにレヴァーレは顔を曇らせていた。
――うち、何しとるんやろ……。
彼女から少し離れた前方を行くのは、エイバである。
レヴァーレは彼に声をかけず、見つからないように距離を置きながら、その後を追っていた。
罪悪感で胸をいっぱいにしながら、引き返さずに彼女がそんなことをしているのには、もちろん理由がある。
エイバが一人で向かう先は、キトルスの西に広がる森。
綻びの現れやすい森は、魔物がいつ出てきてもおかしくない危険地帯である。
戦士であっても、一人で行くような場所ではない。
だがエイバは、単身その森へ入っていく。
躊躇う様子もないその姿は、これまでにも彼がそうしていることを物語っていた。
――なんやおかしいとは思とったけど……。
先日見たばかりのエイバの怪我を、レヴァーレは思い返す。
どこで負ったのかレヴァーレが知らない、彼の傷を。
エイバが任務に行く先には、レヴァーレも治療術師としてついていくことがほとんどだ。
レヴァーレの片恋は協会職員にはある程度伝わっていて――もちろんわざわざ申告などしていない――、気を回してくれるのだ。
レヴァーレがいる時に彼が怪我を負ったならばすぐに治療しているし、そうでなければ彼の負傷は彼女の耳に入ってくる。
だからおかしい、と思ったのだ。
彼女の知らない、彼の傷を。
しかもそれなりの深手である。
見つけた際に治療して問い詰めたが、はぐらかされてしまった。
それ以来ずっともやもやとしていたのだが、その答えが今、目の前にある。
――なんでなんや……?
エイバが危険を冒して一人で森へ行く理由など、見当もつかなかった。
自殺でもしたいのかと苛立ち不安に思ったが、それならばわざわざ戦士になったり稽古をつけてもらったりする必要はない。
誰かと逢引、などと邪推もしてみるが、さすがにこの森をその場所に選ぶはずはなかった。
――ああもう、分からん! けど、このまま放っておけるわけない……!
一人で森へ入ることが危険ということは分かっているが、このままでは彼を見失ってしまう。
人を呼ぶかと迷ったが、すぐに決心してレヴァーレは一歩踏み出した。
「レヴァーレさん?」
その瞬間に後ろから呼ばれて、レヴァーレはびくりと肩を揺らす。
不意を突かれて心臓をばくばく言わせながら振り返ると、そこには黒い少年と白い紳士が立っていた。
人の背を追うことに夢中で、自分の背中ががら空きになっていたようだ。
レヴァーレは動悸を落ち着けながら、羞恥に頬を赤くする。
「こんにちは。お仕事ですか?」
「え、と……。ヴィゼさんとゼエンさんこそ……、見回り、ですか」
「ええ」
西の森の綻びの発生率は大変なものだ。
協会は戦士たちに森の見回りを依頼し、毎日綻びの有無を確認していた。
見回りは大所帯のクランに一週間任せることもあれば、少人数クランやヴィゼたちのようなソロメンバーを集めることもある。
今日は偶然にも、ヴィゼたちが見回りの一組のようだ。
レヴァーレは天の采配と目を光らせた。
「お願いがあります! うちも連れてってください。それで、エイやんを……、追いかけてほしいんや……!」
ヴィゼとゼエンは目を瞬かせて顔を見合わせた。
実力者であるレヴァーレの同行を断る理由は特にない。
焦る様子のレヴァーレに短く頷いて、事情は歩きながら聞くことにした。
「エイバが……」
レヴァーレが簡潔に説明を終えると、ヴィゼもゼエンも険しい顔になった。
「焦っているみたいだとは思っていたけど……」
「そうですなぁ。かといってここへ単身挑むほど浅慮な方ではないはずですが……」
二人の感想はレヴァーレと似たようなものだった。
エイバの行動は彼らしくない。
認識が重なったからこそ、レヴァーレはより強く不安に襲われた。
一体どうしてエイバはたったひとり森へ入ることを繰り返しているのか。
余程の理由があるのだろうと予測できてしまい、顔が強張る。
「とにかく、急いで追いかけましょう」
三人は足を速めた。
暗い森の中、魔術の明かりで真新しい足跡を追っていく。
エイバが追手のことなど気にしていないのが幸いして(気にかけていたら彼は相当な自意識過剰である)、彼の痕跡を追うことは難しくなかった。
けれどなかなかその背中に追いつかない気がして、レヴァーレは焦燥に焼かれる。
そのせいで、足元が疎かになっていたようだ。
「……っ!」
落ちていた大きな木の枝に気付かず、レヴァーレは転倒しかけた。
ゼエンがすぐさま手を伸ばして支えてくれたため、顔面をぶつけずに済む。
「あ、りがとうございます……」
「いえいえ。怪我はありませんかな?」
「はい。おかげさまで」
レヴァーレは苦笑した。
怪我の功名、というのか、少し肩の力が抜ける。
落ち着こう、とレヴァーレは深呼吸した。
確かにこの森は危険だが、必ずしも魔物に遭遇するわけではないし、エイバも新人の時のままではないのだから。
三人はすぐに歩みを再開した。
レヴァーレはヴィゼとゼエンの後に続く形で、先ほどより慎重に歩を進める。
――この組み合わせは別に珍しいもんやないけど……、何や変な感じやな……。
少し冷静になった頭で、レヴァーレはふとそんなことを思った。
おそらくこの違和感は、これが任務ではないことから来るものだろう。
実のところレヴァーレは心の片隅で、ヴィゼは彼女の頼みを断るのではないかと思っていた。
ヴィゼたちにとって森の見回りは仕事だが、エイバのことはそうではなく、これは多分、エイバの秘する事情に踏み込むことだ。
正式に依頼されたことならば、それでもヴィゼは真面目に仕事を果たそうとする。だがそうでないならば、彼はそれを忌避するのではないか。そう思った。
エイバとヴィゼが良い友人関係を築いていることはもちろん承知している。
だからこそ、躊躇うのではと。
けれどヴィゼは、エイバの命を優先した。
そのことを意外に感じてしまった自分を、レヴァーレは叱咤する。
彼のことを冷たい人間だと思っていたわけではない。
むしろヴィゼは年齢不相応に他人への気遣いを欠かさない少年だ。
だが、彼の作る壁は厚い。
笑顔で他人と接しても、絶対に壁に触れることは許さない。
そんなところが、ヴィゼにはあった。
――そんなヴィゼさんがゼエンさんと一緒にやっていっとる、ちゅうのも何や変な感じやけど……。
そもそもゼエンのような人が、どうして一人の少年の側について離れないのか。
それはレヴァーレだけの疑問ではなく、キトルスの戦士たちの間に共通する意見だった。
様々な憶測が流れていたが、その答えが明らかになる様子はない。
――でももう、そんなんどうでもええな。二人とも、うちがマラキアの言葉しゃべっても変な顔せんし、こうしてエイやんのために動いてくれとる。仕事でも十分、信頼できるて示してくれとったのに……全くうちも、ほんま、まだまだや。
苦く思って、レヴァーレは前を見据えた。
この反省から、この後レヴァーレはヴィゼの事情を詮索せず、協会にある彼の過去にまつわる資料に手を伸ばすこともなかったので、十年の時を経てヴィゼ本人から全てを聞き、驚かされることになるのだが――それは余談である。
そうして、頼もしい二人の背に続いて歩き、どれほど経ったのか。
戦闘音が、血の臭いが、三人の元に届いた。
エイバか、それとも別の戦士か。
前者に追いつくことを願いながら、後者であることを同時に祈った。
しかし、三人がさらに足を速めて向かった先で、その祈りが届かなかったことを、彼らは知ることとなる。
エイバが立ち向かう相手は、リザードマンだった。
リザードマンは、端的に言えば二足歩行する蜥蜴である。
ただし体躯は人寄りで、エイバの対するリザードマンはゼエンよりも身長が高く、よく鍛えられているのが見て取れた。
しかもそれが、三体。一体はエイバが致命傷を負わせたようで、地面に倒れ伏している。
人に近い文化を持っているらしいリザードマンの中には武器を巧みに使いこなす者もいるが、目の前にいる彼らは幸いなことに武器を持ってはいないようだ。
だが、固い鱗と強靭な肉体に爪という、十分脅威となるものを彼らは保有していた。
それによってエイバは既に、血塗れだ。返り血もあるだろうが、ほとんどが自分のものであろう。
経験を積んできたとはいえ戦士となってまだ日が浅く、魔術が全く使えない彼が、リザードマンと三対一で、いまだ力強く立っていることの方が不思議だった。
息を呑んだレヴァーレは、蒼白になりながら反射的に障壁を張る。
厳しい顔つきのゼエンが出るより先に、瞳に苛烈な色を宿したヴィゼが、見えない刃で二体のリザードマンの首を飛ばした。
その光景に、荒い息を吐くエイバが驚いた顔で振り返る。
見知った顔にさらに目を見開いたエイバだが、気が抜けたのか最早限界であったのか、何故と口にする間もなく、前のめりに倒れ込んだ。
「エイやん!!」
泣きそうになりながら、あと少しの距離をレヴァーレは全速で駆けた。
失血のためか気を失ったエイバの鎧は半壊し、傷が露わになっている。
レヴァーレはざっと全身を見、最もひどいのは足の傷だと判断した。
尾で何度か払われたのか、固い鱗が肉を抉ったようだ。
腹にも似たような傷があるし、頭からも血は流れているが、そこまで深いものではない。
片腕も歪んでいるが後回しでも何とかなるだろう。
ゼエンとヴィゼにひとまず上半身の傷の止血を頼み、レヴァーレは足の怪我に集中した。
「ヴィゼさん、足りなくなったら魔力をお願いできますか」
「はい」
急いで治療魔術をかけ始めたレヴァーレだが、出血量の多さに己の魔力量を危ぶんだ。
ヴィゼからの返答は短く素早く、それを頼もしく感じる。
「……ヴィゼ殿」
その集中の最中、レヴァーレの耳に怪訝そうなゼエンの声が届いた。
足の傷は塞がってきている。
レヴァーレが顔を上げると、立ち上がって辺りを警戒していたヴィゼが屈みこむところだった。
その時ようやく、ヴィゼが周囲に結界を張ってくれていたことにレヴァーレは気付く。
ゼエンはレヴァーレの集中を乱したことを眼差しで謝罪して、エイバの胴を指し示した。
「これを……」
血を拭った下のエイバの胴と、その右腕には、炭のような黒い痣が広がっていた。
そこに傷跡は一切見当たらない。
痣で覆われている以外には、何の異常もない肌があった。
それ以外の体の傷と、壊れた鎧を見れば、それが異様なことであるとは明白だ。
三人は戸惑ったように顔を見合わせる。
この痣がどういうものかは分からない。
ただ、それが不吉なものであると、漠然と感じていた。




