15 黒竜と修復士の誓い
多分、夢を見ていた。
やさしくて、かなしい夢を。
けれど目を開けた時、あるのは夢の残滓だけで、一体どんな夢を見ていたのかは思い出せない。
すり抜けていくそれを追うように、ぱちりぱちりと目を瞬かせて。
クロウはふう、と息を吐いた。
真っ暗闇の中でも、クロウの目には見慣れた天井がはっきりと映る。
自室のベッドに寝ているのだ、とすぐに認識した。
――今は一体何時だろう……。あれから、どうなったのか……。
体を起こそうとして、左側が引っ張られる。
その時ようやく、クロウはヴィゼがそこで寝息を立てているのに気付いた。
「!」
思わず声を上げそうになって、抑える。
ヴィゼはベッド脇のイスに腰かけ、上半身をベッドに預けるようにして眠っていた。
その肩にはブランケットがかけられているが、今のこの寒さに対し足りているのだろうか、と心配になる。
ベッドで眠らせてあげたいと思うのだが、下手に動けば起こしてしまいそうで、クロウは困った。
――ひどく……心配をかけてしまった、な……。
ああして真名を呼ばれたのは初めてのことだ。
ヴィゼはいつもクロウを気遣って、彼女を呼び出そうとしたりしない。
それなのに、今日ヴィゼは、クロウを――ルキスを、呼んだ。
呼んでくれた。
――レヴァたちには多分、突然わたしが消えたように見えたのだろうし……。みんなにも心配をかけてしまったな……。
それをとても、申し訳ないと思う。
一方でクロウは、ヴィゼが呼んでくれたことが嬉しくて堪らなかった。
不謹慎だと分かっているが、ヴィゼに心から求められたようで、胸が締め付けられるようだった。
――いや、今はとにかくベッドから出て……。
それからヴィゼを代わりにベッドで、と思ってゆっくりと移動する。
そこでやっと、クロウは自分の体が妙に重いと思った。
眉を顰めて、無理矢理体を持っていかれた反動だろうか、と考える。
<影>たちにも問いかけてみれば、どうやら彼女たちにも影響が出ているようだ。
参った、と思いながらも、クロウには原因を作った女を責める気持ちはわかなかった。
『……お前は甘すぎる、クロウ』
『ノーチェ、』
基本的に自ら語ることのない<影>が声を伝えてきて、クロウはわずかに目を見開く。
『何故もっと怒らない』
『彼女は……わたしだ。だから、』
『違う。お前はお前だ』
『うん。わたしは、ルキスだ。だけど、もしわたしがあるじを……、彼女と同じ立場になったら……、きっと同じように呪う。敵を……全てを。分かるから、わたしは……』
告げれば、ノーチェはむっつりと黙ってしまった。
『……ノーチェは、彼女と会わなくて良かったか』
『会ってどうする。わたしにだって記憶などない。わたしにはあれは……見苦しい、ただの残り滓だ。もう二度と見たくない』
吐き捨てるようにノーチェは言う。
けれどクロウは知っている。アーフェラーレ、その名に彼女が心を動かしたことを、知っている。
クロウよりもあの存在に近く、理解できてしまうからこそ、ノーチェは否定したいのかもしれない。自分のことも、あの存在のことも責められるべきと考えているから、優しくされて、受け入れられて、どうしていいのか分からないのだ。
『わたしは、彼女にもっと何かできることがあればと思った』
『……全くお前は、度し難い』
『そうかな』
『あれは十分に救われていた。満たされていた。それ以上をと考えるのは、傲慢だ』
突き放すようで、それは、クロウを励ます言葉だった。
思わずクロウは微笑む。
『うん。……ありがとう、ノーチェ』
『何故礼を言うのかは知らないが……、そんなものはいつだって不要だ。わたしはお前なのだから』
これ以上はもう何も言わない、とノーチェは固く口を噤んでしまった。
他の<影>たちがどこか微笑ましげにそれを見つめているような雰囲気を感じながら、クロウは左腕をそろりと動かそうとして。
「う……ん、」
ヴィゼが小さく唸り、遠ざかろうとするクロウの体を追うように、その右手が動いた。
布団の上から抑え込むように左腕を捕まえられ、クロウは息を詰める。
ヴィゼはその動きで、目を覚ましてしまったようだ。
のそりと顔が持ち上がり、何かを探すように顔が左右に動く。
暗闇の中でぼんやりと、ヴィゼはクロウの目が開いているのを認めた。
「……クロウ、起きた?」
「うん……」
「良かった……」
掠れた声は、大きな安堵で満ちている。
クロウの胸は、喜びと罪悪感で溢れた。
「あるじ、あの……」
「うん?」
「すまない……」
色々なものを詰め込んだ「すまない」にヴィゼは微笑を浮かべる。
クロウの意識も記憶もはっきりしているようで、何よりだった。
ヴィゼはぽんぽんと軽く布団を叩いて、返事に変える。
「えっと、眼鏡……」
「書き物机の上に置いてあるみたいだ」
「誰かが外してくれたのかな……」
ヴィゼは手探りで眼鏡に触れて、かけた。
ヴィゼがベッドから離れたので、クロウも今度こそ問題なく体を起こす。
「……暗くてまだよく見えないや。クロウ、ちょっと明るくしていい?」
「うん」
ヴィゼは明るすぎないよう、部屋の蝋燭一本に火を灯した。
「これでクロウの顔がちゃんと見える」
満足げに言われて、クロウは何とも返せなかった。
「顔色は良いみたいだね。体調はどう?」
「だ、大丈夫」
少しばかり体が重いが、それは時間の経過と共に良くなるだろう。
それよりも。
クロウの温度を確かめるように伸ばされた手が、頬に触れて。
そちらの方が余程、心臓に悪かった。
「……あるじの方が……顔色が、悪い」
「そう?」
「わたしは大丈夫だから、あるじもちゃんと、ベッドで休んでくれ」
「いやだ」
短い返答に、クロウは絶句した。
「まだいたい。ここに」
まだ夢を見ているのかもしれない。
軽い眩暈さえ覚えながら、クロウは思った。
ヴィゼの言動は、先ほどからどうしてこんなにも甘やかなのか。
混乱しながら、クロウは必要と思われることを口にする。
「……それなら、あるじがベッドに入ってくれ。その格好では寒いだろう」
「……大丈夫、これ、仕事にも着ていくローブだから。色んな効果が付与されてて、全然寒くはないんだ」
「そう、なのか」
ヴィゼが体を冷やして風邪を引いてしまう、その心配はしなくていいようだ。クロウは胸を撫で下ろした。
けれどやはり、ヴィゼがやつれてしまったように映り、心配は完全にはなくならない。
クロウが知らないだけで、ヴィゼも数時間前に意識を失っているのだから、そう見えるのも当然のことだった。
レヴァーレの処置で一応回復はしているが、十全ではない。
それでもヴィゼはひとり大人しく自室のベッドで横になっていることなどできず、こうしてクロウの部屋に押しかけたのだった。
「クロウ、眠たい? 多分まだ、夜明けまでは時間があるから……、寝るなら明かりを消すよ。落ち着かないかもしれないけど、僕のことは置物とでも思って休んで」
「いや……、目が冴えてしまったみたいだ。少し、起きていようと思う。あるじこそ、やはりベッドでちゃんと休んだ方が……」
「眠たいのは眠たいんだけど……クロウが起きておくなら、話したいこともあるし」
はなし、とクロウは唇だけで鸚鵡返しに呟いた。
「少し、長くなるかもしれないけど。クロウさえいいなら」
「……うん」
「その前に、クロウ、水飲む? オレンジなんかもあるけど……」
書き物机の上に、水差しとコップが二つ、さらに果物まで並んでいる。
クロウは自分で動こうとしたが、ヴィゼがさっと立ち上がってコップに水を注いでくれた。
礼を言ってコップを受け取り、ゆっくりと水を口に含む。
思いの外喉が渇いていたようで、すぐに飲み干してしまった。
クロウの隣で、ヴィゼもコップを空にしている。
仰ぐような仕草に、クロウはどきりとした。
垣間見えたヴィゼの表情は、どこか苦しげだった……。
「おかわりいる?」
「大丈夫……」
「喉渇いたら言ってね」
ヴィゼはクロウの手からコップを取り上げ、机の上に戻した。
イスに深く腰かけて、ヴィゼは深呼吸する。
見守るクロウの眼差しが翳ったのを見て、ヴィゼは苦笑を浮かべた。
「そんな顔しないで」
「あるじ、」
「ルキス」
呼ばれて、息を詰めた。
冷たいヴィゼの手が、彼女の左手を握る。
「これだけは、忘れないでいてほしい。僕が君を手放すことは、絶対ない。何があっても」
体の奥が震えるのを、抑えきれない。
じっと見つめてくるヴィゼを、クロウも同じように見つめ返した。
「どうして……、今、そんな……?」
「ノーチェウィスクという竜を、知ってる?」
クロウの表情が、凍りついた。
「どうして、その名を……、」
「会ったことがあるから」
混乱を隠しきれない様子のクロウの手を、ヴィゼはさらに強く握った。
「クロウの<影>のノーチェと、何か関係がある?」
「……ある」
深呼吸をするのは、クロウの番だった。
呼吸を整えて、何とか頷く。
ヴィゼはその答えに顔を伏せ、首を垂れた。
それはまるで、何かを請うように。祈るように。
「僕はね……最初会った彼女を、消したよ。君を連れ去った彼女も」
「……!」
「謝罪は、しない。あれは、必要なことだったから。見逃すことは、できなかったから」
「……うん。大丈夫だ、あるじ。謝罪なんて、いらない」
クロウは右手を、自分の左手を握るヴィゼの手に重ねる。
ノーチェとの繋がりを悟ってしまったヴィゼの苦悩を、クロウは察した。それを消したい、と思って。
「あれがどういうものかは、分かっている。あれは……世界にあってはいけないものだ。あるじは正しいことをした。わたしの方が、礼を言わなくてはならないことだ。彼女たちを解放してくれて……ありがとう」
礼まで告げられるとは思っていなかったのだろう。
ヴィゼははっと顔を上げた。
「あるじ……でも、わたしが彼女たちと関わりがあると知って……、本当に、わたしを側に置いておいていいのか……?」
「何があっても、それだけは変わらないよ。……たとえルキスが嫌がっても、それだけは」
ぎゅうぎゅうと、二人は互いの手を握り合った。
けれど顔は会わせられなかった。
共に、目の奥に、喉の奥に、熱いものの気配を感じていたから。
「……だけど、ルキス、あのね」
「うん」
「僕たちはもう……<黒水晶>には、いられないかもしれない」
「え、」
手はそのままに、少し心を落ち着けた二人は、また眼差しを交わし合った。
「それは、どういう、」
「彼女のことで……、僕は皆を、騙してきたんだ。その話を……させてほしい」
真剣な瞳に、クロウはこくりと頷く。
不安はあるだろうに、真っ直ぐな眼差しは揺らがず、ヴィゼは心を励まされて。
ゆっくりと、口を開いた。
「……あれはまだ、<黒水晶>を結成する前のことだったよ……」
そうしてヴィゼは、静かに語り出す。
故郷を出、この街に辿り着いた時のことを。
初めての仲間を得た時のことを。
ノーチェウィスクという“呪い”との邂逅を――。
第3部 了
第4部へ続く




