14 黒竜と黒の女
『ここは……』
唐突に目の前の景色が変わり、クロウは瞬いた。
無機質な、灰色の空間。
ぐるりと周囲を見渡すが、空間の果ては分からなかった。
そこには何もない。
在るのはただ、クロウと彼女をここに連れて来た黒い女だけ。
女の正体は、クロウには既に分かっている。
意思の確認なく連れて来られたにも関わらず、クロウは警戒を薄めて問いかけた。
『……あなたの中か』
『そう。ひとつになってしまえば早いと考えたのだが……。どうやらそうもいかないらしい』
女は溜め息を吐いた。
『わたしを呼んでいたのは、お前ではないのか?』
『わたしに覚えはない。……別の欠片だろう』
『そうか……。それはすまないことをした』
『構わない』
『せっかくだ。少し、話をしても?』
女の問いに、クロウは躊躇を見せた。
つい先刻まで一緒だった友人たちの顔が浮かんだのだ。
しかし、彼女たちには後で謝れるが、目の前の相手とはおそらく今しか話すことはできない。
クロウは頷いた。
『では、座ってくれ』
女が片手を軽く動かせば、そこに二脚のイスが現れる。
白い簡素なイスだった。
『さすがに飲み物や食事までは出せないが、人の姿ならばこの方が落ち着いて話せるだろう』
『そうだな』
クロウが座るのを見届けてから、女もイスに腰を落ち着けた。
背凭れに背を預ける姿に、クロウはふと浮かんだ疑問を口にする。
『……人のことは、学んだのか? それとも、覚えていたのか?』
『覚えていたのだ。……だからこそ、聞きたいことがある』
『聞きたいこと?』
『そう。それをお前が知っていれば良いのだが……』
女は憂いを隠さない。
『お前はわたしだが……、わたしではないのだろう?』
『そうだ。わたしはあなたとは異なる名を持っている。けれどわたしはあなたの一部を持ち、完全に別個のものとは言えない。それ故にあなたは、わたしにとって疎かにできない存在だ。あなたが一体何を聞きたいのか、聞かせてもらえれば嬉しい』
『ふむ……もうひとりのわたし、お前はわたし以上にわたしたちのことを把握しているらしいな』
クロウが心からの言葉を言えば、女も心が解けたように少し笑った。
『……わたしが持つ記憶は、ほんのわずかだ』
『うん』
女は真っ直ぐ顔を上げて、話し始める。
彼女はクロウをじっと見つめるようで、その瞳はもっとずっと遠く、どこか異なるものを映そうとするようだった。
『人間の、男がいる。こんな白いイスに座っている。わたしは人の姿となってその隣にいて、男と話している。手前には白くて丸いテーブルがあって、その上には……ティーカップが、ある。わたしとその男は話している。穏やかに、時に微笑んで。わたしが拗ねたような顔をすると、男は宥めるように手を伸ばしてわたしの髪に触れるのだ。目元を柔らかに細めて、どこまでも優しい手つきで……』
その光景は、クロウの脳裏にまざまざと描かれるようだった。
話す女の微笑は、とても美しい。
けれどそれは、すぐに掻き消えた。
『だが、次の瞬間に男の姿は消える。わたしの目に映るのは男の血だ。大量の血溜まりにわたしは……何も分からなくなって、ただ許せないと。男を奪ったものを……全て、全て、屠らなければ……!』
『――ノーチェウィスク』
女の瞳に赤い光が宿ったように見えて、クロウは腰を浮かした。
名を呼べば、しかしすぐに相手の瞳に落ち着いた色が戻る。
クロウはほっとして、腰を下ろした。
『……すまない、取り乱した』
『いや。その感情こそが……あなたの存在する理由なのだから』
『そう……、そうなのだがな。今ここにいるわたしには、もっと重要なことがある』
『それが聞きたいことなのだな』
『そうだ、わたし。わたしは……どうしても思い出せないのだ。男の名を』
苦悩も露わに、女は告げた。
『あんなに優しく触れる男を、わたしは愛しく思う。とても強く……それこそ、この切り離せない憎悪よりも深く。それなのに、どうしても、思い出せないのだ……!』
ああ、そうか――。
クロウは立ち上がり、女に近付いた。
泣きそうに顔を歪める女に、クロウはそっと手を伸ばす。
女の気持ちは痛いほどクロウにも分かって、もう苦しむ必要はないと教えるように、その頭を撫でた。
『……良かった』
『なにがだ、わたし』
『それにわたしは、答えることができる』
『本当か……!?』
縋るように女が片方の手を取って、クロウは安心させるように微笑む。
『ああ、その名ならば、知っている。わたしも人伝だが……』
『教えてくれ……!』
当然だと、クロウは首肯して。
『アーフェラーレ』
女の表情が、全て抜け落ちた。
クロウが口にした名を、何度も自分で呼んで。
そして、彼女は、ノーチェウィスクの一欠片は、涙を流して、笑う。
『……そうだ、あの男をわたしは、アーフェと、そう呼んでいた……』
ぽたりぽたりと、雫が頬を伝っては落ちる。
女がそれを自分ではどうともしないので、クロウがそれを拭ってやった。
『……ありがとう、わたし』
『いや……』
『そう言えば、名を聞いていなかったな。聞いても良いだろうか?』
『クロウ、だ』
『ふふ、真名ではないな』
女は揶揄うような表情であった。
『真名で呼ぶことを許すのは、わたしにとってのアーフェと同じ、そういう相手か?』
『……っ』
クロウは思わず言葉を失い、顔を赤らめる。
そんなクロウに、女は穏やかに微笑んだ。
『――呼ばれているな、クロウ』
『え……、』
クロウはその時、ようやく気付く。
足元から、己の体が消えていることに。
――あるじが、呼んでいる。
『引き留めてしまって、すまなかった』
『ノーチェウィスク、』
『本当にありがとう、クロウ』
女は綺麗に笑う。
クロウははっとして、顔を歪めた。
現実が迫って、思い出す。
女は、アルクスたちの追う存在だった。
ここで別れてしまえば、クロウは女を敵にしなければならない。
『ノーチェウィスク!』
何か言わなければ。
けれど何を。
迷う間に、クロウの体は灰色の空間から消えていく。
女は微笑んでそれを見送った。
この後自分がどうなるのか、全て知っているかのような微笑だと、クロウは思って、手を伸ばして。
そこでふつりと、意識が途絶えた。
「ルキス――」
ヴィゼは、呼ぶ。
それに応えて、ヴィゼの前に、ひとつの人影がふっと姿を現した。
意識のない様子のクロウを、ヴィゼは両腕で抱き留める。
――戻ってきて、くれた……。
強い焦燥が途端に霧散し、安堵のまま、ヴィゼはクロウをぎゅっと抱きしめた。
衣服越しに、その温度を確かめる。
呼吸が確かにあることを確かめる。
ほっとしながらも意識を失っていることが心配で、ヴィゼは障壁を消した。
「レヴァ、クロウを診てあげて」
「了解や」
硬い面持ちながら、わずかに頬を紅潮させたレヴァーレが、ヴィゼからクロウを預かる。
ベッドに寝かせようとクロウを部屋に連れて行くレヴァーレの背を見送ったヴィゼは、戸惑いと安堵の視線の間を縫い、一人の男を獲物と捕らえる。
「――シュベルト殿」
この時故意に、ヴィゼは男の名を呼んだ。
たじろぐ男の手を掴み、ヴィゼは一方的に告げる。
「魔力、いただきます」
「は!?」
「クロウを連れて行かれて、僕が黙っているとでも?」
「おま……っ」
ヴィゼの中の怒りは消えてなどいない。
その瞳の奥に煮え滾るものを認めて、シュベルトは息を呑んだ。
その間に、ヴィゼとシュベルトを取り巻くようにつらつらと古文字が並ぶ。
長い、長い魔術式だった。
最初は怪訝な顔だったアルクスが、その秀麗な面に驚愕を浮かべる。
「まさか、その魔術式は……」
――この魔術まで知っているのか……。
アルクスの反応を横目で認め、ヴィゼは瞳を閉じた。
その瞼の裏に、浮かぶ景色がある。示される情報がある。
「ぐっ……、くそ、どんだけ持ってくんだよ……!」
大量の魔力を持っていかれて、シュベルトが膝をついた。
これだけ魔力を使って意識を保っているのだからやはりさすがだ、とヴィゼは思う。
そんなヴィゼも、嫌な汗を額から流していた。
この魔術は、脳に大きな負荷がかかるのだ。
けれどその代償に、ヴィゼは敵の情報を手に入れていた。
クロウをヴィゼから奪おうとした、相手の情報を。
だがそれを手に入れて、ヴィゼはとても喜べなかった。
――またこの名前を聞くことになるなんて……。
ノーチェウィスク。
なんという因縁だろう。
彼女を手にかける、そんな運命がヴィゼに課されているとでも言うのか。
奥歯を強く噛みしめて、ヴィゼは決断を下す。
シュベルトの手を解放し、続けて使うのは召喚魔術であった。
ヴィゼが今度こそ己の魔力で呼び出したのは、一本の剣。
その剣身には、古文字が、魔術式が刻み込まれている。
普段は本拠地の倉庫の奥深くにしまい込まれているそれを、ヴィゼは手にとった。
――目が、霞む。早く、これを……。
大半の魔力はシュベルトから頂戴したものの、ヴィゼへの負担も大きい。
魔力の欠乏と強い疲労感から何とか逃れながら、ヴィゼは剣を掴んだ手を伸ばした。
「――エイバ、これを使って。場所は……」
騒ぎに気付いて玄関ホールにやってきていたエイバは、硬い面持ちでヴィゼから剣を受け取る。
ヴィゼが口にした敵の潜伏先は、キトルスの宿屋の一つ。
目と鼻の先であったが、それよりも腕にかかる剣の重みの方が意識され、エイバは頷くだけだった。
この剣が一体何か、エイバは知っている。
その剣は彼にとって、とても縁の深いものだった。
「アルクス殿、エイバが案内します。その剣であれば……、合成獣のうちの、最も手強い一体を……消すことが、できるので……」
「っ、おい!」
「ヴィゼ!」
「ヴィゼさま!」
言いながら、ヴィゼの体は傾いでいった。
シュベルトが手を伸ばすが、彼も腕に力が入らない様子だ。
ヴィゼは床に額を打ちつけ、慌てたエテレインとサステナがそんなヴィゼに駆け寄った。
「魔力の使い過ぎと、脳への過負荷、ですね。治療術師殿に<ブラックボックス>殿の治療もお任せしましょう。<不可壊>殿、案内を頼みます」
「……おう。エテレインさん、サステナさん、後頼むぜ」
「はい」
エイバは気を失ったヴィゼのことを気にしながら、ドアを開いた。
エテレインとサステナの頼もしい返事を背に、エイバとアルクスは<黒水晶>の本拠地を出ていく。
二人はそれから<消閑>のメンバーと合流し、見事目的の合成獣を倒すのだが……、ヴィゼがそれを聞くのは、その何時間も後のことだった。




