02 貴族の娘と婚約者候補②
気持ちを切り替え、エテレインは客を目の前にする。
ずっと立ったままだったのか、ドアがノックされてから立ち上がったのか。
その客は堂々とした立ち姿で、エテレインを迎えた。
若い男だ。
若いといっても、エテレインよりいくつか上であろう。
美丈夫、と形容するにふさわしい容貌の持ち主で、類稀なる美貌を持つエテレインでさえ、思わず目を見張った。
――クロウさんに並ぶほど造作の整った殿方が存在するのね……。
感心しながら、エテレインはさりげなく相手を観察する。
月の光を集めたような白銀の髪。その中に、幾筋か闇色のものが見えている。不思議な髪色だった。
その瞳は、眼鏡の硝子の向こう、穏やかにも冷たくも見える黒を湛え。
整った鼻梁の下に視線を移せば、薄い唇はどこか作り物めいた笑みを浮かべている。
芸術家に彫刻にでもされていそうなその秀麗な面差しに加え、その体つきも見事なものだ。
男は鎧を纏っているが、鍛えられ引き締まった体躯がその上からでも分かる。
脱げばさぞかし素晴らしい肉体美が現れることだろう。
多数の女性に持てはやされるに違いない男の外見だ。
だがエテレインは、見た目に惑わされてはいけないと、警戒を引き上げた。
これまで引きこもりであることの多かったエテレインだが、祖父を筆頭に喰えない貴族の狸親父とは結構な数対面している。
その経験が、目の前の男に隙を見せれば痛い目を見る、と危険を告げていた。
「お待たせいたしました。エテレイン・メトルシアと申します」
エテレインは長年培ってきた貴族の娘としての笑顔で内心を隠し、丁寧に礼をした。
「お初にお目にかかります。クラン<消閑>のリーダーを務めております、アルクスと申します。突然申し訳ありません」
男も、通りのよいテノールの美声で、エテレインの優雅さに負けず劣らずの礼をして見せる。
これはますます油断ならない、とエテレインは笑顔の下で思った。
アルクスと名乗った男は、クランのリーダーと名乗った通り、戦士である。
貴族出身の戦士は珍しいというほどのものではないが――ヴィゼも一応そうである――ここまで礼儀に則ったふるまいのできる者はそうそういない。
戦士であるというのなら、侯爵家の令嬢相手であっても、もっと砕けた態度である方が普通だ。
それなのに平然とこんなに上品な挨拶をしてみせるとは、祖父の紹介というのもあって、嫌な予感しかしない。
「いえ、こちらこそ、祖父が無理を申したのではありませんか? クランのトップともなれば、忙しさは尋常ではないでしょう。早速本題に入りましょうか」
相手が貴族ならばもう少し前置きするところだが、さっさと帰ってもらいたいので話をさくさくと進めることにする。
イスも勧めない。
相手がそれに気分を害するならば、それはそれでエテレインには都合が良かった。
「お気遣いありがとうございます。それではお言葉に甘えまして、頼まれました護衛の件ですが」
アルクスはエテレインの意図に気付いているだろうが、顔には全く出さない。むしろ感謝の言葉まで返す。
彼のクランがメトルシア家前当主に(及び現当主にも)依頼されたのは、エテレインの護衛だ。
アディーユの後任を、エテレインは誰であろうと受け入れてこなかった。
メトルシア家の兵も、戦士も。
彼らが順番に護衛に就くことは許したが、誰かが専任になることは許さなかった。
孫を、娘を溺愛する前当主と現当主は頭を抱え、あちこちの戦士、クランに声をかけ、エテレインが気に入りそうな人材を寄越し続けている。
しかしエテレインは、義理のために数日間だけ護衛を受け入れ、それから断りを入れる、を繰り返していた。
クラン<消閑>もその内の一つになるだろう。
――お祖父さまもお父さまもいい加減諦めて、少しの間そっとしておいてくれたらいいのに……。
祖父や父の心配も分かる。
いつかはエテレインも彼らの気持ちを汲んで、新しい護衛を受け入れるだろう。
だが今は、まだ駄目だった。
それに今は、祖父へ罰を与えている時なのだ。
彼女の祖父は、<黒水晶>のリーダーであるヴィゼの実力を高く買っている。
彼はヴィゼを抱き込むためエテレインとの結婚を画策し、外堀から埋めようと二人の婚姻に関する噂をばらまいていたのだ。
怒ったエテレインは、孫娘を溺愛する祖父を懲らしめるには己の顔を見せないのが一番だと、長々と領地を留守にする理由の一つになったのである。
祖父の行いは同時に、エテレインが結婚を急ぐ理由の一つでもあった。
ラーフリールの手前、祖父はこれ以上強引な手段を使えないはずだが、ヴィゼを手に入れるためにまた何を始めるか分からない。
祖父のせいでまたクロウが傷つくことになったらと想像するだけでエテレインは気が気ではなく、早く結婚相手を見つけなければと思うのだ。
――とにかくしばらくは、お祖父さまの思い通りになんてならないんだから……。
困った――というよりも今は憎たらしい祖父の顔を思い浮かべ、エテレインは目の前の男に気付かれない程度に拳を握る。
「実を申しますと、現在こちらは他の依頼を引き受けたところで、仲間たちもそのために動いており……」
だが男の言葉に、エテレインの頭の中、祖父の顔は消えた。
瞳についつい、期待を浮かべそうになる。
どうやら相手が続けるのは断りの文句。
こちらから断らずに済むのなら、それ以上のことはない。
「お断りしなければと考えていたのですが、部下にそちらを任せて私があなたの護衛に就こうかと存じます」
「――え?」
断られる流れはどこへ行った。
エテレインは思わず笑顔を強張らせていた。
「あなたがクロウ殿のお知り合いであるならば、私には依頼を引き受ける理由があります」
「……え?」
エテレインは今度こそ取り繕えず、絶句した。
「どう、いう……?」
「申し訳ありません、先ほどのお二人の会話が聞こえてしまいました。人より耳が良いものですから」
男はエテレインとその後ろに控えるサステナを目で示す。
エテレインは自分が何を口にしたのか思い出し、みるみるうちに赤くなった。
この男は聞いていて、今まで素知らぬ顔をしていたのだ。
やはり狸だった――エテレインは男を睨みつける。
エイバに勝る男の高身長のため、そろそろ首が痛くなってきたのが、余計に憎たらしかった。
「……無作法ですわね」
「それはお詫びいたします」
「わたくしの知るクロウさんと、あなたの知るクロウさんが同じとは限らないのでは?」
「長い黒髪の美しい少女で、身長はこれ程(と男は胸の下辺りを示す)、堅い話し方をされる、性根の真っ直ぐな方ですよ」
どう聞いていても、エテレインの愛すべき友人と男の言う人物とは同一である。
――このひとが、クロウさんの、お知り合い……?
それが本当に本当なら、エテレインの方こそ相手に断りを入れるのが難しくなった。
クロウはエテレインの意に反することを押し付けたりはしないだろうが、それでも他の兵や戦士たちに対するのと同じようにはいかない。
「実は、少し前からクロウ殿のことを探していたのです」
「どういうことです?」
エテレインは警戒を露わにした。
この男に愛想笑いを浮かべる必要はない、と判断したからである。
だがそれ以上に、知り合いであるならばクロウの居場所を知っているはずだ――怪しい、と考えたのだ。
知らないとして、何故クロウを探すのか。
クロウを害するつもりなのではないか。
エテレインは心からクロウの身を案じていた。
「彼女は私にとって、師を同じくする、妹弟子、とでも言うべき存在です。半年ほど前に師が亡くなり、その死に関して全てを取り仕切ってくださったのがクロウ殿でした。しかしその後彼女の行方は分からなくなり、礼と……詫びをしたいと探しておりました」
「そう、なのですか……」
男の言葉に、嘘は感じられなかった。
胡散臭さは拭えないが、ひとまずそれを信じてみようとエテレインは思う。
しかし男の言葉が本当ならば、クロウは師を亡くしたばかりなのだ。
クロウの心を思い、エテレインはそっと目を伏せた。
「もしあなたがクロウ殿に会いに行かれるというのなら、護衛として同行させていただきたい。あなたがここに帰られるまで、傷一つつけずお守りいたします。その後のことは、試用期間というものがあるそうですから、ここに戻ってから、ということでどうでしょう」
エテレインはわざとらしく大きな溜め息を吐いた。
男は性格が悪そうであるし、祖父の思惑通りになるようで、非常に気は進まないが――。
いずれにせよ、<黒水晶>の仲間たちに会いに行くのならば、護衛は必要なのだ。
この邸の警護を減らさず気兼ねなくここを離れるのに、男の存在は都合が良かった。
男の言う通りなら、クロウも兄弟子に会えることを喜ぶはずだ。
――それに、さっき<黒水晶>と言ってしまった気がするし……、断ってこの男を野放しにするくらいなら、わたくしの目の届くところで再会してもらった方がいいわ。
「分かりました。護衛をお願いします。……ですが、先ほどの言葉が偽りであったり、あなたがクロウさんを傷つけるようなことがあれば、家の力でもお金の力でもなんでも使ってあなたを追い詰めて苦しめて懲らしめます。絶対に許しませんから、それを心しておいてください」
断固として、エテレインはそう告げる。
男はそれに、顔を顰めるどころか、柔らかい笑みを見せた。
「……クロウ殿は、良い友人を持たれたようですね」
小さな呟きに、エテレインは意外感を禁じ得ない。
目の前の男は、彼女の想像以上にクロウのことを大事に思っているようだった。
――それはそれで、問題があるような……。
エテレインのライバルが増えるのもそうだが、ヴィゼの眼鏡の奥の瞳を思い出し、ぞわりとした。
今からでも何とかお断りするべきかと考え始めるエテレインだったが、男はそんな考えが吹き飛ぶようなことを口にする。
「ふむ……、婿に来ないかとお誘いを受けたのですが、承知するのも良いかもしれませんね」
「……はい?」
「紹介状にありませんでしたか? 有り難いことに、御隠居殿に気に入っていただけたようで、あなたとの縁談の申し出をいただいたのですが」
やはり、とエテレインは祖父をぶん殴りたくなった。
そうなのではないかと疑ってはいたが、やはりそうだったのか。
「さすがに現実味がないと考えていましたが、お会いしてみると、あなたはなかなか――面白い」
面白い?
よりにもよって、面白いとはなんだ。
エテレインは何か反論しようとしたが、男がたたみかけて来る方が早い。
「前向きに考えますので、よろしくお願いいたします」
男は微笑む。
それはエテレインには、何故か獰猛な獣が獲物を前にニタリと口元を歪ませる、そんな風に見えた……。
それからアルクスは、明日また訪れることを告げ、一旦暇を告げた。
客を見送り、エテレインは茫然とする。
男が去ってしまえば、唐突な展開に悪夢を見ていただけのような気もしてくるが、現実なのだ。
明日からのことを考えると、気が重すぎるほどに重かった。
「お嬢様……」
労わるようなサステナの声に侍女の方を振り向けば、彼女の方が蒼白な面持ちである。
エテレインは驚いて、その手を取った。
「どうしたの、サステナ。あの男の悪い気にでもあてられたの? ひどく顔色が悪いわ。具合が悪いなら、部屋で休んでちょうだい」
「いえ、その、お嬢様……大丈夫です、ありがとうございます。何と申しますか、驚きすぎただけですので」
こてんと首を傾けた主に、サステナは何とも複雑な表情で問う。
「お嬢様は……、クラン<消閑>をご存じではありませんか?」
「聞いたことがあるような気は、したのだけれど」
改めてエテレインは記憶を探る。
「前にもふざけた名前だと思ったことがあったような……」
「名前はともかく、実力は大陸でも五本の指に入るという話です」
真面目な顔で言われた言葉に、エテレインは表情を強張らせた。
「大陸で? 国、ではなくて?」
「はい。私も、噂に聞くばかりなのですが。それによると、メンバーは百人ほどで、その全員が精鋭、二つ名を持つ者が大半とか。大陸中で依頼を引き受け、複数の王家から信を置かれているらしいとも……」
「……誇張されていそうだけれど」
「そうですね、大げさな部分もあるでしょう」
サステナは認めた上で、さらに続けた。
「そんなクランの中でもリーダーは別格だそうです。何しろ、二つ名が確か、<可視の戦慄>でしたか……誇張を抜いても、恐ろしい相手のように思われます」
エテレインは、男の顔を、先ほどの会話の一連の流れを頭の中でリピートする。
そして、サステナの顔色の訳を理解した。
最終的に、再び祖父の顔を頭に浮かべることになる。
「どうしてそんな危険な相手をわたくしの結婚相手に選ぶの……! あの、あの、クソジジイ……!」
とうとうエテレインは、初めて祖父のことをそう口に出して呼ぶ。
サステナはさすがに窘められず、同情を込めた瞳で己の主を見つめるしかなかった。




