33 修復士と黒竜と収穫祭の夜
それから――。
仲間たちと同じように、ヴィゼもクロウも、心から祭を楽しんだ。
たくさんの店を冷やかし、美味しいものをたくさん食べ、祭を堪能した二人は、日が暮れる頃、広場の隅で大きな焚火を眺めている。
広場でくつろぐのはヴィゼたちだけではなく、多くの人々が集まっていた。
有志を募って作られた楽団が楽しげな音楽を奏でていて、それに合わせて踊る姿もある。
温かい飲み物を手にする二人は、踊る輪の中に仲間たちを見つけ――結局、いつの間にか完全にはぐれていた――、顔を見合わせて笑う。
満たされた、幸福なひと時だった。
そんな時に、ふとクロウは、追いやってしまっていた問題を思い出す。
この穏やかな時に言うべきでないだろうか、と思いつつ、そのままにしておくのも気が咎めてしまって、クロウはそろそろとヴィゼを呼んだ。
「あの、あるじ……」
「うん?」
炎の色を映す眼鏡の奥、優しく細まるヴィゼの瞳に、クロウは怯みそうになる。
それでも結局、クロウはつっかえながらそれを口にした。
「その、さっき……、わたしたち、こ、恋人同士に間違われて、しまっただろう? そ、そういうのは、あるじに、よくない、のではと……思ったのだが……」
「ああ――」
それなのに、二人で過ごすうち何時間も経ってしまった。
すっかり浮かれてしまっていた、とクロウは肩を落とす。
その姿に、ヴィゼは先ほど否定しなかったことを申し訳なく思った。
「ごめん、クロウも困ったよね」
「わたしはいいんだ! 別に、困らない!」
今度はきっと顔を上げて、クロウは言う。
気遣わせてしまうなぁ、とヴィゼはますます申し訳なさを覚えたが、クロウのきっぱりとした言葉はとても嬉しいものだった。
「僕も……クロウだったら、全然困らないから」
「……っ、」
「それに――」
言いかけて、ヴィゼは口を噤んだ。
噂のことをクロウに告げるチャンスだ、と思う。
だが、こんなに楽しい祭の最中に言うことだろうか。
つい、眉間に皺を寄せてしまう。
「……それに?」
「……うん」
促すように首を傾げられ、ヴィゼは心を決めた。
これを逃せば、自分から口にする機会を作れそうにない。
ヴィゼは少し考えて、口を開く。
「実は、僕と――エテレインさんのことで、根も葉もない噂があって」
「……その噂は、わたしも聞いた」
クロウのその返しに、ヴィゼは頭痛を覚えた気がしてこめかみを押さえる。
「……誰、に?」
「<抗世>の――」
と、クロウは素直に答える。
こうして一人の少年の、地獄行きが決定した。
「それから、同じように噂を聞いたレインど……レインが、事情を説明してくれて」
「そっ……か。じゃあ、侯爵家の勧誘のことも?」
「うん。あるじは……すごいからな。侯爵家は見る目がある」
ヴィゼはそれには何とも言えない。
「……噂がかなりのスピードで広範囲に拡大していて、参ったよ。クロウに説明をとも思ってたんだけど……大げさにするのも嫌で……話すのが遅くなって、ごめんね」
クロウはふるふると首を振る。
こうして話してくれただけで、彼女には十分だった。
「エテレインさんは、良い人だと思う。でも、そういう風には見ていないし、メトルシア家に仕えることも考えられない。僕はもう二度と、貴族に使われたくない」
「あるじ……」
「<黒水晶>として依頼を受ける分には別だけどね」
顔を曇らせたクロウの憂いを払うように、ヴィゼは笑った。
「だから、クロウには本当に迷惑をかけるし、利用するみたいで申し訳ないんだけど……僕にとっては、クロウとの噂の方が……有り難いんだ」
ついつい、クロウとの関係が誤解された方が嬉しい、と口走りそうになって、ヴィゼは問題のない言葉を探さなければならなかった。
「……うん」
「頼りっぱなしで、ごめん」
クロウはまた、首を振った。
クロウはクロウで、ヴィゼとエテレインの関係があれこれ言われるよりは、やはり、ヴィゼの相手が自分である方が嬉しいと思ってしまうのだった。
現実にはそれは許されない、と思うから、余計にそう感じるのだろう。
――許されないこと、なのにな……。
いつかの未来のことを考えるなら、噂のことは否定しなければならない。
けれど今は、ヴィゼがその方が良いと言ってくれるから。
今だけは、とクロウはヴィゼを真っ直ぐに見つめる。
落ち込んでいるようなヴィゼを励ますように、彼女は告げた。
「わたしは、もっと頼ってくれた方が、嬉しい。あるじも、前に同じことを言ってくれたではないか」
「その言葉に甘えすぎて、ますます駄目な人間になっちゃいそうだよ……」
クロウの真っ直ぐな眼差しに、ヴィゼは自嘲の混ざる苦笑を浮かべる。
いつもと違う服装でも、クロウのこの澄んだ眼差しは変わらないなと、そんなことをふと思った。
「あるじは駄目な人間なんかじゃない」
強く言ってのけたクロウだが、すぐにその目を伏せて俯く。
惜しいな、とヴィゼは彼女のつむじを見下ろす。
彼の見つめる先で、クロウは小さく唇を動かした。
「駄目なのは……わたしの方だ」
「クロウ?」
とても神妙な面持ちで、クロウは懺悔の言葉を口にする。
あるじが話してくれたのだからわたしもと、生真面目にクロウは思ったのだった。
「……噂を、聞いた時。わたしは、デマだと分かった。でも、もしデマじゃなかったら。嫌だと、思った。まだ、こうしてあるじの側にちゃんといられるようになって、少ししか経っていない。それなのにあるじが離れてしまうとしたら……、寂しい、と思った。あるじの慶事を祝えないなんて、わたしは……」
「クロウ――」
クロウの声は抑えたものだったが、喧騒の中、ヴィゼの耳にしっかり届く。
罪悪感と歓喜に、ヴィゼの胸はしめつけられるようだった。
寂しい、と思わせてしまったことが申し訳なくて、それ以上に嬉しくて、そのことが後ろめたかった。
「ごめん、クロウ」
ヴィゼは手にしていたコップを地面に置き、深く頭を下げる。
クロウはぎょっとし、ヴィゼにつられるようにコップを置くと、おろおろと両手を彷徨わせる。
ヴィゼの気分を害してしまうかもしれない、怒らせてしまうかもしれない、と戦々恐々と考えていた彼女だったが、逆に謝罪されるとは思いもしなかったのだ。
「あ、あるじ……?」
「本当に、ごめん。やっぱり、もっとちゃんと早くに話しておくべきだった」
顔を上げ、ヴィゼは真正面からクロウを見つめる。
「本当に噂は全くの嘘だし、クロウにそんな思いをさせることはもうしない。絶対に」
「あるじ……」
ヴィゼの真摯な誓いに、クロウの瞳が戸惑うように揺れた。
行き場を失ったようなその両方の手のひらを、ヴィゼはそっと包み込む。
「クロウ、僕も、君に同じような噂があったら、同じように思う。だから、クロウは、駄目なんかじゃないんだ」
ヴィゼのその手の温度に、その声の熱に、クロウの中の何かが溶け出すようだった。
クロウはぐっと歯を噛みしめて、溶け出したものが出てくるのを抑える。
抑えきって、クロウは微笑んだ。
「……それなら、あるじも、駄目じゃないな」
「いや、僕は、ダメダメだと思うけど」
クロウの論は間違っていない。
しかしヴィゼはつい、言い返した。
「それならわたしも、ダメダメだ」
「クロウは駄目じゃないってば」
「それならやっぱり、あるじも駄目じゃない」
そんな言い合いを続けて、二人は気付けば声に出して笑っていた。
「……それじゃあ、僕たち、ダメダメだけど、駄目じゃない、ってことだね」
「ああ、そうだな」
「ずっと、そんな二人で、家族を続けていこうか」
「――うん」
ダメダメだけれど駄目ではない二人は、その約束と共に、もう一度笑顔を交わし合う。
やがてヴィゼは、唯一の家族の手を引いて、誘った。
「――クロウ、僕たちも踊ろうか?」
クロウは少し驚いたように、瞬いて。
「――うん!」
二つの影が、踊りの輪に加わった。
揺れる焚火の炎が、二人を赤く照らす。
その炎で顔の朱を誤魔化しながら、二人は思いのままステップを踏んだ。
繋いだ手を離したくなくて、ずっとこの時が続けば良いのにと想いを重ねながら。
くるくると、くるくると。
いつまでも、いつまでも。
二つの影は、その夜、離れることはなかったのだった。
第2部 了
第3部へ続く




