30 黒竜と友人
サステナの言葉に、クロウは小首を傾げた。
「礼?」
「はい。クロウ様のおかげで、お嬢様は無事に帰ってこられました。それに、クロウ様には随分励ましていただいたようで、クロウ様のことを話すお嬢様ときたら……」
光を受けた水面が輝くように瞳を輝かせていたエテレインを脳裏に浮かべ、サステナはつい声に出して笑う。
それに、クロウは居心地悪げに身じろぎした。
「わたしは……レイン殿に無茶を強いた側だ。むしろ、謝らなければならないと思っていた」
「謝罪など……。私どもは本心からクロウ様に、皆様に、感謝しております。お嬢様はずっと塞いでおられました……。ここに来て、お嬢様は救われたのです。そして、私も」
「その……そう言ってもらえると、こちらとしても、とても、有り難い」
サステナにも心労をかけてしまった、とクロウは後ろめたさを払拭しきれなかったが、かといって感謝の気持ちを突っぱねられもしない。
ぎこちなく、サステナからの感謝を受け取った。
「それに、お詫びをするというならこちらの方です」
はて、とまた首を傾げるクロウに、申し訳なさそうにサステナは続ける。
「私どもはクロウ様を探るように言われて参りました。その事実に、気分を害されたことでしょう。それなのに、クロウ様は隔てなく接してくださいました。本当に……どう謝罪すればよいのか」
「気にしないでほしい。その、主人から言いつかったことに対して、簡単に首を振ることなどできないだろう」
しかもその主人が侯爵家の元当主であるならば、一介の侍女がその命に逆うというのは、ひどく難しいことだろう。
クロウは権力とか階級というものには疎い方だが、その想像はできた。
「……ありがとうございます。そのように言っていただけて、これ以上のことはございません。大旦那様には、クロウ様への信頼を最大限報告いたします」
「う、うん」
そこまで張り切って報告しなくていい、とクロウは遠慮したかったが、悪いことを言われるよりはずっと良いので、頷くしかない。
とはいえ、何だかんだとクロウは安心した。
この様子なら、クロウの不審点に関してサステナは気付いていないか、少し怪しく思うことがあっても黙っていてくれそうである。
昨日、<影>を身代わりに本拠地に置いていったのも、リスキーではあったのだ。
ただ、クロウのアビリティは通常の戦士たちにとっても常識の範囲外で、戦士でないサステナであれば尚更だ。サステナは<影>について、<ブラックボックス>がまた何かとんでもないことをやってのけたのだと誤解してくれていた。
ヴィゼの二つ名は、どんなに奇跡のようなことを起こしても、相手に<ブラックボックス>だからと思考停止をさせる、なかなかに都合の良いものだった。
そうしてクロウはサステナから感謝と謝罪と水差しを受け取り、代わりに皿洗いを頼んで、二階へ上がる。
部屋のドアをノックすればすぐに返事があって、入室すれば、サステナが戻ってきたとばかり思ったエテレインが、クロウを見て驚きに瞬いた。
「クロウさま」
「すまない、夜遅くに。調子はどうだ?」
「疲れの方は大分良くなりましたけれど……」
返して、クロウの手に水差しが握られているのに、不思議そうに首を傾げる。
「侍女殿から預かってきた」
「ありがとうございます」
クロウは水差しをエテレインの枕元に置く。
エテレインが上体を起こそうとするのを、クロウは制した。
「すぐに出ていくから、そのままで」
「そう、ですか? それでは、お言葉に甘えます」
少し動いただけで顔を顰めてしまったエテレインは、有り難く横たわったまま、クロウを見上げる。
クロウはとても真面目な顔で、エテレインを見つめていた。
「レイン殿。その――昨日は、すま」
「謝らないでください、クロウさま」
すまなかった、と言おうとしたクロウの言葉は、エテレインの素早い台詞に遮られる。
「実は今朝早く、ヴィゼさまも謝罪に来られました。ですが、困ります。わたくしは謝罪される理由を持ちませんから」
「あるじも?」
「はい。あ、ですが、安心してくださいね。その時はサステナもいて、二人きりではありませんでしたから」
「……レイン殿」
クロウは少し赤くなって、エテレインを睨んだ。
エテレインは笑って、続ける。
「むしろわたくしの方こそ、皆さまに、クロウさまに、お礼を言わなければと思っていました。寝たままの格好で申し訳ないのですが、お礼をさせてください。本当に、ありがとうございました」
「レイン殿……」
「アディーユに会うことが叶ったのは、皆さまのおかげです。それに、クロウさまには、たくさんの勇気をいただきました。だからどうか、謝罪など、なさらないでください」
穏やかに微笑むエテレインに、クロウは戸惑いの表情を浮かべる。
「わたしはなにか、そんな風に言われるほどのことをしたか……?」
「ええ。わたくし、クロウさまに助けられてばかりでした。クロウさまがいなければ、森に行く決心などつかなかったでしょう。クロウさまの存在が、ずっとわたくしを支えていてくださったのです」
それは、森を抜け出せた今でもそうだった。
クロウの示してくれた思いが、言葉が、エテレインを支える大きな一つとなっている。
だがそうと知らぬクロウは、首を傾け、生真面目にこう返すのだった。
「そう、だろうか。レイン殿は……護衛殿を信じ、とても大切に思っている。その思いが、困難を乗り越えさせたのだと思う。最終的に願いを叶えることができたのは、レイン殿の強さ故だ。わたしも、少し力を貸すことくらいはできていたと思うが……」
「クロウさま……」
エテレインは熱く込み上げてくるものを、ぐっと堪えた。
「クロウさまは、無自覚タラシですのね」
「むじ……?」
意味を掴み損ねたクロウに、エテレインは何とか笑みを保つ。
「クロウさまを勧誘したくなりました。ヴィゼさまのことさえなければ、わたくしの護衛になりませんかとお頼みしますのに」
「え……!」
「わたくし、本気です。ヴィゼさまに愛想をつかしたら、その時はどうかわたくしのところに来てください」
「レイン殿!?」
クロウはぎょっとして、固まった。
本気です、とエテレインは言うが、冗談だとしか思えない。
クロウはどう返したものか困り果てた。
それがあまりにあからさまなので、エテレインはむしろおかしくなってしまう。
「ふふ、あまり困らないでください。ただ、わたくしの誘いを忘れないでくださると嬉しいです。将来の選択肢の一つにしてくだされば」
「う……うん」
クロウがヴィゼから離れるなどということはあり得なかったが、傷心のエテレインをさらに傷つけるようなことは、たとえ彼女の言が冗談であっても言えない。
何とか頷いたクロウに、エテレインは悪戯っぽく言う。
「クロウさま、わたくしを振った謝罪なら受け付けますよ?」
「レイン殿……」
やはりからかわれているのか、とクロウは恨めしげにエテレインを見やった。
エテレインは何やら楽しそうである。
アディーユとのことが、最善の結果ではないにしろ一段落して、相当気が緩んでいるのかもしれない、とクロウは思った。
もしくは、つらすぎる別れの痛みを紛らすために、明るく振る舞っているのか……。
「いえ――ちょっと待ってください」
クロウの視線の先、何か思いついた様子で、エテレインはちょっと真面目な顔になった。
「クロウさま、やはり謝罪は結構です。実はわたくし、謝罪よりもっと叶えていただきたいことがあるのです」
「……なんだ?」
若干警戒気味に、クロウは問う。
「わたくし、クロウさまに呼び捨てにしてほしいです」
少し照れながら、けれど率直にエテレインは告げる。
まさかの願いに、クロウは言葉を失った。
「敬称が付くと余所余所しい感じがしますし、呼び捨ての方が、友だち、という感じがしますでしょう?」
「友だち……」
「お嫌ですか……?」
「い、いや、びっくりして……!」
エテレインは、侯爵令嬢である。
一方のクロウは、ただの戦士だ。その正体は、この世界にたった一頭しかいない黒竜ではあるのだが――。
エーデでの身分差を思い出せば、そんな風に呼んで良い関係になれるのかと思う。
けれど、クロウは嬉しかった。
エテレインがクロウを友人として見てくれたこと。
そんな関係を築きたいと思ってくれていることが。
「では……その、これからはレイン、と呼ばせてもらう」
「はい!」
満面の笑顔である。
何となく気恥ずかしくなって、クロウは咳ばらいをした。
「だが、その、友だち、というなら、レインも、呼び捨てにしてくれ」
「が……、がんばります」
逆に要求されるとは想定していなかったらしいエテレインは、立場を逆転させられて焦った。
「く、く、く、く……クロウ――さん」
「……まあ、頑張ってくれ。あまり期待しないでおく」
「そこは期待していてください!」
そんなやりとりをして二人で笑い合っていると、控えめなノックの音がした。
それに今の時刻を思い出して、二人ははっと口を閉じる。
「お嬢様、失礼します」
「はい……」
お小言が来るような気がして、エテレインは小さく返事をした。
しかし入ってきたサステナは、少々呆れた目をしているものの咎めることはなく、クロウに向かって言う。
「クロウ様、ヴィゼ様が浴室から出られています」
「ああ……すっかり忘れていた。ありがとう、侍女殿」
そう言えば、とクロウは頭を下げた。
「長居してしまってすまない」
「いえ、こちらこそ長く引き留めてしまって、すみません。それではお休みなさい、クロウ――さん」
「ああ、お休み、レイン」
微笑んだクロウは主従に見送られ、部屋を出る。
一日動き回って疲れていたはずなのに、弾むような気持ちで、クロウは階段を下りていったのだった。




