29 黒竜と企みの後
「うう……」
という唸り声が、森の中からしていた。
それを聞いた者がいたら、魔物かと警戒したかもしれない。
その声の主は、エテレインだった。
彼女は今、クロウの背の上で揺られているところである。
涙が落ち着いたはいいが、疲労困憊してすっかり立ち上がれなくなってしまったエテレインを、クロウが背負って帰っているのだ。
自分より小さなクロウに背負われていることを非常に気にして、エテレインは唸っているのだった。
「すみません……。はぅぅぅ……」
「何度も謝らなくてもわたしなら大丈夫だ」
実際、クロウの筋力は常人とは比べ物にならない。
エイバだと少々重く感じるだろうが、やろうと思えば片手で持ち上げられるくらいの力がある。
エテレインはしばらく奇声を上げ続けていたが、クロウの足取りがいっこうに衰えず結構なスピードを保ったままなので、申し訳ない気持ちが少しだけ軽くなってきた。
そうすると、思い出すのはアディーユのことばかりである。
「……あの、クロウさま」
「どうした?」
「わたくし……、酷な約束をさせてしまいましたよね……」
「今更だな」
うぐ、とエテレインは落ち込んだ。
自分勝手なのは分かっている。
けれど、だからと言って気持ちを偽ってさよならをするなんてできなかったのだ。
「だが、つらいのはレイン殿も同じだろう」
「わたくしは……いいんです。完全に、終わってしまうことの方が……わたくしには、つらい」
そうか、と頷いたクロウの顔は、エテレインには見えない。
けれどその声はとても優しく、エテレインには響いた。
「レイン殿」
「はい」
「わたしは、レイン殿の決めたことを、応援したいと思っている」
「クロウさま……」
「……あるじがずっとわたしを探してくれていた話を、少し、しただろう?」
恋心が知られてしまった日、レヴァーレたちに囲まれて、クロウは色々と吐かせられたのだった。
「わたしは、あるじが諦めずにいてくれたことが、すごく、すごく嬉しかった。だから、護衛殿もきっと……レイン殿に救われることが、あると思う」
クロウの言葉は、エテレインの心にじわりと沁みた。
エテレインはクロウの肩を掴む手に力を入れることで、返答に代える。
それからしばらく、クロウは黙って走り続け、エテレインも黙ってその背に揺られ続けた。
やがて木立が途切れたのを、エテレインは突然に感じ。
ふと空を見上げれば、森の閉じられた闇とは異なる、開けた空の闇に、星々が瞬いていた。
何時間か前まで厚く空を覆っていた雲は、どこかへ行ってしまったらしい。
星々の煌めきに、エテレインは無言で見入る。
何だか呼吸が楽になったような気がして、エテレインは深く息を吸った。
「……レイン殿、お迎えだ」
クロウが立ち止まる。
促され、エテレインはクロウの背から降りた。
足がふらつくが、すかさずクロウがそれを支える。
エテレインはランプをかざし、道の向こうを見ようと目を凝らしたが、その必要はなかった。
近付いてくる、複数の明かり。
その中の一つが、駆け足でやってくる。
その人影をエテレインが間違えることは、ありえなかった。
「お嬢様、お嬢様……!」
「サステナ……!」
<黒水晶>のメンバーが見守る前で、侍女は勢いよく主に抱き着いた。
本来ならそんな振る舞いは許されないことだと分かっていたが、そうせずにはいられなかったのだ。
エテレインが森へ入った、とサステナが聞いたのは、先ほどのこと。
本拠地に戻ったヴィゼが、彼女と仲間たちにそれを告げたのだ。
ヴィゼはクロウから連絡を受けて、二人が帰ってくる途中だと知っていた。
迎えに行こう、というヴィゼの言葉に否やが返ってくるわけもなく、こうして全員で出てきたのである。
「お嬢様、お怪我はありませんか!? 服に血が……」
サステナは抱擁を解くと、明かりの下でエテレインの体を確かめた。
逃げようとして転んでしまったせいもあり、エテレインは随分とボロボロになっている。
なんてこと、とますます蒼白になったサステナに、エテレインは微笑みかけた。
「大丈夫よ、サステナ。どれもわたくしのものではないわ。……アディーユが、わたくしを守ってくれたの」
「……お会いになったのですね」
「ええ。ごめんなさい、わたくし一人だけ……」
「気になさらないでください。それよりも……、その、お別れを?」
「……そうね。できたと思うわ。わたくし……」
胸を刺す痛みに、エテレインは目を閉じる。
「待っているから、って約束したのよ……」
治まっていたはずの涙だが、まだまだ枯れてはいないらしい。
自分でも泣きすぎていると分かっていたが、止められずにエテレインは滴が頬を伝い落ちていくのを感じた。
それには帰ってきたという安堵も多分に含まれていて、それを与えてくれたサステナに、今度はエテレインから抱き着く。
サステナは何も言わず、エテレインの背を撫でてくれた。
「……お嬢様?」
やがて、エテレインの体は力を失い、完全にサステナに寄り掛かった。
気絶するように、エテレインは眠りに落ちていたのだった。
翌日、エテレインは疲労と筋肉痛で寝込んだ。
サステナはそんなエテレインにずっとついていてくれたが、昨夜とは打って変わって、侍女の口から出るのは説教ばかりである。
大変な心配をかけてしまったことは分かっていたし、ベッドから逃げ出すこともできないので、エテレインは甘んじてサステナの叱責を受け止めた。
説教されたのは、エテレインだけではない。
ヴィゼとクロウも、他のメンバーからちくちくと言われていた。
その内容は、説教というより愚痴に近い。
彼らは、エテレインを危地へ向かわせたことに対してではなく、二人が仲間たちに内緒で事を運んだことに対して、憤慨していた。
前者に関しては、クロウとヴィゼへの信頼が、彼らに義憤を抱かせなかった。クロウがついていればエテレインは確実に無事に帰って来られるだろうし、もしアディーユに会えていなかったとしても、エテレインの気持ちに区切りをつけることはできる。だから、エテレインが納得しているならば良いのだ。
だが、<黒水晶>が引き受けた依頼であるのに二人だけがリスクを負おうとするとは、言語道断であった。
水臭いにもほどがある、と彼らが言うのは当然で、二人としても仲間を守りたかったという主張はあるのだが、黙って仲間の非難を浴びた。
だが、エテレインと違い、二人が仲間のそれを聞くのは、短い時間で済む。
収穫祭は、明日。
依頼も一段落したので、彼らも準備の手伝いに駆り出されたのだ。
特にヴィゼは主催者から修復の依頼を受けていた。
収穫祭の最中に物騒なことがあっては困るので、この時期は魔物や犯罪に対する警戒が強くなるのだ。
特に明日に祭を控えているので、近辺の綻びを決して見逃さないように、と強く頼まれていた。
クロウはその護衛として、ヴィゼにつき従った。
そんなヴィゼとクロウの帰りは、夜遅い時間となる。
他のメンバーの帰りも遅く、そんな仲間たちが既にベッドに入った後の、深夜。
二人は静かに玄関のドアを開けて、食堂でゼエンが用意してくれていた食事に手をつける。
その後、どちらが先に浴室を使うかで揉めるが――もちろん二人の場合、譲り合って争うのである――、この時はクロウが勝って、ヴィゼを食堂から追い出した。
待つ間にクロウが食器を洗っていると、サステナが姿を見せる。
サステナは軽く目を見張って、頭を下げた。
「クロウ様……。こんなに遅くまで、お疲れ様です」
「侍女殿こそ。どうしたんだ?」
「お嬢様の水差しに、新しい水をと思いまして……。洗い物でしたら、私がその後にでもやっておきますよ」
「いや、」
クロウは断りかけたが、ふとこう尋ねた。
「……レイン殿は、起きているのか?」
「ええ」
起きたエテレインが水差しをすっかり空にしてしまったので、こうしてやって来たのである。
「それなら……レイン殿と少し話をしても構わないか? 水差しはわたしが持っていく」
「分かりました。では、お願いいたします。洗い物は、済ませておきますね」
「すまない」
いいえ、とサステナは微笑んだ。
それから、こう続ける。
「……クロウ様には、お礼を申し上げなければならないと思っておりました」




