28 貴族の娘と護衛②
「レイン殿」
そんなエテレインに、クロウは気遣わしげに声をかける。
「喉が渇いているだろう。嫌でなければ、後ろの樹に生っている実を食べるといい」
エテレインはランプを持ち上げ、自分が凭れているさらに後ろの木々を照らした。
小さな赤い実をつける、背の低い樹が目に入る。
彼女の知らない果樹だった。
「……食べられるのですか?」
ついつい、疑うような声になる。
クロウは気分を害した風もなく答えた。
「少し酸っぱいが、水分を多く含んでいておいしいぞ」
背の高い木々にこうして囲まれていても育つ果樹は、森に入った戦士たちにとっても有り難いものであった。
ただし、十分ではないだろう日の光の代わりに一体何を栄養としているのか、に目をつぶらなければならないが。
「……」
食卓に出てきた果実しか食べたことのないエテレインは手を出すのを躊躇ったが、喉が渇いているのは確かである。
まさか準備万端に水筒を下げてくるわけにはいかなかったので、本拠地を出てから飲まず食わずなのだ。
おそるおそる、エテレインはその実を潰さないように掴んで、引っ張った。
「皮はむかなくて大丈夫。中に種があるから、それは吐き出すといい」
手に持った実をじっと睨んでいると、クロウが教えてくれる。
エテレインはその言葉に促され、コートの裾で軽く表面をこすってから、ぎゅっと目をつぶり、赤い実に噛りついた。
その途端、口の中に酸味が広がる。
けれどそれは過ぎたものではなく、瑞々しく美味しかった。
目を見張り、思わず種ごと呑みこんでしまう。
「……種、呑んじゃいました」
「一粒くらい大丈夫だろう。おいしかったか?」
「はい」
素直に首を縦に振りながら、エテレインはもう一つ実をもぎとる。
「何という樹なんですか?」
「それは――」
答えかけ、クロウはふっと口を噤んだ。
「レイン殿」
緊迫感の溢れる声。
それにエテレインは、疲れと慣れのために麻痺してしまっていた緊張と恐怖を取り戻した。
「来た」
端的な一言。
エテレインは体中の神経を研ぎ澄ませる。
何か、人でないものの荒い息遣いを感じた。
それは確実に、近付いてきている。
恐る恐る、エテレインは首を巡らせた。
距離はあるが背後で、赤いものがいくつも光っている。
ぎらぎらとしたそれは、獣の瞳だ。
エテレインは思わず、「ヒッ」と声を上げそうになった。
爛々とした凶暴な輝きは、どう考えてもエテレインを狙っている。
――逃げなくちゃ。
焦りのあまり、身を守るための魔術具があることなど、すっかり頭から抜け落ちている。
本能のままエテレインは逃げ出そうとしたが、体が硬直してしまっていた。
震える足が木の根に引っかかる。
そして。
――あ、
と思った時には、体勢を崩して派手に転んでしまっていた。
ランプが手を離れ、ころころと転がる。
それでも火は消えず、辺りをぼんやりと照らした。
――ど、どうしよう……!
痛みを感じる暇もない。
エテレインが何とか体を起こそうとする間に、魔物たちはすぐそこまで接近していた。
それなのに手足ががくがくとして、這うこともできない。
本当の恐怖に縛られた時、悲鳴さえ上げられないのだと、エテレインは知った。
這いつくばったまま、エテレインは自身を狙う魔物の姿を見上げる。
暗闇に慣れたエテレインの目に映るのは、森の闇に同化するような黒い毛皮の持ち主。
犬にも似た容貌の彼らは、昨日アディーユがその一群れを全滅させた、ヘルハウンドである。
その体長はエテレインの身長より少し大きいくらいであるが、エテレインにはもっと大きく見えた。
鋭い牙を剥き出しにして唸るその獣が、十頭。
いずれも獰猛で凶悪な顔つきで、いっそ意識を手放してしまいたいくらいだった。
その中の一頭が、地を蹴り、落ち葉を舞わせ、木立の間からエテレインに襲い掛かってくる。
――殺される――
瞬きもできず、エテレインはその鋭い爪が迫り来るのを見ていた。
そして、生温かく、生臭い、獣の息を感じた、次の瞬間。
エテレインに喰らいつこうとした一頭が、突然に上半身と下半身とに分かれた。
胴で真っ二つに断ち切られたのだ。
二つになった体は、どう、と鮮血を撒き散らし地に落ちる。
しかしエテレインはその血を浴びたりはしなかった。
彼女は背後に庇われていたのだ。
エテレインの剣であり盾――アディーユが、彼女を守っていた。
「アディーユ――」
エテレインは、小さく唇を動かして呼ぶ。
――来てくれた……。
そう、海のような瞳を揺らしたエテレインの目前、アディーユは次々に襲い掛かってくる残りの魔物を一撃で仕留めていく。
昨日とは異なり、アディーユは殺気と怒気を撒き散らしていた。
二本の剣を操る動きもいささか乱暴である。
それでも見事なものだ、と成り行きを見守るクロウは思った。
彼女がやるように、クロウがやるように、一斬で魔物の体を両断するというのは、普通の戦士には到底無理なことである。
十頭もいる相手に対し一人で立ち向かうことも、あり得ない。
しかしアディーユは、あっと言う間に十頭の死体をつくりあげてしまった。
返り血に染まったアディーユは、剣についた血を払い鞘にしまう。
唇を固く引き結んだまま、エテレインの方を見ようともせず、彼女は遠ざかる方へ足を踏み出した。
何も言わず行ってしまうつもりなのだということは明白で、エテレインは咄嗟に引き留める。
「アディーユ、待って! 行かないで!」
それでもアディーユは止まってくれない。
エテレインは必死の思いで、いまだ自由にならない体を引きずった。
「お願い、行かないで……!」
アディーユは苦悶の表情で足を止めた。
なお逡巡を見せる彼女に、そっと近付くのはクロウだ。
「――少しだけでも、話をしてあげてほしい」
アディーユは突然姿を見せたクロウに警戒を隠さなかったが、クロウは気にせず続ける。
「あなたのために、危険と分かっていてここまで来たんだ。彼女は報われるべきだ」
「……っ」
アディーユはぐっと唇を噛み締める。
長い葛藤の末、彼女は素早く身を翻した。
今にも魔物の死体に向かって突っ込んでいきそうなエテレインを止める。
戻って目の前に膝をついた彼女に、エテレインはほっと表情を和らげた。
「……ありがとう、アディーユ」
「お嬢様――」
アディーユは散々躊躇った後、その手でエテレインが体を起こすのを助けた。
エテレインに汚れた血がつくことを厭い、アディーユはすぐに手を引こうとする。
しかしエテレインは、細かく震える手でその手を握りしめた。
儚げな力であるからこそ余計に、アディーユは振りほどけなくなる。
「アディーユ……」
話したいことはたくさんあったはずなのに、言葉がなかなか出て来ず、エテレインはもどかしく思った。
ただ、素直な気持ちだけが、迸るように唇から漏れる。
「会いたかった……。会いたかったの……」
「お嬢様――私は……」
苦痛を堪えるような声だった。
「私は、お嬢様にお会いすることが、恐ろしゅうございました……」
まるで懺悔するかのように、アディーユは告白する。
エテレインは顔を強張らせ、姉のような人の言葉を聞いた。
「お嬢様が行くなとおっしゃられたら、私はその言葉に従ってしまう。それが分かりきっていたからです。ですが、夫を奪われた憎しみが決して消えないことも、分かっておりました。いつか私を留めたお嬢様を恨むことすらあるかもしれない。そのことが、私には恐ろしかった……」
「アディーユ……」
エテレインは顔を歪ませた。
「ずるいわ……。そんな風に言われたら、戻りなさいなんて、言えなくなってしまう……」
「はい。どうか、おっしゃらないでください。私は思いを同じくするものと約束しました。この命ある限り、魔物を殺し続けると。その約束を、違えたくないのでございます」
「そんな……」
「私のようなものを側に置いてくださり、その恩を忘れ離れた私をいまだ大切にしてくださること、感謝に堪えません。ですがそれは、御為にならぬことです。どうか、私のことは最初からなかったものとお思いください」
「そんなの……無理よ。無理だったから、来たのだもの」
エテレインはひたとアディーユを見つめた。
「けれど……、アディーユ、あなたの思いは分かったわ。今あなたを引き留めることはしません」
アディーユはそれに、心底ほっとしたようだった。
それがエテレインを大事に思うからこそだと改めて分かって、エテレインは複雑な気持ちになる。
――だけど、それで潔く引くほど、わたくしは物分かりが良くはないわ。それはアディーユも分かっているはず……。
「その代わり、わたくしはいつまでも待つことにします」
「お嬢様……!」
アディーユの顔が引きつった。
泣きそうな笑みで、エテレインは続ける。
「わたくしもずるいのよ、アディーユ。これであなたは簡単には死ねなくなったでしょう?」
「いけません、お嬢様……!」
「アディーユは……、ずっとわたくしの側にいて、わたくしを守ってくれたわね。そのことを、本当に感謝しているの。あなたはわたくしにとって、本当に大切な人なのよ。だから失いたくないの」
「お嬢様――、そのような言葉、私には過分でございます……」
アディーユは狼狽えていた。
しかし、アディーユの抵抗にもエテレインの心は揺らがない。
「絶対に帰ってきて。わたくしのところへ」
「……お嬢様、」
「このようなことを言うわたくしを、許さなくても構わないわ。戦いの中で……いつか、忘れてしまっても。それでもわたくしは、待ち続けます」
凛とした眼差しはそらされることなく、アディーユにはそれがとても眩しかった。
最早彼女の身は、エテレインと共にあった時のものと異なる。
それをエテレインに告げれば、諦めてくれるだろうか。
いや、おそらく……それでもエテレインは引かないだろう。
そんな主だからこそ、守りたいと願い、戦い続けてきたのだから。
アディーユは観念し、一度目を閉じて、再びエテレインを見つめる。
暗闇の中でも輝くような、己の主を……。
「お嬢様――かしこまりました」
とうとう、アディーユはそう口にした。
首を垂れながら、エテレインに己の言葉を返されたことに気付いた彼女は苦笑を浮かべる。
「私に出来得る限り、お嬢様の望むとおりにいたします」
その誓いは、遠くない未来、嘘になる。
だから約束などしてはいけないと分かっていた。
だが、身を危険に晒してまでやってきたエテレインを、心無い言葉で完全に拒絶することも、できなかったのだ。
アディーユにとっても、エテレインはかけがえのない、大事な大事な主君であるから。
「それまで、どうか息災でお過ごしください。こんな無茶は、二度となさりませんよう」
「ええ……ええ」
目の前がぼんやりと滲んできて、エテレインは瞬きをする。
いつまでもこのままではいられない。
もうこの手を離さなければならないのだ、と分かった。
死地に征く背を、見送らなければならないのだ……。
「――エテレイン様」
優しく呼ばれた時、ぽろりとエテレインの目から涙が零れ落ちた。
「有難うございました。エテレイン様の幸せを、どこにいましても、いつまでも願っております」
「わたくしも……っ!」
アディーユが微笑む気配がした。
そして、そっと、その手は引き抜かれてしまう。
エテレインはその手を、彼女の姿を、必死に目だけでも追いかけようとするが、涙のせいですぐに見えなくなってしまった。
手のひらに残された、その人の温度も、あまりにもあっけなく、消えてしまって。
「アディーユ……、アディーユ、」
暗闇と共に取り残され、エテレインはぼろぼろと涙を零した。
「……レイン殿」
そんなエテレインに、そうっとクロウは歩み寄る。
まるで迷子の子どものような姿をさらすエテレインに、胸が痛んだ。
「クロウさまぁ……」
舌足らずに呼んだエテレインは、すぐそこまで近付いてきたクロウに縋りつく。
クロウの手は労わるようにどこまでも優しくエテレインの頭を撫で、エテレインの涙の堰を決壊させた。
そして、森中に、悲痛な泣き声が響く――。




