27 貴族の娘と護衛①
「お嬢様、昼食をお持ちいたしました」
やはり開けてはくださらないか、と思いつつ、サステナはエテレインの部屋のドアをノックした。
朝、クロウは少しだけ食べてくれたと食器を下げてきてくれ、それを聞いた者たちを喜ばせたが、今のエテレインはどんな調子だろう。
サステナとしてはできればずっと側に付き添いたいのだが、当のエテレインに拒絶されてしまったから、どうしようもなかった。
「皆様と、食べきれないくらいお菓子を作ったんです。食欲がなければ甘いものだけでも構いませんから、少しでも召し上がりませんか」
そう告げて、しばらく待つ。
しかし、何の返答もない。
サステナは小さく溜め息を吐き、またトレーをドアの前に置いておこうと、身を屈めかけた。
その時である。
小さな、衣擦れの音。
それが近付いてきた、と思えば、続いて鍵を回す音が響き、そろりと部屋のドアが開く。
「……サステナ」
消えそうな声と共に、エテレインはドアの隙間から顔を出した。
「お嬢様――」
「ごめんなさい、わたくし、何度も来てもらったのに……」
「いいえ、そんな……!」
エテレインは睡眠不足で顔色が悪く、涙のせいで目元を腫らしていたが、感情は随分と落ち着いたようだ。
申し訳なさそうに、謝罪の言葉を口にした。
「昼食、いただきます。あまり、食べられないかもしれないけれど」
「無理なさらなくても良いのです。……食堂に、行かれますか?」
エテレインはふるふると首を振った。
「ごめんなさい。皆さんと食卓を囲むのは、まだ……。それにわたくし、酷い顔をしているでしょう?」
普段であれば辛辣に頷いたかもしれないサステナだが、この時はさすがに、はっきり肯定したりしなかった。
「部屋でいただくわ。食べ終わったら、ドアの前にトレーを出しておきます。それで、夕食まで、また、ひとりにしておいて欲しいの。それまでに……いつものわたくしに戻れるようにするから」
「お嬢様……」
「わがままばかりで、ごめんなさい」
「そんなこと、ございません。ですが、本当に無理なさらずとも良いのですよ」
「ありがとう……」
エテレインは儚げに微笑んだ。
内心の彼女は、罪悪感でいっぱいである。
こうして気遣ってくれるサステナには秘密で、これから大変な危険を冒すのだ。
しかし、決して言うわけにはいかない。
エテレインの望みのため、そしてサステナを巻き込まないために。
「お運びしますね」
サステナは昼食を部屋の中まで運び、さらに目元を冷やせるようタオルまで準備してから、失礼しますと出て行った。
ドアが完全にしまって、ボロは出さなかった、とエテレインは安堵してベッドに座り込む。
それから、パンに手を伸ばした。
クロウから、食べられるだけ食べるように言われている。
食欲はないけれど、食べなくてはならない。
腹が減っては、戦はできないのだから。
エテレインの部屋の前に、食事を終えたトレーが出される。
それが、エテレインの出発の準備が整ったという合図だった。
それを確認した<影>から教えられ、クロウは何気なく二階へ上がる。
昼食を終えた女性たちは午後も張りきって菓子を作り続けており、本拠地中に充満する甘い匂いにクロウの心はついつい浮き立っていたが、階段を上がる時には緊張で占められるようになっていた。
エテレインの部屋の前、クロウは少しだけ食べ残しがあるトレーを<影>の一人――フィオーリに託す。
彼女にはクロウがエテレインと森へ入る間、本拠地でクロウの身代わりを務めてもらわなければならなかった。
先日のように部屋に籠ってばかりいるわけにはいかないので、いかに<影>とてばれてしまう危険性は大きい。
しかし、フィオーリは一番そつなくクロウのように振る舞える<影>だった。
何時間も共に誰かと過ごすとなれば――特にレヴァーレの目を誤魔化せるか少々危ういが、彼女ならば何とかこなしてくれるだろう。
「後は頼む」
クロウの言葉に深く頷き、フィオーリは階段を下りていく。
クロウはそれから部屋のドアを小さくノックをして、返事を待たず小さく開けたドアの隙間から滑り込むように中に入った。
エテレインは硬い面持ちでクロウを迎える。
彼女は、持ってきた衣装の中で最も飾りやボリュームのないスカートに、毛皮の厚いコートを着込んで、さらにクロウから渡されていた動きやすそうな古いブーツを履いていた。
それを確認し、クロウは頷く。
「……服装は大丈夫そうだな。渡した魔術具も?」
「はい、ちゃんとつけています。使い方も、何度も復習しましたので」
エテレインは服の袖を捲った。
左右の手首に二つずつ、銀の腕輪をはめている。
ヴィゼの作った、防御と攻撃のための魔術具だ
クロウがいる以上使うことはないだろうが、保険として渡してあった。
「後はこれだけ、渡しておこう」
「ランプ、ですか」
影から取り出した、手持ちのキャンドルランプを、クロウはエテレインに手渡した。
「ランプであるのに間違いはないが、魔術具でもある。一度火をつければ多少の風や衝撃では消えないし、燃え尽きるまでの時間も長い」
「持って行って、アディーユに怪しまれないでしょうか?」
「あるじも迷っていたが、森の中は暗いから明かりがないと進めない。これくらいならこっそり持ち出したと考えられるし許容範囲だろう」
「……分かりました」
それがまるで命綱であるかのように、エテレインはランプをぎゅっと抱きしめた。
その手がかすかに震えているのにクロウは気付いたが、指摘せずただ静かに告げる。
「……それでは、行こう」
「はい」
青い瞳には、揺るがぬ覚悟があった。
まずは、誰にも知られないように本拠地を出なくてはならない。
他の留守番組の女性たちはキッチンに籠っているから気付かれない可能性の方が高かったが、クロウは姿を認識されにくくする魔術をエテレインに使った。
その後クロウが影へ潜ったところで、エテレインがそっと部屋を出、借りた鍵で部屋を施錠する。
エテレインが一人で部屋を出た、という念のための工作だ。
クロウの指示を受けたエテレインは、階段を下り、ヴィゼの部屋の前の出入口から外に出る。玄関ホールから外に出るには食堂の前を通っていかねばならないので、これも用心のためだった。
そして、外に出る直前で、クロウは影の中からエテレインの姿を隠す魔術を解く。
妙なところで姿を現せばアディーユに不審がられてしまうし、本拠地からエテレインが出て行った、と見せつけなければならないからだ。
――ちゃんと見ていてくれ……。
クロウはそう、願う。
「レイン殿、道は分かるな?」
「大丈夫です。行かないように言われたあの道ですよね」
エテレインは案内された街の道をよく覚えていた。
それがなくとも、<黒水晶>の本拠地から森はすぐだ。
彼女は迷わず道まで出、きょろきょろと辺りを見回した。
誰にも見咎められるわけにはいかないのだ。
幸い一般住民はこの辺りに寄りつかないし、森に向かう戦士の影もなかった。
誰かが通りかからない内にと、エテレインは小走りに駆け出す。
走ってしまえば、森の入口まで本当にすぐそこだ。
少し走っただけなのに息切れしてしまって、エテレインは木の幹に手を当てて体重を支えるようにすると、息が整うまで少し休憩した。
「……す、すみません、体力が、なくて」
「気にするな」
少し落ち着いてから、エテレインはぎこちない動作でランプに火を灯す。
時刻は昼過ぎ。
それなのに、確かにクロウの言う通り、森の中はここから見るだけでも薄暗くて恐ろしかった。
空が厚い雲に覆われているとはいえ、どうしてこんなに暗いのか。
「……雨が降っていないだけ、今日はまだいい」
恐々と森の奥を覗き込むようにすれば、クロウはエテレインの心の声を読み取ったように、影の中からそう言った。
心細さを感じていたエテレインはつい影を見つめてしまいそうになるが、ぐっと堪える。
「……そうですね」
なるべく唇を動かさないようにしながら、エテレインは同意した。
この重たい空が、濡れ鼠になるよりずっとマシな天候であるというのは確かだ。
しかし森の奥の暗闇からは今にも何か恐ろしいものが飛び出してきそうで、なかなか一歩が踏み出せない。
だが、行かなければ。
アディーユに、会うために。
「……では、行きます」
「ああ」
クロウは何も言わずに、エテレインが思い切るのを待ってくれた。
エテレインが歩を進めようとしたところで、クロウはその背を押すように告げる。
「レイン殿」
「はい」
「わたしも、守るから。絶対に目的を果たして、一緒に帰ろう」
「……はい」
エテレインは、不意にまた目の奥に熱を感じた。
クロウの言葉が、心強かった。
「わたしも」と、そう言ってくれたことが、嬉しかった。
「クロウさま……、ありがとう、ございます」
エテレインは歩き出す。
ランプの光が揺れ、地に落ちた葉がかさりと音を立てた。
そうして歩き出して、一体どれくらいの時間が経ったのだろう。
――足が、痛い……。体が、重い……。わたくし、どれくらい、進んできたのかしら……。
エテレインは時間の感覚を失っていた。
森の景色はどこまで行っても変わらず鬱蒼とするばかりで、自分がどこから来たのか、どこへ向かっているのかも分からない。
ただ、クロウが示してくれる通りに進むばかりだった。
幸いなのか否か、魔物にはまだ遭遇していない。
一度、知らない戦士たちのパーティと鉢合わせしそうにはなったが、クロウの指示で見つからずに済んだ。
「あるじたちが見つけた綻びを修復に来たんだな。ひとつあてが外れてしまったか……」
クロウの呟きに不安を覚えたが、影の中の護衛は頼もしく言う。
「大丈夫だ。危なそうな場所は他にもある」
それを大丈夫と言って良いのか、どうか。
目的のためには危険に飛び込まなければならないのだが、よく分からなくなったエテレインである。
それにしてもクロウは、影の中にいながらにしてどうしてこんなにも迷いなくエテレインを導けるのだろう。
可憐な少女に見えてもやはりクロウは戦士なのだな、とつくづく思い知るエテレインだった。
それは決して間違っていないのだが、まさかクロウの複数の<影>が偵察をしているのだとは思いも寄らないことである。
「……少し、休憩しよう」
「はい……」
声をかけられるなり、エテレインはしゃがみこんだ。
木の根が露出している部分に腰掛ける。
先ほどから頻繁に、クロウは休憩の時間をつくってくれていた。
それがとても有り難くも、申し訳ない。
皆が危険だと口を揃えるので、すぐにでも魔物に襲われるものと思っていたのだが、まさかこんなに歩き続けることになるとは。
――アディーユもこうやって、魔物を探しているのかしら……。
エテレインはぼんやりとランプの明かりを見つめた。
たったひとり暗闇の中を行く、アディーユの姿を炎の中に幻視する。
――寂しくないの? つらくはないの?
どうして独りで、いってしまうの……。
手を伸ばしてしまいそうになって、エテレインは手のひらを胸の前に抱えたのだった。




