26 黒竜と貴族の娘②
茫然とするエテレインに、クロウは続ける。
「レイン殿が森で魔物に囲まれるようなことになったら、護衛殿が現れるのではないか、とあるじは考えている。わたしも同意見だ」
「でも、アディーユは、どこかに行ってしまったと……」
「そうだ。彼女は去っていった。けれど、本当に遠くに行ってしまったかどうかは分からない。あるじがレイン殿のことを口にした時、ひどく動揺したそうだ。気になって、戻ってきているかもしれない」
「そんなこと……」
エテレインはその言葉に縋りつきたかった。
けれど、また期待をしても、裏切られるだけかもしれない。
アディーユが一度でもエテレインを拒絶したことに変わりはないのだ。
そのことが、エテレインに踏み出すことを躊躇わせた。
「もちろん、無理強いするつもりはない。これは提案だ。護衛殿はもうとっくに手の届かないところに行ってしまったかもしれないし、何より森は非常に危険だ。恐ろしい思いをしただけで終わる可能性は低くない」
「……」
「だけど、レイン殿が護衛殿に会いたい気持ちを捨てきれないなら、試してみる価値は十分にあると思う」
「わたくし……」
アディーユに、会いたい。
それができるなら、自分にできることなら、何でもしよう。
そう思うのに、エテレインは怖かった。
森ではなく、魔物ではなく。
アディーユに見捨てられた、と確信することになるかもしれない未来が。
だが、だからといって本当に諦めてしまうのか。
ここまで来て、サステナや<黒水晶>に迷惑をかけただけで終わるのか。
それで自分は、後悔しないだろうか。
やれることがあるのに、それをやりきらずに。
「……クロウさま」
しばらく考え込んでいたエテレインだが、答えは出ずに、助けを求めるようにクロウを見つめた。
「クロウさまなら、行きますか。もし、クロウさまが、わたくしと同じ立場だったとしたら……」
クロウはその問いを、真剣に思案した。
「そう、だな……。行くべきではない、と考えるかもしれない」
「それは……」
「侯爵家の娘が、そんな危険を冒すべきではないからだ。侍女殿にも迷惑をかけるだろう。何より護衛殿も危険に飛び込むことを喜ぶまい」
「そ、そう、です、よね……」
「ただ、後悔は絶対にするだろうが」
淡々と言うクロウの言葉が、エテレインに痛い。
クロウはさらに続けた。
「しかし、後悔するのはいずれにせよ同じだな。護衛殿に会えなかったら、森へ入ろうが入るまいが悲しく悔しい気持ちになるだろう。森に入っても護衛殿が現れなければ、行かなければ良かったと思うのだろうから」
その通りだ、とエテレインは俯く。
「すまない、あまり答えになっていなかったか」
「いえ……」
「その、わたしはどちらかというと護衛殿の立場の方が想像しやすいんだ。護衛殿が今どうしているかとか、レイン殿が森に入ったらどう動くかとか、そういうことの方が分かる、と思う」
「分かるのですか!?」
思わずエテレインは顔を上げて詰め寄った。
長く一緒にいたエテレインが、アディーユのことでこんなに悩んでいるというのに。
アディーユに会ったこともないクロウにそれが、分かるのか。
「……わたしが護衛殿の立場だったら、今もレイン殿の動向を見守っている。新しい護衛がいないことはとっくに調べがついて、レイン殿が王都に戻るのを見届けてようやく、安心して自分の目的に集中できるだろう。もしレイン殿が森に入ったりなどしたら、血相を変えてついていく。でも姿は見せられないから、しばらくはこっそりだ。けれどレイン殿が魔物に襲われたりなどしたら、躊躇ってはいられない。傷一つつけるのも許さず、魔物を斬るだろう」
クロウは我がことのようにそれを語った。
その言葉に、エテレインは息を呑む。
そうだ――アディーユはずっとずっと、そんな風にして自分を守ってくれていた。
そのことを、エテレインは今になって鮮明に思い出した。
力強い背中を。
振り返ったアディーユが、変わらないエテレインの姿に微笑する、その顔を……。
「クロウさま……わたくし、」
もう枯れていておかしくない涙が、また溢れてくる。
クロウはぎょっとしたように腰を浮かせ、おろおろとして部屋の中に見つけたタオルを手に取った。
「わたくし、アディーユのことを、信じられなくなっていました。置いていかれることが、つらくて、寂しくて、恐ろしくて――」
クロウから手渡されたタオルを目元に当てつつ、エテレインはその時半日ぶりに、微笑みらしきものを浮かべることができた。
「でも、わたくし、やっぱり信じたいです。アディーユはいつだってわたくしを守ってくれました。アディーユはメトルシア家を辞しましたが、わたくしの剣であることを止めるなどという表明は、していないのです。ですから、」
エテレインは、迷いなく続ける。
「絶対にアディーユはわたくしを守ります。――クロウさま、わたくし、森に行きます」
真っ直ぐな眼差し。
クロウはその意思を改めて確認するようなことはしなかった。
ただひとつ、力強く頷いた。
エテレインが森へ行くと決めたことを、ヴィゼはクロウの<影>から伝えられた。
現在、ヴィゼたちは森に入り、セーラに情報収集を頼んで、アディーユの目撃情報を集めている。
今のところ収穫らしい収穫はなく、セーラはしょんぼりとしていた。
そんなセーラを励ましつつ、ヴィゼたちは森の中へ進むのではなく、森の端を北へ北へと進んだ。
アディーユが飛び去った方角である。
ヴィゼがこの日己に課したことは、こうしてアディーユの後を追うこと。
そして、仲間たちとエテレインが万が一にも鉢合わせしないようにすることだ。
そのためにも密に連絡を取り合うことは必須で、ヴィゼはクロウの<影>に連絡役を頼んでいた。
概念送受を使って<影>からヴィゼに話しかける分には、仲間たちにその声を聞かれることもない。
しかし、長年行動を共にしてきたゼエンは何かしら感じるところがあったようだ。
ヴィゼが連絡を受けて一瞬だけ影に目を落としたのを見逃さず、いつものように穏やかな調子で尋ねてきた。
「リーダー、何か、良い策でも思いつきましたかな?」
「……っ、残念ながら、全くだけど」
ぎくり、としたのをヴィゼは何とか隠した。
決して嘘ではない、とヴィゼは心の中で言い訳する。
進行中の作戦は、決して「良い策」などではないからだ。
だからこそ、後で告白する時、非難は免れ得ないだろう。
ヴィゼは憂鬱な思いに囚われた。
「……<ブラックボックス>といえど、さすがに今回は難しいだろ。あの時みたいにできればいいんだろうが」
二人の会話を聞いて、先頭を歩くエイバが振り返る。
「かなり進行してた上、アディーユさんがそれを望んでるんじゃな……」
「うん――」
いつになく快活さのないエイバの声。
ヴィゼは眉を曇らせた。
「呪いが進むと、本当にあんなんになるんだな」
「……レヴァが一緒にいなかったのは、幸いだったかもね」
「そうだなぁ」
「今朝は大分落ち着いてたみたいだけど、大丈夫そう?」
「ま、俺がいるしな」
その返答には、いつもの調子があった。
惚気とも言えるが、ひどく適確な一言でもある。
ヴィゼは表情を動かさず、さらに問いかけた。
「それじゃあ、エイバは?」
ヴィゼの一言に、エイバは足を止めそうになる。
しかし結局歩みは止めずに、エイバは「うん、そうだな」と呟いた。
「しばらくレヴァといちゃいちゃするが、勘弁してくれ。ラフとの時間も増やしたいよな。嫌がられそうだが」
「……分かった」
ラーフリールとのくだりは悲哀が籠っている。
ヴィゼは少し同情した。
「そうだ、リーダー、ついでにクロで気分転換してもいいか?」
「それは止めてあげて」
同情をすっぱりやめて即答したヴィゼに、エイバは思わず笑いを零した。
ゼエンも、おかしいのを堪えるような、安心したような微笑みを見せる。
セーラはこてんと首を傾げながら、そんな男性陣の会話を聞いていた。




