20 修復士と森の捜索
空はとうに暗闇に包まれていた。
重たそうな雨雲が居座っていて、星は見えない。
しかし雨は休憩を続けているようだ。
障壁を展開する必要はなく、ヴィゼとエイバは本拠地へと濡れた道を歩いていた。
「明日も降りそうだな」
「そうだね」
魔術で灯された淡い明かりの中、エイバが小さく零したのに、ヴィゼは半ば上の空で頷く。
<黒水晶>の本拠地はキトルスの西端である。
森を出れば本拠地はすぐだ。
森がすぐ隣にあるため、大きな邸を格安で手に入れることができたのだが――それはともかく。
その本拠地にいる者の気配を、ヴィゼは何度も確認する。
既に本拠地には客人を含めた全員が揃っていた。
もちろん、その中にはクロウも含まれている。
森に入ってすぐ、クロウの気配が消え茫然自失となったヴィゼであったが、彼女の<影>の気配が入れ替わるように感じられて、気を取り直すのにそう時間はいらなかった。
クロウであれその<影>であれ、影の中に潜まれてしまうと、ヴィゼにその気配を感じ取ることはできない。
<影>が本拠地にいると分かるということは、その姿を現してくれているということ。
留守番組が部屋を訪れても心配をかけないように、というクロウの配慮だろう。
ヴィゼが本拠地のことを把握できる、というのも理由の一つであるはずだ。
しかしヴィゼが、クロウと<影>のほんのわずかな差異さえ分かるとは、クロウも思ってもみないことだろう。
ヴィゼもまだ、誰にも話していなかった。
最初はヴィゼも分からなかったのだが、徐々に区別がつくようになっていったのだ。
だが、そんなことがあり得るだろうかとヴィゼは自分を疑っていた。
クロウの<影>は、自律しているとはいえ彼女のコピー。
異なる魔力の気配がするというのはあまりにも奇妙だ。
だがヴィゼは、もうクロウと<影>を間違えることなどほとんどない。
何かあるのだろうと思う。
けれどクロウも知らないことなのかもしれない。
気にはなるが、今はそれより、<影>を残してクロウが一体どこへ、どうして向かったのか、ということの方が、ヴィゼの中に蟠っていた。
真面目な彼女のことだから、きっと真面目な理由であるのだろう。
今朝のことを省みて、無理しない程度に修行し直そうなどと考えていそうだ……、とヴィゼは思う。
しかし例えばその通りだったとして、彼女の師である白竜のいない今、たったひとりなのだろうか。
それとも、誰か、別の……。
ヴィゼの考えは大体正解だったが、途中で「クロウ離れ」と何度も念じてそれ以上考えるのを止めた。
考えていると、足元が覚束なくなるようで、心が波立つようで、クロウの顔を見た時自分が何をしてしまうのか、分からないような気がした。
ヴィゼが悶々としている間に、本拠地は目の前になっている。
外は雨のせいもあり結構な冷え具合だったので、室内に入るとそれだけで随分暖かく感じた。
食堂からシチューの良い匂いがしていて、二人は誘われるようにそちらに向かう。
「ただいま」
「お帰りなさい、ですなぁ」
最後に帰ってきた二人を、ゼエンはとても穏やかに迎えてくれた。
テーブルの上に乗っていたセーラもぴょこぴょこと跳ねて、挨拶してくれる。
「あれ、他の皆は?」
「女性の皆さんは親睦を深めると仰って入浴しておられますなぁ」
「クロウも?」
「ええ」
ゼエンは笑みを深め、ヴィゼは妙な居心地の悪さを感じた。
「……御大の方は、どうだった?」
「こちらは収穫なし、でしたな。情報屋からも連絡はありません」
気を取り直してヴィゼが問いかけると、ゼエンは眉を曇らせる。
「セーラとレヴァは?」
『探している女のひとらしい目撃談はありませんでした……』
セーラもしゅんとして、励ますようにエイバはその背中を撫でてやった。
「そう落ち込むなって。こっちは一応、収穫アリだ。魔物の亡骸を見つけた。素材はそのまんまだったから、多分間違いねえだろ」
「やはり、森でしたか……」
「ま、狩場としちゃ最高の場所だよな」
それだけに危険が伴う。
たったひとりでいるだろうアディーユの身が案じられたが、最悪のことは努めて考えないようにして、彼らは常の調子を心掛けた。
「明日は御大やレヴァにも森に入ってもらいたいんだ」
「それが良さそうですなぁ」
「クロは?」
「体調を聞いてみてからになるけど、明日も護衛の方をお願いしようと思う。広い街の見張りを果たせるのはクロウだけだし、情報屋から連絡が来た時にすぐに動いてもらえるように、やっぱり一人は街に残っていないと――」
ヴィゼの言葉は最もなのだが、どこか言い訳がましく感じられ、ゼエンとエイバはさりげなく視線を交わした。
「セーラにも、明日森に一緒に来てもらいたいんだけど、大丈夫?」
『はい、もちろんです!』
それから、とヴィゼは続けた。
躊躇いがちに言葉を切り、静かに尋ねる。
「……アディーユさん以外に、何か……見慣れないモノを見たとか、そういう話は聞かなかった?」
一体ヴィゼは何を考えそんなことを聞くのか。
戸惑うエイバたちの前で、セーラは不思議そうにそれを肯定したのである。
『そういえば……、そんなこと、言っていました』
「どんな風に?」
『私の言うような人間は見ていないけど……、これまで見たことのないような黒い生き物が魔物を殺していた、って……。滅多に境界を越えない幻獣かと思って、流してしまったんですが……』
「そう、だね……。その可能性の方が高いんだけど……」
歯切れ悪く言う、ヴィゼの顔は意識せず険しいものとなっていた。
己の感じたことが、考えたことが、全くの見当外れであればいいとヴィゼは願う。
しかし、いくつかの符号の一致は、そんな願いなど容易く粉々にしてしまいそうで、彼の中では嫌な予感ばかりがしていた。
「どういうことですかな、リーダー」
「そういやお前、森で魔物の死体調べてる時も変だったよな」
「気付いたことがあって……。明日、はっきりするかもしれない。そうしたらちゃんと言うよ。今はあまりに、不確定すぎる」
こんな風に言う時、ヴィゼは絶対それを自分の内に秘めて外に出さないのだ。
それが分かっていたから、エイバもゼエンも追究するのは止めておくことにした。
「……そんじゃ、ひとまず俺は着替えてくるぜ。このままじゃ御大のウマいメシに落ち着いてありつけねえ」
エイバは鎧を着けたままだった。
ヴィゼも着替えることにしたが、彼の装備は仰々しいものではない。
すぐに終えて、自室から食堂へ戻ろうとしたところ、廊下の向こうからクロウが歩いてきた。
まだ少し濡れている髪を下ろしている彼女は朝よりずっと疲れているように見え、ヴィゼは眉を寄せる。
「あ、あるじ、お帰りなさい」
「……ただいま」
返しながら、ヴィゼはクロウの調子を読み取ろうと目を細めた。
全体として倦怠感を伝えるような雰囲気だが、顔色は悪くない。
湯上がりだからかむしろ頬は上気している。
しかしまだ具合が悪いのだろう(とヴィゼは思った)、その瞳は潤んでいて、どこか頼りなげで、そして、艶っぽくもあった。
――ああ、まずい。
ヴィゼはさりげなくクロウから目をそらす。
動揺していた。動悸が速くなっている。
湯上りのクロウのことは常から直視しないようにしているのに、うっかり凝視してしまった。
実のところ、ヴィゼはクロウを非常に意識しているのだ。
それを自覚する度に、エイバが余計なことばかり言うから、と他人のせいにするのだが、それだけでないことはよく分かっていた。
クロウは、こんなにも美しい。
それだけならば良かったのに、凛とした眼差しで、真っ直ぐヴィゼを見つめてくるのだ。
これ以上ないほどの尊敬の念をもって、慕わしげに。
そしてヴィゼのために、ひたむきに頑張ってくれるのだ。
それをただ漫然と受け取るほど、ヴィゼは無神経ではない。
意識するなという方が無理だった。
その上クロウは、ルキスなのだ。
ヴィゼが一等大事にしてきた黒竜……。
だが、ヴィゼはクロウに出会うまで、彼の黒竜がまさかこんな可憐で美しい少女の姿をしているとは夢にも思っていなかったのだ。
そもそも性別というものを気にしていなかった。
あの、どこまでも黒く、うっとりするほど美しい存在が、ただただ大切で、いつまでも側にいたかった。
それだけだった。
しかし、今はもうそれだけではいられない。
ヴィゼは、ルキスが、クロウが、若い女性として目の前に現れたということを、よく考えなければならなかった。
彼女の幸せのためにも。
だからこその“クロウ離れ”であるし、結婚に関する噂話をわざわざしたくないと思うのである。
ヴィゼは意識していることをクロウに覚られてはいけないと、固く己を戒めていた。
ヴィゼのこの想いは、彼女に対する裏切りではないか、と彼は考えてしまっていたのだ。
綺麗で純粋なだけの想いなら良かったのだろう。
けれどヴィゼとて男である。彼は己の劣情を認識していた。
それはおそらく、クロウの信じ切った眼差しを軽蔑へと変えるだろう。
それが、嫌だった。
もう一つ、ヴィゼの恐れる可能性がある。
ヴィゼの求めるものを知った時、クロウが己の心を殺してまでそれを叶えようとするのではないか、ということだ。
だから、クロウの一途さが、ヴィゼには貴く怖ろしく、彼をより慎重にさせるのだった。
「あるじ、今日は休みをありがとう」
そんなヴィゼの正面で、クロウはいつものごとく律儀にそう告げた。
そんな彼女の心臓も、なかなか大変な音を立てている。
先ほどレヴァーレたちの前でヴィゼへの想いを告白してしまった後、何故か浴室で始まった女子会でも根掘り葉掘り聞かれてしまい、いつもより余計にヴィゼの前で平然としているのは難しかった。
体を温めたからという理由だけではなく彼女は赤面していたのだが、ヴィゼはそれには当然ながら、気付けない。
「おかげで元気になった。明日からまた、頑張るから」
「……うん。元気になったなら、良かった。でも、無理はしないでね」
クロウは胸の前でぎゅっと拳を握っていた。
一生懸命で、真っ直ぐな眼差しが、ヴィゼを見上げる。
それに対し、昼間の不在の理由を問いただすことはできなかった。
噂についての弁明など、もってのほかだ。
ただひとつ、ヴィゼは分かりきっていたことを改めて確信する。
それは、目の前の存在を失うことは決してできない、ということだった。
翌日、重たそうな雲が垂れ込める中、<黒水晶>メンバーはヴィゼの指示通り行動を開始した。
即ち、ヴィゼ・エイバ・ゼエン・レヴァーレ・セーラは森へ向かい、クロウはラーフリールや客人たちと留守番しつつ、<影>を使った街の見張りについたのだ。
レヴァーレやエテレインのおかげで何とか精神をある程度立て直したクロウは、できれば自分も森に行きたいと思っていたが、いまだにヴィゼが心配顔なので大人しくしていることにした。
「<影>を一人、連れていってほしいが……」
ヴィゼたちが出かける前に、せめてと要望を告げてはみたが、却下されてしまった。
「それは掛け持ちしすぎだよ。今日は禁止」
ヴィゼたちの行き先がキトルスから離れた場所であったなら絶対食い下がっていたが、隣の森であれば多少離れていてもすぐに駆け付けられる。
ヴィゼに釘を刺され、クロウは渋々と引き下がった。
「……それに、もう一つだけ、クロウと<影>にお願いがあって」
「何だ?」
「街の内外で妙な魔力を察知したら……、僕に教えてほしい」
「魔力の持ち主を捕まえたりしなくてもいいのか?」
「……うん」
妙な魔力、とは漠然としていて困惑したが、ヴィゼもどう言ったものか困っているようだった。
ただ、ヴィゼは何か気がかりを抱いているらしい。
クロウは生真面目な顔で分かった、と頷いて、仲間たちを送り出したのだった。
留守番組のクロウたちに見送られ森に入ったヴィゼたちは、昨日魔物の亡骸を見つけた場所へ向かう。
いまだ死臭の漂うそこで、ヴィゼはセーラにアディーユの後を追えないか、木々に尋ねてもらった。
その間、彼は辺りに残された魔力の気配を確認する。
――微量だけど、やっぱりこの魔力は……。
ヴィゼが眉間の皺を深くしたところで、セーラは聞き込みの成果を皆に伝えた。
『皆さん、すみません……。女のひとはこの少し先でいなくなってしまった、そうです。それで、そこに見たことのない黒い魔物がいたそうで、もしかして……』
セーラの浮かべた悪い想像は、他の面々も容易に共有できてしまえるものだった。
まさか、と色をなくしたメンバーの中で、唯一顔色を変えず、けれど気難しい表情のまま、ヴィゼは告げる。
「いや……、多分、大丈夫だよ。セーラ、その場所まで案内してくれる?」
『は、はい!』
セーラがぴょんぴょんと跳ねていくのに、四人は続いた。
しばらく進んで、樹妖精は停止する。
『ここみたいです。もう一度、話を聞いてみます』
「うん、よろしく」
集中するセーラの傍ら、他のメンバーは辺りを調べた。
しかし、争いの跡等は見つからない。
「ヴィゼやん、どういうことや?」
大丈夫だ、と言ったヴィゼには何かしら考えていることがあるのだろう。
けれど、その質問にヴィゼは明確な答えを出さない。
「うん……。とりあえず、セーラを待ってから」
待つ時間は、そう長くなかった。
そもそも概念送受は発声による意思疎通よりずっと時間のいらないものなのだ。
『……やっぱり、話は同じです。女のひとはここで消えています。でも、戦闘があったわけではないようです。黒い魔物も、一瞬でどこかに行ってしまった、と言っています』
セーラの声は、どこか途方に暮れるようだった。
他のメンバーは顔を見合わせ、それからリーダーに視線が集まる。
「……分かった。決定的なものは何もないし、アディーユさんは無事でいると思う。このまま森の探索に入ろう」
ヴィゼ・エイバはこのまま北へ。ゼエン・レヴァーレ・セーラは南へ。
二手に分かれていくことをヴィゼは提案し、面々は頷いた。
「けど、一体ここで何が起きたんや? 植物たちが見たんは、なんやったん? ヴィゼやんには予想ついとるんやろ?」
「……予想、だからね。確信できたら、ちゃんと言うよ」
ヴィゼの返事は昨日と同じだった。
一体何をもったいぶっているのか、と思うが、頑固なところのある彼の口を割らせる時間はない。
付き合いの長いメンバーは諦めの視線を交わし、互いの健闘を祈って別れた。




