17 黒竜と恋の話①
「ヴィゼさんとレインお姉さんはけっこんするのですか」
ラーフリールが難しい顔で尋ねたのは、その午後のことだった。
雨が随分と小降りになったからと、おつかいに出かけた彼女が帰ってきてすぐのことである。
紅茶を片手に食堂の一席に腰掛け読書をしていたエテレインは、その質問に思わず茶を噴き出しそうになった。
エテレインもラーフリールと出かけたかったが、護衛もなしにうろついて何かあれば、責任を問われるのは<黒水晶>である。
サステナと共に大人しく留守番を続けていた。
そのサステナは、エテレインの隣で繕いものをしている。
その彼女も、目を丸くして答えを失っていた。
「ら、ラフちゃん、どうしてそんなこと!?」
全く根も葉もない、ということはないが、メトルシア家前当主の思惑をラーフリールが知るはずはない。
決闘騒動の時に彼女はまだ生まれていないし、当時のやりとりを知る者が今さらになってわざわざラーフリールに話すのも変な話である。
エテレインが動揺を抑えつつ問えば、少女は正直に答えてくれた。
「しりあいの人に聞かれたんです。レインお姉さんはけっこんのじゅんびをするためにここに来てるのかって」
「知り合いの人?」
「まちのみんなそういう話をしてるって言ってました。ヴィゼさんがけっこんするって」
――はぁぁぁ!?
と、エテレインは思わず淑女らしからぬ叫びを上げるところだった。
その醜態は晒さずに済んだが、唖然としたまま、口を閉じるのを忘れてしまう。
サステナの静かな指摘で唇を結ぶが、訳が分からない。
「ど、どうしてそんな、みんなが話すなんてことに……」
「ここに来る時少々目立っていましたし、ここ数日お嬢さまが街を歩き回っていたのを、そういう風に誤解されたのかもしれませんね。決闘騒動の時の会話を漏れ聞いた人が、覚えていたかもしれませんし」
「だからって、いくらなんでも……」
エテレインたちがここに滞在してまだ数日しか経っていないのに妙ではないか、とエテレインは思う。
彼女はヴィゼのここでの知名度をそこまで理解していないし、己の影響力への自覚も少々足りていないのだが、不審に思ったその内容は決して間違ったものではなかった。
「本当なんですか?」
「デタラメです!」
改めて問われ、エテレインは力いっぱい答えた。
「わたくしに結婚の予定はありません!」
「それは、貴族女性が拳を握った上胸を張って断言することではないのでは?」
「う……」
サステナの指摘にエテレインは胸を押さえた。
一方で、彼女の従姪は異なる意味で胸を押さえる。
ラーフリールはほっと、胸を撫で下ろしたのだった。
「よかったです……。クロウお姉さんがなくのはいやですもんね。レインお姉さんがなくのだって」
「ラフちゃん……」
なんて良い子なのだろう、とエテレインは感動してラーフリールを抱きしめかけたが、ふとあることが頭をよぎって動作を止めた。
――クロウさまが、泣く……?
ラーフリールの言葉に、違和感があったわけではない。
やはりクロウはヴィゼのことをそういう意味で特別に想っているのだ、とただただ納得するばかりだ。
ヴィゼやクロウと過ごす時間がそう多くないエテレインでも、そのことは薄々察せられたことだった。
しかしそれが確かなことで、ヴィゼとエテレインのことが噂になっているのならば。
それは、つまり。
エテレインは青くなって、己の侍女に聞いた。
「く、クロウさまの不調の原因……わたくしや、その噂のせいであったり……」
「……その可能性も、なくはないですね」
言われてサステナも、そのことに思い当たったらしい。気まずそうな表情になる。
「――わ、わたくし、クロウさまに、お話してきます! 万が一にも誤解されていたら……」
「ですがお嬢様、全く関係ないということも……。クロウ様が噂のことを知らないのでしたら、藪蛇かもしれませんよ?」
「それでも、ちゃんと説明しておくべきだと思うのです。クロウさまもアディーユを探すために尽力してくださいました。わたくしはそれに、仇で返したくありません」
決然と、エテレインは告げた。
ヴィゼよりも余程、肝が据わっている。
「ラフちゃん、クロウさまの部屋を教えてもらえますか?」
「はい」
ラーフリールにもエテレインの気持ちは伝わった。
彼女は買ってきたものをサステナに預けると、エテレインを引き連れてクロウの部屋の前、ドアをノックする。
勢いのまま来てしまったが、さてどこから話したものだろうと考えつつ、エテレインはそれを見守った。
クロウの心に踏み込むような内容だ。話の運び方によっては、余計にクロウを傷つけてしまうことになるかもしれない。
藪蛇と口にしたサステナの忠告を思い出し、エテレインは高まる緊張にぎゅっと胸の前で拳を握った。
「クロウお姉さん、ちょうしはどうですか?」
ラーフリールがそう声をかける。
クロウは昼食の誘いも断ったし、眠っているかもしれない。
出てきてくれるだろうか、という不安もあったが、ドアは静かに開かれた。
「……どうした?」
ドアの隙間から顔を覗かせたクロウは、エテレインまでそこにいることに無表情で首を傾ける。
何となくそのクロウに常と異なる印象を覚えたラーフリールだが、不調のせいだろうとあまり気にしなかった。
しかし彼女の感じた違和は正解で、この時部屋にいたクロウは、クロウの<影>の一人だった。
クロウの<影>については、エテレインはもちろんだがラーフリールも聞かされていない。
クロウがアビリティ持ちであり影に潜めるということは、魔物討伐に有用な能力ということで他クランの前でも隠さず使用しているが、それ以上のことは秘密と<黒水晶>は結論付けていた。
影に潜める上に同じ能力を持った十もの写し身を使えるとなれば、クロウが以前口にした通り、それこそ秘密は握り放題、暗殺等も容易く、周囲の警戒や疑心を招きかねない。
影に潜める、というだけならばまだ、頼もしい、で終わらせてくれるが、それ以上は排斥の憂き目を見ることになるかもしれない。
そういうわけで、クロウは仲間以外に<影>のことを悟られぬよう動いていた。
竜というクロウの正体すら知っているラーフリールには話しても良いのだが、きっかけがないまま今に至る。
エテレインは目の前のクロウをその<影>と知らず、緊張の面持ちで話しかけた。
「あの、クロウさま、お休みのところ申し訳ありません。少しお話をさせていただきたいのですが……」
<影>は一瞬困ったような表情を見せたが、真剣なエテレインの様子に断るのも躊躇われ、結局「……うん」と頷いた。
「食堂に行くか?」
「えっ、いえ、あの、できれば二人で」
これから話す内容を考えれば人数が多いのはクロウにとって良くないだろう、とエテレインは首を振る。
二人きりで話とは一体なんぞや、と<影>はますます戸惑ったが、ドアを大きく引いた。
「それじゃあ、この部屋でいいか?」
「は、はい! お邪魔します」
ぎくしゃくとエテレインはクロウの部屋へ足を踏み入れる。
それを見届けて、どこまでもしっかりものの少女は言った。
「わたしはしょくどうにもどります。なにかあったら、すぐに言ってくださいね」
「あ、ありがとうラフちゃん」
「……ありがとう、ラフ」
ラーフリールは二人に微笑むと、軽やかな足取りで廊下を戻っていった。
<影>はそれを見送って、静かにドアを閉める。
立ったままのエテレインに、部屋に一つあるイスを勧めると、自分はベッドの縁に腰掛けた。
――何だか、すごく、物が少ないですね……。
緊張を紛らすように部屋を見渡したエテレインは、そんな感想を抱く。
エテレインがいつも借りる部屋と面積はほとんど同じで、あまり広くはない。
そんなクロウの部屋には、備え付けの家具の他にほとんど物が見当たらなかった。
クローゼットの中にはレヴァーレと共に買い物をした衣類などが詰められているのではあるが、一見したところ、時折遊びに来るだけのエテレインの部屋とほとんど同じだ。
――まるでいつでも、いなくなれるようにしている、みたいな……。
自分自身の思考にドキリとして、エテレインは顔を上げた。
エテレインをじっと見つめているクロウの<影>と目が合い、今度は違う意味で動悸を跳ねさせる。
「それで、話というのは?」
「あ……はい。あの、……あの、」
いまだにどう切り出して良いものか、答えは出ていない。
しかし<影>の真っ直ぐに見つめてくる眼差しに、焦ったエテレインは結局そのままをずばりと口にしてしまった。
「クロウさまは、ヴィゼさまのことを、お好きなのですよね!」
しかも疑問ではなく、確認でもなく、断定だった。
口走った後で、やってしまったと内心打ちひしがれるエテレイン。
その目の前で、<影>は硬直している。
ままよ、とエテレインは続けてしまうことにした。
「だからあの……、言っておかなければと思って。わたくしと、ヴィゼさまの……その、関係を疑うような噂があるようなのですが、それは全くの誤解だと……」
そこまで言って、エテレインはクロウを窺った。
<影>は何とも返せず、黙ったままである。
沈黙の中で、これは本体に――クロウに来てもらわなければならないようだ、と<影>は判断していた。
これはクロウ本人が聞くべきことだ、と。
しかしそんな<影>の考えを量り得ないエテレインは、戦々恐々とする。
やがてすくっと<影>は立ち上がり、エテレインは肩を揺らした。
悪い方向で覚悟を決めたエテレインだが、<影>は真面目な表情でこう告げる。
「レイン殿、少し待っていてもらえるか」
「……え?」
「なるべくすぐ戻るから」
きょとんとしたエテレインのまともな返答を待たず、<影>はすぐに部屋を出た。
クロウを呼びに行く間、エテレインに気付かれないように他の<影>と入れ替わることはできるが、それで話が先に進んでしまっては困る。
そう考えて一度部屋を出た<影>だった。
彼女は廊下に出てから、<影>の一人を自分の代わりに呼び戻す。
休みをもらったにも関わらず、結局クロウは<影>を街に向かわせていたのだ。
呼び戻した<影>には、短い間の留守番を頼む。
本拠地にいるエテレインたちに何かあるとは考え難いが、念の為に護衛を一人は残しておくというのがクロウの考えだった。
そのために一人を本拠地に置き、<影>はクロウを呼ぶため、影に潜ったのである。




