14 修復士と噂
「どうも参るな、この雨には」
「ほんとにね」
本拠地を出、ヴィゼとエイバは西の森へと向かっていた。
今日から本格的に街の外を捜索することとなり、レヴァーレとセーラは東へ、ゼエンは南へとそれぞれ足を運んでいる。
ヴィゼたちも別行動をした方がわずかであれ効率は良いのだが、さすがに綻びの多発するこの森へ一人で入るのは危険なので、二人で行動することとなった。
アディーユは魔物を倒して回っているため、それを追いかける側も魔物に遭遇する率は高い。西の森ほどではないにしろレヴァーレやゼエンにも危険は大きいが、二人とも万が一に備え転移魔術を込めた魔術具を持っているので、いざとなれば安全な本拠地まで一瞬で逃げられる。
とはいえ、二人が魔術具を使うことはほぼないだろうと、それを作成したヴィゼは考えていた。
レヴァーレの防御は鉄壁だ。戦闘要員がついていない彼女は普段に増して警戒しているだろうし、余程の相手でなければそんな彼女の障壁を破壊することはできない。
さらにセーラが植物に頼み相手を足止めしてくれれば、倒すことはできずとも逃走は容易である。
ゼエンはあまり魔力量が多くないためレヴァーレのように障壁を張り続けることはできないが、相当な大群に囲まれない限りはどうとでもできてしまえる実力がある。
ゼエンの二つ名は、冗談なのかよく分からない<天の恵み>だけではない。
彼は<鮮血の餓狼>という、物騒な名も持ち合わせていた。
その意は「血に飢えた狼」であろうか、それとも「血に濡れた狼」であろうか。
いずれにせよ、そう呼ばれるだけの活躍――というには少々戦慄を覚えそうな二つ名である――をゼエンはしてきたのだ。
普段は全くそんな二つ名を思い出させることはないし、討伐の時でさえ淡々として見えるが、ヴィゼは長い時間を共に過ごしてきてその実力をよく知っていた。
魔術具を渡したのは余計なお世話というものだったかもしれない、とヴィゼは思う。
もちろん二人とも、礼を言って受け取ってくれたのではあるが。
それから。
それから――。
クロウは今、どうしているだろう?
仲間のこと、依頼のことをつらつらと考えていたヴィゼだが、最終的にクロウの姿を脳裏に描いた。
出かける前のどこか心細げなクロウの顔を思い出しては後ろ髪を引かれてしまって、なるべく考えないようにしていたのに。
一度考え出してしまっては、ヴィゼの心を占めるのは彼女だけになる。
クロウの顔色はずっと悪いままだった。
風邪ではないようだが、まさか幻獣だけがかかる病か何かでは、とまで心配してしまう。
本当は、ずっと側で付き添いたいくらいだった。
けれど、クロウは捜索を休むことを心苦しく思っていたから。
ヴィゼまで依頼を放り出しては、クロウは余計に気に病むだろう。
だからヴィゼはこうして、心配でいっぱいになりながらも依頼のために森へと足を踏み入れている。
――こんな風で、“クロウ離れ”、なんて、できるのかな……。
“クロウ離れ”。
ヴィゼは絶賛挑戦中であったが、できそうにない気もしたし、もしできるとしても相当な年月がかかりそうだった。
彼の目標とするところは、クロウを縛りすぎない。
それだけのことではあるのだが。
以前よりクロウを束縛したがる自分をどうにかしなければならない、と考えていたヴィゼは、エテレインの訪れが良い契機になるのでは、と思いついていた。
護衛不在のエテレインが滞在する間、クロウにその護衛をしてもらい、少しだけでもクロウの不在に慣れるのだ、と。
今のところ、自分が変われたなどとは全く思えないけれども。
だがこれは、クロウにとっても良い機会のはずなのだ。
ヴィゼと共に他クランの戦士たちと関わっているクロウだが、<黒水晶>のメンバーと接する時と違い、かなり人見知りしているようである。
エテレインの護衛をすることで彼女と親しくなり、少しでも他人と接することに慣れれば、クロウはもっと、このエーデの世界で生きやすくなる。
クロウはおおよそ百年ほどの時を生きてきた、らしい。
この一月の間にヴィゼたちは少しずつ互いの話をしていて、年齢の話もその一つ。
クロウにはナーエでの月日の感覚はあまりないようなのだが、白竜の言によるとそのくらいの年齢だろうということだった。
寿命の長い竜族での百歳は、人の年齢に換算すれば大体二十歳足らずというところ。
そう考えればエテレインと年齢も同じで、友人として関わるにはちょうど良いのではないか。
エテレインは一見儚そうな美女だが、なかなか肝が据わっているし、相手を思いやる心をちゃんと持っている。
メトルシア家の令嬢でなければもっと良かったが、エテレインが味方になってくれれば元侯爵もクロウへの手出しは控えるだろう。
そうやってヴィゼの思惑通りになったなら、クロウは今より外へ目を向けるようになり、ヴィゼもクロウ離れをせずにはいられなくなる。
――なんて、エゴ。なんて、自己満足。
クロウに何も告げず、エテレインを利用するようなことをして。
それでもヴィゼは、そうするべきだと信じて、采配をした。
だがやはり、間違っていただろうか。
だからクロウは――。
「ヴィゼ、眉間に峡谷ができてるぜ」
「……そ、う?」
エイバに声をかけられ、ヴィゼははっと気を引き締め直した。
既に二人は森に入っている。
体が濡れないようにはしているものの、雨で視界は悪く、音も聞き取りづらい。魔物が近付いてもなかなか気付けないだろう。
そんな中で私的な考え事に集中しているのは自殺行為だった。
「クロのこと心配してたんだろ」
図星をつかれ、ヴィゼは苦笑する。
警戒しつつ歩を進めながら、エイバはそんなヴィゼに少々躊躇いつつ言った。
「なあヴィゼ、やっぱちゃんとクロに例の件話しといた方がいいと思うぞ」
「……それは、クロウの様子がおかしかったのは、あの噂を聞いたから、ってこと? だけど……」
「お前が言いたいことも分かる。けどな、たかが噂でも、人生の一大事に関する噂じゃねえか。他の人間の口から聞いたら、信じないでもショックはショックじゃねえの」
例の件、噂、とエイバが口にするのは、言うまでもない。
ヴィゼとエテレインが結婚を前提とした間柄である、という噂に関することだった。
あんなに分かりやすくヴィゼを主と慕っているクロウだ。
おそらくそれ以上の想いも抱えているだろう彼女がそれを聞いたとして、その衝撃はいかばかりか、とエイバは懸念を抱いているのだった。
一昨日の夜、彼やゼエンがヴィゼに苦言を呈したのも、その噂が広まっているのを知ったからだ。
クラン<抗世>のおかげで、噂は一昨日の夕方には街の結構な範囲にまで拡大していたのである。
<抗世>のメンバーには決闘騒動の目撃者が多い上、エテレインがキトルスにやってきてヴィゼと親しげに話していたのを目の前にしたばかり。
ついつい面白がって吹聴したのだろうが、それを聞いた他の者も、これまでとんと浮いた話のなかった<黒水晶>のリーダー・ヴィゼのその手の話に食いついた。
多くの者は信憑性は高くないと分かっているようだが、それでもなかなか楽しく盛り上がっているようである。
かくいうエイバも、少しくらいヴィゼを揶揄っていただろう。
クロウのことさえ、なければ。
クロウは、エテレインの力になりたい、と一途に思っているようだった。
それなのにそんな噂があると知れば、余計に傷つく。
エイバはそれを案じてヴィゼにきちんと話しておくべきではないか、と忠告したのだが、ヴィゼの返事は芳しくなかった。
たかが噂、それ以上になりようがないものをわざわざ改まって説明するのは、逆にクロウを戸惑わせてしまうのではないか、と言うのだ。
それに、ヴィゼが噂を迷惑がっていることを知れば、囃し立てる者や、噂の内容の片割れであるエテレインに悪感情を抱くことになるかもしれない、と。
それも間違いではないだろう。
話を切り出しにくいのも分かる。
けれどそれは建前だ、とエイバは断じた。
ヴィゼが自覚しているかは分からない。
だが、彼がクロウに告げないのは、彼女が噂について肯定的な反応を示すかもしれないことが、恐ろしいからだろう。
例えばクロウが、「レイン殿は美人だし、心根も良い。良いご縁ではないか」などとその本心はともかく言い出したりしたら、ヴィゼの精神的ダメージは大きすぎる。
ヴィゼは考えられる限りの可能性を考えて動く性質だから、無意識にでも悪いシナリオを描いて、噂についての弁明を避け、己を守っているのだ。
そして、もうひとつ。
これについてはヴィゼも自覚しているだろうが、おそらく彼は貴族との婚姻を否定するにしろ、口にもしたくないのだ。
クロウが来てからエイバも初めて知った事実であるが、ヴィゼの父親は相当腐った貴族だったらしい。
ヴィゼの慕う母親は、その腐敗貴族のために普通の生活を奪われ、殺された。
その後彼の心の支えとなった黒竜までも、悪辣なその男のせいで失って。
男は結局刑に処されたが、ヴィゼの中で怒りと憎しみはいまだ燻っている。
だからといってヴィゼはエテレインに悪感情を抱いているわけではないし、彼女を否定するわけではない。メトルシア家前当主に対してもむしろその政治的手腕を認めているようであるが、それでもおぞましいと感じるのだろう。
貴族と縁を結ぶなど、考えることも口にすることも耐え難いのだろう。
せめて噂が「エテレインが降嫁する」というものであればまだ良かったのかもしれない。
だが、元を辿れば前当主の言が発端で、彼はエテレインを手元に置き、さらにヴィゼを手に入れたい、という思惑を持つ。
過去父親の元で都合よく利用されたヴィゼが、さらに頑なになって噂を遠ざける理由だった。
――「たかが噂」って言うけど、全然「たかが」じゃねえんだよな……。
ヴィゼにとっても。
クロウにとっても。
今朝のことを、エイバは思い出す。
クロウはあの時、きっと見ていた。
ヴィゼとエテレインが並ぶ姿を。
そしてヴィゼは、クロウの異変に血相を変えて飛び出してきた……。
全く、やきもきさせられる二人だった。
だからエイバは重ねて言うのだ。
「それに、万が一だって、クロが誤解しちまう可能性だってあるんだぜ。お前それで本当にいいのか?」
「……!」
噂について釈明するのはどうにも気が進まないというヴィゼであったが、エイバのその指摘について己に問うことはしていなかったらしい。
いや、見ないふりをしていたのだろうか。
――何を足踏みしてんだかなぁ、うちのリーダーは。
クロウを誰よりも何よりも大切だと自覚しているだろうに。
執着を捨てきれないことを自覚しているだろうに。
頑なに一つの想いから目をそらす、その理由。
エイバはその一部を理解できるとも思ったし、きっと分からないこともあるだろうと認めた。
そんなエイバの前で、瞠目していたヴィゼは気まずげに視線をそらす。
そして、観念したように言った。
「……クロウの不調の原因はともかくとして、」
ヴィゼは動揺を誤魔化すように、眼鏡に手を伸ばす。
「タイミングがあれば、話してみる」
「おう」
ヴィゼとしては、クロウが噂話に動揺する、という考えは自惚れではないか、という気がしていた。
もしヴィゼが逆の立場であれば、慌てる。相当に慌てるだろうから、エイバの言うことも分かるのだ。
だが人と竜での感覚の違いもあるだろうし、やはり戸惑わせて終わってしまうだけのようにも思う。
――噂一つに翻弄されてるな……。
ヴィゼは小さく溜め息を吐いたが、ふと思いついて呟いていた。
「……もしかして、外堀を埋められてる?」
「ん?」
「いや、噂だけど、拡散するのが早すぎない?」
「あー、それは確かに、思ったな。でも、エテレインさんが街に姿を見せてたし、<抗世>のメンバーは街の馴染みだから、おかしいってほどでもないだろ?」
しかしヴィゼは難しい表情を崩さない。
エイバはヴィゼの懸念を読み取った。
「……まさか、前当主が?」
「その可能性もあるかもしれない」
レヴァーレが祖父に向ける警戒を、ヴィゼは決して否定したわけではなかった。
基本的には大丈夫だろうとは言ったが、これくらいのことならばエテレインにばれないだろうし、彼ならば知られないように上手くやってしまうだろう。
「潔白でも、ちょうどいいかもしれない。ちょっと焚き付けちゃおうかな」
そう言ったヴィゼは、薄く笑っていた。
その眼鏡が光ったような気がして、エイバは顔を引きつらせる。
どうやら前当主は、ヴィゼのストレスの捌け口にされてしまうようだった。
だがそれも自業自得である。
噂に対する疑惑の真偽はともかく、彼はエテレインとサステナに、クロウを調べさせようとした。
それが建前の命令でも、クロウに憂い顔をさせたことに間違いはない。
ヴィゼは意趣返しの方策を決めたようで黒い表情を隠しておらず、エイバは義理の祖父のダメージがあまり大きくならないよう、祈るくらいはしてやることにした。
その、祈りの最中である。
笑みをなくしたヴィゼが、立ち止まった。
「おいヴィゼ、どうした?」
「クロウの気配が……」
ヴィゼは来た道を振り返る。
<黒水晶>の本拠地がある方角を見つめ、彼は愕然と唇を動かした。
「消えた――?」




