05 黒の少女とケーキセット
ヴィゼはクロウに街を案内しながら、とあるカフェを目指した。
別れ際、「うちのオススメ」と言って、レヴァーレが耳打ちしていってくれたのである。
ヴィゼもここに住んで長く、辺りにはそれなりに詳しいが、有り難くレヴァーレの助言を受けることにした。一体どういう店をチョイスするべきかと頭を抱えてしまいそうだったからだ。
しかし――。
「うっ……」
店の前まで来て、ヴィゼは怯んだ。
洒落た外観を持つそのカフェのテラス席には、若い女性か、もしくはカップル客しかいないのである。
店の前に立てかけてある看板も小洒落ていて、そこに書かれたメニューには、ヴィゼにはよく分からない単語が混じっていたりする。
「え……、っと、ここ、レヴァのオススメの店、らしいんだけど……。クロウはこういうの、嫌いじゃない?」
「そうだな……この、ベリーづくしのケーキは美味しそうだ」
真顔でメニュー表を指して答えられた。
その瞳には、期待に輝く色がある。
違う店も見てみないか、という言葉はヴィゼの喉の奥に儚く消えた。
「……じゃあ、入ろうか……」
ヴィゼが店のドアを開けると、涼やかなベルの音が鳴り、店員がにこやかな笑顔でやって来た。
店員と型通りの会話をした後、店内の小さな二名用のテーブルに案内され、ヴィゼとクロウは向かい合って座る。
居心地悪くもぞもぞしながら、ヴィゼは自分にはサンドイッチとコーヒーを、クロウには先ほど彼女が示したケーキのセットを注文した。
――これ、知り合いに見られたらどう思われるかな……。
遠い目で、ヴィゼはすぐ隣の窓の外を見やる。
――兄妹、とかならいいけど……。
片や華奢な美少女、片や眼鏡の陰気な青年。誤解の余地しかないのでは、とヴィゼはいささか卑屈に考える。
変態、ロリコン、誘拐、犯罪、といういくつかの単語がヴィゼの脳内で踊った。
――恋人、には、……。
「……あるじ?」
「……え、あ、うん?」
反応が遅れたヴィゼに、クロウは気遣わしげな視線をくれる。
「あるじ、疲れが溜まっているのではないか? 早く帰って休んだ方が……」
「いや、大丈夫だよ。ごめん、ちょっと考えごとしてた」
「考えごと?」
「……大したことは、考えてないけどね。御大のごちそうが待ってるから食べ過ぎないようにしないとな、とか」
正直な内容は話せず、ヴィゼはそう誤魔化した。
「アップルパイを作ってくれるそうだ」
クロウはヴィゼの言葉を疑わず、目を輝かせて返してくれる。
「……甘いもの、好きなんだね」
「うん。菓子などというものを作り出すとは、全く人間とは侮れないものだと思う」
「大げさだなぁ」
大真面目に言うのが何だかおかしくて、ヴィゼは笑った。
そう他愛もない話をしていると、注文してきたものが運ばれてくる。
ふわふわしたスポンジに、たっぷりの白いクリームと、赤々とした瑞々しいベリーのコントラストに、クロウの瞳がきらきらと光ったように見えた。
すぐに食べ終わってしまうのはもったいないと、それを少しずつ口に運んで行く様は、大層可愛らしい。
――昔出会っていたなら、忘れない、と思うけど……。思い出せないんだよな……。
サンドイッチをあまり味わうことなく咀嚼しながら、ヴィゼは再び記憶を探る。
メンバーたちがこうしてヴィゼとクロウを二人きりにして送り出したのは、ヴィゼに思い出させようとしてのことだろう、と彼は考えていた。
一体いつクロウと出会い、何が二人の間に起きたのか。
直接クロウに聞けばすぐに分かることであろうが――、ヴィゼの口は重かった。
覚えていないという事実をまざまざとクロウに示すようであるし、先ほどクロウが言わなかった、ということも心に引っかかっている。
「またあるじに迷惑をかけてしまうかもしれない」
と、クロウは思い詰めた顔をした。
クロウはヴィゼに恩義を感じているが、その具体的な内容に関しては話したくないこともあるのではないか、と考えてしまうのだ。
一方で、何も分からないまま彼女に「あるじ」と呼ばれ続けて良いものか、と思う。
知らなければと、思い出さなければと、焦る。
ヴィゼがじっとクロウを見つめていると、いつの間にかクロウもヴィゼを見つめていた。
「あるじ……、食べるか?」
「――え?」
ヴィゼの眼差しを、クロウはどう勘違いしたのであろうか。
スプーンにケーキを掬われ目の前にずいと差し出されて、ヴィゼは硬直した。
「え、いや、そうじゃなくて……! いいよ、クロウが全部食べなよ、せっかくなんだから!」
「美味しかったから、あるじにも食べてもらいたいのだ」
あるじも甘いものが結構好きだろう、とクロウに言われ、ヴィゼは軽く目を見張る。
それは、その通りだったからだ。
反論できなかったヴィゼに、クロウはさらにスプーンを近付けてきた。
――これはもう、断れない。
ままよ、と思ってヴィゼはスプーンを口に含む。
スポンジからはしっかりと卵の味がして、生クリームは口の中でふわりと優しく溶けた。それに、ベリーの絶妙な酸味がマッチして、確かにとても美味しい。
「美味だろう?」
「そうだね……」
得意げに言って、クロウは残りを口に運び始める。
銀色のスプーンと、小さな赤い唇についつい目をやってしまって、ヴィゼは頭を抱えたくなった。
――これは、所謂……。
あれだ。
もうこれは、どこかから訴えられても反論できないかもしれない。
だが、あの宝石のような黒の瞳に真っ直ぐ見つめられて、どうやって首を振れば良かったのだろう。
――黒水晶――
ぎゅっと胸を掴まれるような思いで、ヴィゼは忘れ得ない真っ直ぐな黒色を脳裏に描いた。
クロウの瞳は、“あの子”と重なる。
そう思うのは、ヴィゼの願望なのだろうか。
そうでないのならば、クロウは、“あの子”なのではないか。
だが、そんな奇跡のようなことがあり得るだろうか。
――だって、“あの子”は――
溜め息を吐きたくなったのを覚られないよう、ヴィゼはコーヒーを口に含んだ。
少し冷めたそれを、ひどく苦く感じる。
そんなヴィゼの目の前で、クロウは満足そうな吐息を漏らした。
「……久々ということもあってか本当に美味しかった。レヴァには後で感謝しなければ」
感謝か、とヴィゼは若干口元を引き攣らせる。
ヴィゼとしては、悪戯を仕掛けられたような気分で、素直にそう思えない。
だが、クロウが喜んでくれたのならば、レヴァーレには確かに一言礼を述べる必要があるだろう。
「クロウは、あんまりこういうところには来ないの?」
「あまり、機会がなくて」
甘味好きを隠さないクロウが、久々に、と口にしたので、ヴィゼはふと聞いてみた。
「少し前までは、店に行かずとも師が作ってくれていたしな」
「クロウの、お師匠さん……」
「何でもできる師で、料理の腕も素晴らしかったのだ」
「剣、とか魔術の師匠? クロウの先生なら、さぞ強いんだろうね」
「うむ。誰よりも強かった。師と相対できるものの存在は、仮定すら難しい」
ひどく大仰な言い方だが、クロウは至極真面目だった。
「師が、必要なことは全て教えてくれた。今わたしがあるじといられるのは、師のおかげだ」
「……すごい人、なんだね……。その人に連絡とかしなくて、大丈夫? 無理言って、ついてきてもらっちゃったけど……」
「問題ない。師は三ヶ月ほど前に天寿を全うされたゆえ」
「え……」
思わず絶句したヴィゼに、クロウは微笑んだ。
「師は師なりに生き切った。満足そうに微笑みすら浮かべていったのだ。寂しさはあるが……そう辛い別れではなかった」
言いながら、クロウの右手が触れるのは、その左手首に巻かれたブレスレットだった。
それぞれがいびつな形をしているが、白く光る宝石が連なるそれは、神々しく、美しい。
黒尽くめのクロウの白い肌に、それは殊の外、馴染んでいた。
おそらく、その師からの贈り物か何かなのだろう、クロウがそれを撫でる手は優しい。
「だから気遣いは無用だ、あるじ」
「いやでも、なんだかごめん……」
ヴィゼが謝ると、クロウは困ったように首を傾けた。
「――わたしは今とても満たされているのだ、あるじ」
「クロウ……?」
「こんな風に、あるじとまた向かい合って話をして、食事をして……。そんなことが叶うとは、思っていなかった。ただ、あるじが笑って生きてくれるならそれだけで良かった。そんなわたしに、望外のことだ。わたしの思いを誰よりも理解してくれていた師も、きっと喜んでくれる。だからあるじが謝ることなどひとつもなく、むしろわたしが、礼を言わなくてはならないんだ」
「クロウ――」
「あるじ、ありがとう」
真摯な言葉に、ヴィゼは声を詰まらせた。
「……っ、礼を言って、報いたいのは、こっちの方だよ」
クロウの思いに、どう返せばいいのか。
彼女のひたむきな眼差しは、人によってはとても重く感じるだろう。
だがヴィゼはそれに、ちゃんと応えたいと思った。
流したり、突っぱねたりせず、受け止めたい――。
「クロウ、他に願うことはない? 僕が君にできることは、何がある?」
「あるじ、」
クロウは目を丸くして、ヴィゼを見つめ返した。
「……わたしはもう、あるじにこれ以上ないくらいに幸福にしてもらっているのだが」
「安上がりすぎるよ……」
「そんなことは、ないと思うが……」
ヴィゼが眉を下げると、クロウはもう少しだけ、考えるそぶりを見せた。
「そうだな……あるじが幸せに生きてくれることの他に、願うなら……」
「うん」
復唱されると、どうにも照れくささが増す。
ヴィゼは顔の火照りを感じながら、続きに耳をすませた。
「そんなあるじの側に、ずっといられれば、嬉しい」
恥ずかしがる様子もなく、真剣な顔で、クロウは言い切る。
ヴィゼはそれに、止めを刺されたように、撃沈するしかなかった。




