12 修復士と雨の朝
<黒水晶>を訪れてから三度目の朝、エテレインは自分でも驚くほど早く起きた。
ベッドの中、まだ周りが薄暗いのに目を見張り、すぐに自分が早くに目覚めた理由を知る。
雨が窓を打つ、大きな音がしていた。
「こんな雨じゃ、皆さまも出かけられないかしら……」
不安がぽつりと零れる。
けれど彼女はふるふると首を振り、ベッドから降りた。
身支度を整えようとして、隣室のサステナを起こそうか迷うが、ひとまず止めておくことにする。
サステナが起き出すまで間がない気もするが、ほんのわずかでもちゃんと休んでほしいと思ったのだ。
表には出していないし、エテレインよりはずっと元気そうだが、サステナも疲れているはずだ、と。
エテレインは危なっかしい手つきで蝋燭に火を灯し、何とか一人で着替えを済ませる。
<黒水晶>を訪れるようになる前のエテレインであれば、サステナの手を借りなければできなかったことだ。侯爵令嬢としては当たり前なのだが、レヴァーレやラーフリールと交流を深める中で、エテレインは少しずつ一人でできることを増やしていっていた。
「こんなもの、よね……」
エテレインは己の姿を鏡で確認し、髪を梳いてから、燭台を手に部屋を出る。
階段は部屋よりもずっと暗く、蝋燭の明かりで前を照らしながら、彼女はゆっくりと階段を下りた。
少なくともゼエンは起きているのではないか、と期待を持って食堂へ向かうことにする。
せっかく早く起きられたのだ。何か手伝えることがあれば手伝わせてもらおう、と思った。
しかし、階段を下りたところで、彼女はすぐに気付く。
廊下の窓から、中庭――鍛錬場となっている場所を見つめている一つの影。
その視線の先、いくつかの明かりと、複数の人影。
「こ……、こんな雨の中で、皆さま、何を……!?」
目を丸くして、エテレインは窓の方へ駆け寄る。
すぐそこに佇む人影に、朝の挨拶をすることも忘れていた。
「鍛錬ですよ」
答えたのは、彼女よりも先に外の様子を見ていたヴィゼだ。
エテレインがサステナを連れていないことに軽く目を見張るが、それについては触れず、手を差し出して燭台を受け取る。
二人の頭上にはヴィゼが魔術で作り出した明かりがあって、蝋燭は必要なかった。
「あ、ありがとうございます。……あの、どうしてこんな、悪天候の中で? しかもまだ暗いのに……」
「日課、ということもありますが、依頼を遂行するのに天候はあまり関係ありませんから。雨の中でも戦うことに慣れておかないと。猛烈な暴風雨の中でも、魔物が村を襲っていればそこへ向かうのが僕たち戦士の役目です」
「そう……ですよね」
ヴィゼたちは、エテレインには想像もつかない苦労や途方もない経験をしているのだろう。
エテレインは顔を曇らせ、ヴィゼはそれを晴らすように軽い口調で告げた。
「まあ、あまりにも天気がひどい時は、魔物も姿を隠すものですが」
「そう、なのですか」
「ええ」
火を消して燭台を廊下の隅に置いたヴィゼは、そう頷いた後は口を閉じた。
彼がその目に映しこむものを、エテレインも見つめる。
雨の中木剣を打ち鳴らすのは、クロウ、エイバ、ゼエンであった。
少し離れた位置で、レヴァーレが三人に障壁を張っている。
「ヴィゼさまは、皆さまと鍛錬をされないのですか?」
ふと漏らした疑問に、ヴィゼはぎくりとした。
隠さなければならないような事情はないが、情けない理由はある。
彼は躊躇った後、素直に白状した。
「……実は、寝坊したんです」
「え、」
「朝はどうも苦手で。依頼がある時はかなり頑張って起きています。今日はむしろ早い方ですが、起きた時には既に皆外にいて、とりあえず明かりだけ出させてもらっています」
エテレインは一昨日のことを思い出し仲間意識のようなものを持ったが、ヴィゼがそれを喜ばないことは分かった。
フォローの言葉もなかなか出てこず、結局曖昧に頷くだけになる。
何だか気まずい、とエテレインは思った。
誰かがいてくれれば、また違った空気になっただろうに――。
そう考えてようやく、エテレインは今この場にヴィゼと二人きりであると認識した。
緊張が高まる。
束の間息を止めてしまったエテレインは、ゆっくりと息を吐き出した。
――お祖父さまの馬鹿……。
内心で祖父を罵る。
それは、こうしてヴィゼと二人きりでいて彼を意識してしまうのが、祖父の言によるものだからだった。
『あの男を婿として連れ帰ってくるのだ、レイン』
クロウを探れ、と言った祖父は、さらにそう続けた。
<黒水晶>に長逗留を許す代わりに祖父が出した条件は、一つではなかったのだ。
けれどそれを、ヴィゼの前でエテレインは口にできなかった。
言えるはずがない。
ヴィゼが困るのも、断るのも、分かり切ったことなのだから。
エテレインとしては、正直なところ、まだ諦めていなかったのか、と呆れるばかりだった。
叶うはずもないことは、祖父とてよく分かっているはずなのに。
彼女の祖父がヴィゼに目を付けたのは、レヴァーレをめぐる決闘騒動の時だ。
祖父は魔術士としてのヴィゼを欲し、その力を手に入れるためにエテレインとの婚約を結ばせようとした。
『ヴィゼ、と言ったな。メトルシア家に仕えるつもりはないか? そなたの魔術士としての腕、是非欲しい』
『申し訳ありませんが、お断りします』
決闘が終わり、大勢の観衆がいる中のことだった。
そうすればヴィゼも断りづらいと踏んだのだろうか。
祖父は決闘に負けたことも気にせず、ヴィゼを勧誘した。
『それでは、孫娘を娶らせよう。この通りの器量だ。気立てもよい。良い話だと思うが?』
当時エテレインは十一。
貴族が婚約を結ぶのにおかしい年齢ではなかったし、いつか婚約者が決められることは分かっていたが、まさかこんな形で祖父が言い出すとは思わず、仰天したものである。
しかもレヴァーレの結婚に関して決闘をし、敗北した直後に、この申し出。
ヴィゼも驚きを隠せずにいたものだ。
『もったいないお話です。お嬢様には僕よりずっとふさわしい方がいるかと存じます』
『そうかもしれんが、このわしが、そなたが良いと言っている』
『僕の身の上は、お調べになったかと思いますが。とてもメトルシアを名乗れるような者ではありません』
『しかし貴い血は流れている』
『いいえ――いいえ』
祖父の言葉を否定したヴィゼの瞳の奥。
そこには苛烈な色があった。
あれは、憎悪、だったのだろうか。
今でも分からない。
エテレインは怯えて祖父の背中に隠れ、祖父もヴィゼの気迫に言葉を呑み込んだようだった。
十五歳のヴィゼに、黙らされたのだ。
『僕にはやらなければならないことがあります。その申し出に頷くことはできません』
ヴィゼはきっぱりと断った。
さらなる誘い文句を述べる余地はなく、それで祖父も諦めたとエテレインは思っていたのだが、そうではなかったらしい。
もしや、この年齢になるまでエテレインに結婚話がなかったのも、ヴィゼに未練があったからなのだろうか、という疑念が浮かぶ。
父も祖父も彼女を溺愛し家に置いておきたがるのを仕方がないと受け入れてきたのだが……、もしそうだとしたら、自分は誤っていたかもしれない。
それでも父たちが役目を果たし、いつかは誰かをちゃんと選んでくれるなど――あまりにも、甘い考えなのでは?
エテレインは貴族間では行き遅れと言われてもおかしくない年齢に差し掛かっている。
一生独身の憂き目を逃れるには、自分で誰かを見つけなくては。
けれど、どうやって?
エテレインの目はヴィゼを向く。
だがそれでは祖父の思惑に嵌るようなものであるし、エテレイン自身ヴィゼを夫とするというのは、いまいちピンとこなかった。
ヴィゼが嫌だというわけではない。容姿もそう悪くないし、いつも落ち着いていて優しげで、頼りがいもある。
けれど、エテレインはヴィゼとの間に大きな距離を感じていた。
彼はエテレインを丁重に扱ってくれる。
だがそれは、エテレインがレヴァーレの従妹だからだ。ラーフリールの危機を救うために、手を貸したことがあったからだ。
それ以上のものは何もない。
それは、この数日同じ時間を過ごしただけでも明白なように思われた。
何より、ヴィゼがただひたむきに見つめるのは、エテレインではなく――。
「……あの、ヴィゼさま」
「なんでしょう」
「クロウさまが、エイバさまとゼエンさま、二人の相手をしているように見えるのですが」
「ええ、そうですよ」
鍛錬の様子をヴィゼと共にしばらく見ていたエテレインは、それに気付いて結婚のことなど頭から吹き飛んだ。
「に、二対一なんて、そんなの!」
しかもクロウはあんなに小さな体なのに。
レヴァーレの防御障壁があるとはいっても、慌ててしまう。
そんなエテレインを宥めるように、ヴィゼは落ち着いた口調で告げた。
「二対一くらいでないと、クロウの隙を突くのも大変なんですよ」
「え……」
「見ていても、危ういところはないでしょう?」
「それは……はい。ですが、それは、エイバさまとゼエンさまが上手く、その、加減されているからでは?」
「もちろん互いに本気ではないですよ。ですが、より手加減をしているのはクロウの方です」
信じられないまま、エテレインは鍛錬の様子をもう一度よく見てみる。
彼女の視線の先では、クロウがエイバの重い剣を受け止めていた。
動きを止められたクロウをゼエンが狙うのだが、クロウはエイバの剣をなんと押し戻し、彼を怯ませたところで、ゼエンのスピードのある剣を打ち払う。
軽く跳躍して二人と距離をとったクロウに、再び二人が打ちかかる……。
だが、クロウには全く焦りがなかった。
彼女はひどく落ち着いて見え、相手二人をむしろ翻弄しているようだ。
「く、クロウさまはお強いのですね……」
「はい。頼もしい、仲間です」
噛みしめるように、ヴィゼは言う。
しかし、そんなヴィゼの前で――。
ふ、とクロウの動きが一瞬だけ、止まった。
エイバがそんなクロウに踏み込む。
クロウはそれを受けようとして、交わった木剣がどちらも折れた。
エイバの驚いたような顔。
クロウは焦ったように腕を引き、そのままバランスを崩して後ろに倒れた。
それはたった一瞬の出来事だったが、スローモーションのようにヴィゼの目に映る。
ヴィゼは顔色を変え、エテレインは何が起こったのかよく分からなかったが、木剣が折れるほどの衝撃にクロウが尻もちをついたように見え、悲鳴を堪えるように口元に手を当てていた。
「クロウ!」
ヴィゼは濡れるのも構わず窓から雨の中に飛び出した。
エテレインはそれに続こうとするが、さすがに窓から飛び出してはいけない。
玄関ホールに回り、表の扉に向かい合うようにして設置されているドアから鍛錬場へ出た。
濡れてしまうことを、エテレインも気にしなかった。




