11 黒竜と動揺②
「この間、あのでかい馬車に乗ってた美人さんと良い仲だとかって、先輩たちが話してたんですよ。クロウさんなら知ってますよね。やっぱホントなんですか? 羨ましいなぁ、あんな美人と結婚なんて、さすがヴィゼさんですよね」
相手は貴族だが、ヴィゼならそんなことどうにでもしそうだ、とか、玉の輿だ、とか、少年の台詞は続く。
クロウの反応を、気にすることなく。
「お ま え は!!」
そんな少年の言葉を止めたのは、その脳天に落とされた強烈な拳だった。
「バ カ だ!!」
「~~~~~~っ」
拳を落とすと共に大声で断言したのは、<抗世>の副リーダー、ヘセベルだ。
少年はしゃがみこみ、恨みがましい視線をヘセベルに送るが、彼はその何倍もの怒りを込めて少年を見下ろした。
「お前、<黒魔術師>と嬢ちゃんのファンを敵に回したぞ」
「え……?」
訳が分からない、と少年はヘセベルを見上げ、それからクロウを見た。
そこでようやく、気付く。
クロウは、茫然と、そこに立っていた。
顔を蒼白にして。
今目の前にしている、<抗世>の二人も目に入っていない様子だった。
もしかして、と鈍感な少年は本当に今更分かった。
ヘセベルの言葉も理解した。
クロウは、少年が口にしたことを、今初めて聞いたのだ。
そして、クロウは、ヴィゼを……。
「嬢ちゃん、こいつが話したのはただの噂話だ。事実でもなんでもねえ」
「え……、あ……、うん……」
ヘセベルは気遣いのこもる声でクロウに語りかけた。
クロウは上手く呑み込めない様子で、けれど頷く。
「嬢ちゃんは知らなかったんだろう。それなら噂話の方が嘘なんだ。ヴィゼの野郎が、嬢ちゃんにそんな大事なことを話さないわけがねぇ。こいつが言ったことは、気にしないでくれ」
「……うん」
クロウの瞳が焦点を結び、ようやくちゃんと、ヘセベルを認めた。
何か言おうと、クロウは口を開きかける。
そこへ、
「クロウお姉さん? どうかしたのですか?」
ラーフリールがパン屋のドアを開け、顔を出した。
純粋に不思議そうなところを見るに、店内にヘセベルの声は響いていなかったらしい。
「あっ、ヘセベルおじさん!」
「おう、ラフちゃん、奇遇だな。おつかいか?」
「そうなのです」
ラーフリールとヘセベルは知り合いだった。
<黒水晶>と<抗世>とが協力関係にある、ということもあるが、彼女には顔見知りが多いのだ。
それが今回聞き込みを行う上でもかなり役に立っていた。
「おじさんも、お買いものですか?」
「オレはこのアホが財布を忘れていったから届けに来たんだよ。それで嬢ちゃんに会ってな。引き止めて悪かった」
ラーフリールとヘセベルは笑顔で言葉を交わす。
ヘセベルの謝罪は、ラーフリールとクロウ、双方に向けられたものだった。
クロウはふるふると首を振り、パン屋のドアに手をかける。
「嬢ちゃん、」
「――大丈夫だ」
少しだけ顔色を戻したクロウは、ヘセベルが心配してくれていることが分かり、唇をかすかに笑みの形にした。
「ありがとう。今は、中で待っている人がいるから……」
まさかそれが噂の渦中にいるもう一人の女性だとは、ヘセベルも気付かない。
「そう、だな。じゃあまたな。ラフちゃんも」
「はい、またなのです」
ラフは笑顔で手を振り、それからその太陽のようなそれを、クロウに向けた。
クロウは一度深呼吸をし、ラーフリールに微笑みを返す。
ぎこちない笑みになっていないことを願った。
心に嵐が吹き荒れているのを、気付かれるわけにはいかなかった。
「おいしそうなパンがいっぱいなのですよー」
果たして、鋭敏なラーフリールに何とか異常を感じさせずに済んだ。
クロウはほっとしつつ、何とかポーカーフェイスを保ってパン屋に入る。
エテレインを見ても動揺を表に出さずにいられるよう、心をきつく戒めながら。
そんなクロウを気にしつつ、ヘセベルは失言少年の首根っこを引っ張った。
今や少年は、先ほどのクロウ以上に顔色が悪い。
クロウに申し訳ない、という気持ちと、自身の命が危ぶまれている状況に、そうならざるを得なかったのだ。
彼はヴィゼが<黒魔術師>などと呼ばれるようになった経緯を、先輩たちから聞かされていた。
その恐ろしさを目の当たりにしたことはないが、彼らの話が真実なのであれば、少年がそんなヴィゼの大事にしている仲間に対しやらかしてしまったことは……。
「……しばらくお前、夜道には気をつけろ。昼間も一人では行動するな。誰かと一緒にいろ」
少年が心に描く恐怖が現実となるかもしれないことを、ヘセベルはそんな言葉で肯定した。
「で、嬢ちゃんと次に会ったらちゃんと謝れよ」
半泣きの少年は、その言葉に何度も頷く。
全く、とヘセベルは嘆息した。
数日前ヴィゼを揶揄ったヘセベルだが、こんなことになるとはさすがに予想できるわけもない。
あの時の彼はクロウに配慮し、彼女との距離が離れていることをちゃんと確認していたのだが、それをヴィゼは分かっていたのだろうか。
――ヴィゼ、お前もお前だ。嬢ちゃんに何の説明もしてやってねえのか……?
ヘセベルはもう一度嘆息し、そのまま少年のおつかいに付き合ってやった。
――あれから、長かった……。
ベッドに倒れこんだクロウは、心の中で呟いた。
夜である。
夕食を終え、一日目と同じように<黒水晶>はエテレインとサステナに進捗状況を報告した。
そもそもアディーユは街中に足を踏み入れてはいない、というのが今のところの結論だ。
全く目撃情報がないし、宿の客の情報も仕入れたが、該当する人物がいないのである。
ただ、北からこの街に入ろうとしていた商人から、それらしい人物が食料を買っていったらしい。
また、その付近、あるクランが討伐に向かってみると魔物が既に倒されていることがあった、という情報がもたらされた。
やはりアディーユは魔物に復讐をしかけているのだろう。
明日からは積極的に街の外を探すことをヴィゼは告げた。
それから解散となり、クロウはすぐに自室に入った。
仲間たちにいまだ治まらない動揺を気付かせないように、十分注意して。
気付かれたくなかった。
この想いにだけは。
特にヴィゼには、知られるわけにはいかなかった。
けれど、<黒水晶>の仲間たちは互いをとても大切にしあっていて、鋭い。
もう、見透かされてしまっているだろうか。
クロウの持つ、ヴィゼへの特別な好意を。
クロウはヴィゼを、恩人として主として慕っている。
だが、それだけでなく。
クロウは、ヴィゼに、恋情を、抱いていた。
それは、ずっと前から。
師の元で過ごしていた時から。
自分の気持ちには、気付いていた。
けれど、叶うはずのない想いだということも知っていた。
あの頃クロウは、ヴィゼはもう黒竜のことなど思い出したくもないだろうと思い込んでいたし、顔を合わせることすら夢のまた夢で。
最初から、諦めていたのだ。
こうして側にいられる今でも、希望など持ったことはなかった、はずだった。
何故ならクロウは、竜である。
師である白竜は人と結ばれたが、それは本当に特別なこと。
それが自分に訪れるなど、とてもあり得ることではない。
人は人と結ばれるのが自然なことで、ヴィゼもいつかは、似合いの女性を見つけるだろう。
それを自分は、ずっと見守っていくのだ……。
それはごく当然のこととして覚悟していたはずだったのに。
どうしてこんなにも苦しいのだろう。
クロウは眉根を寄せ、胸の辺りを掴んだ。
ヴィゼと再び言葉を交わして、隣にいられるようになって、己に見合わぬ期待をするようになってしまったのだろうか。
ヴィゼはクロウを家族にしてくれた。
それだけでも大それたことなのに、それ以上をこの心は望むのか。
泣きそうだった。
そんなクロウの目元に、そっと冷たい指先が触れる。
「クロウ」
触れるのは、彼女自身だった。
彼女の<影>の、一番目。
「フィオーリ……」
ベッドに腰掛け、気遣わしげに顔を覗き込んでくる己の<影>を、クロウは掠れた声で呼んだ。
「仕事は、どうした」
「皆がちゃんと、見てる」
今夜も念の為、クロウの<影>は街の見張りに出ていた。
アディーユが購入したという食料はあまり多くなく、いつ彼女が食事のために立ち寄るか分からないので、<影>たちはしばらく休みなしになりそうだ。
一番目の<影>もそれで外に出していたのだが、クロウの様子を心配して戻ってきたらしい。
彼女たちはクロウの命令通りに動き、その意思に逆らうことはないが、その一方で己自身の意思を持ち、自律して動くことも可能だった。
今もこうして、クロウが完全に拒否しないから、フィオーリは労わりを込めて己の本体に触れる。
「ごめんなさい、本当は昨日聞いていたの、噂のこと」
「……そうだったのか」
クロウは黙っていた<影>を責めなかった。
言わなかったのではなく、言えなかったのだろう。
その理由は、今の己の状況を見れば明白である。
「あれはあくまでも噂。<抗世>の人も言っていた」
「うん……」
それは本当にそうなのだろう。
ヘセベルの言う通り、もしヴィゼが結婚するというなら、クロウにはちゃんと話してくれるはずだ。
ヴィゼはクロウを家族だと言ってくれたのだから。
そんな人生の大事を、秘密にはしておかないだろう。
「あるじも、彼女も、そういうそぶり、ない」
「そうだな……」
<影>の言葉に、クロウは静かに頷く。
それは慰めであったが嘘ではなく、確かにヴィゼは、むしろ一線を引いてエテレインと接しているようである。
そしてエテレインは、ヴィゼを前にする時何やら緊張しているようである。
あまり色恋が間にあるようには見えない二人だった。
だが、だからといって、クロウの心は軽くならない。
「だけど、いつか、あるじは結婚する」
「クロウ、」
ぽつりと零せば、胸に刺すような痛み。
「レイン殿かもしれないし、他の女性かもしれない。わたしじゃない人と、結ばれる」
そんなことは、とっくに分かっていたはずなのに。
突き付けられた現実が、痛い。
「あるじが幸せなら、それが一番のはずなのに。あるじの幸せを祝いたいのに、心からそれができないなんて……」
誰かを愛する、ということは。
こんなにも、苦しくつらいものなのか――。
クロウはそれを、思い知る。
「こんなわたしじゃ、あるじの側にいられない……。家族なんて、なれない……」
ぽとり、と透明な滴が頬を伝わり、シーツを濡らす。
クロウは涙しながら、いつしか眠りに落ちた。
そんな自分自身の側に、<影>はいつまでも寄り添っていた。




