31 黒の少女と獲得
「あるじ!!」
影から現れたクロウが、ぐいとヴィゼの手を掴んだ。
体が本調子でないせいもあるのだろうが、ヴィゼの行為にその顔は真っ青である。
「何をしているのだ、あるじ、こんな……、わたしが<影>を置いていかなかったら……!」
「うん、でも、クロウはそうしなかっただろう?」
「……っ」
「クロウはずっと僕の側にいてくれてた。今もこれからも変わりはないって、信じたかったんだよ」
ヴィゼの眼差しに射抜かれて、クロウの手から力が抜けた。
氷の刃は、その時には床に転がって、じわじわと溶け始めている。
ヴィゼは自由になった手で、クロウを捕まえた。
もう逃げられないように、両腕で、その華奢な背を抱きしめる。
「あるじ……!」
呼ぶ声が動揺に揺れる。
けれどヴィゼは離さない。
離してしまえば、クロウはまたどこかへ行ってしまうかもしれない。
そんなことは、もう、許せなかった。
「ずっと、会いたかった。探してたんだ、君を」
耳元で、囁くようにヴィゼは告白した。
クロウは自分の耳を疑う。
けれど、ヴィゼを疑うことなどできなくて。
「それなのに、ずっと気付かなくて、本当にごめん」
ふるふると、無言でクロウは首を振った。
これは願望が見せる夢なのだろうか、と彼女は思う。
けれど声の優しさは、腕の温かさは、夢の中にも記憶の中にもない、鮮明さと鮮烈さがあった。
「あの時のことも、ずっと後悔してた。逃げるようにしか言えなくて。守ることができなくて」
「そ、それは、わたしが……!」
「ううん、僕が未熟だったんだ。何も知らなくて、君に刃を向けさせた。それなのに、人間を嫌いにならないでくれて、僕の側にいてくれて、本当にありがとう」
「あ、あるじ……」
「クロウ、どうかこれからも僕の側にいてほしい」
「だが、わたしは……」
「クロウが負い目を感じることなんて、何もない」
むしろ負い目は、ヴィゼにある。
「クロウ、僕も強くなれたと思うんだ。クロウほどじゃないかもしれないけど、それでも君を守れるくらいには。僕たちは強くなった。だからその二人の力を合わせれば、どんなことでも、何とかできるんじゃないかな。今は、二人きりでもない。皆もいてくれる。皆を大切に思ってくれてるからこそ、クロウはここにいちゃ駄目だって思うのかもしれないけど、そんなの、寂しいよ。君がいなくなったら、寂しいんだよ。君がいてくれるだけで、嬉しいんだよ。だからどうか、奪わないでほしいんだ。ここにいてほしいんだ」
「……っ」
思いの丈を吐き出して答えを待ったヴィゼの耳に、クロウの嗚咽が届いた。
それは、先日負傷の中見せた悲しい涙とは違って、優しい温度を感じさせて。
けれど胸を締め付けるような、切ない涙だった。
「わ、わたし……、ずっと、本当は、こうして……っ、あるじと、ちゃんと、顔、見て、話し、して……、そんな風にしたくて……、でも、駄目だって、思って……っ! 本当に、いいのか? わたしが……、わたしが、いて、あるじと、みんなと、ずっと……!」
「うん――うん」
ヴィゼは大きく頷いて、その両腕に力を込めた。
「君がいなくなる方が、耐えられない。だから、クロウ……」
「うん……!」
ヴィゼが言い終わる前に、間違えようもなく、クロウは大きく返事をする。
それにヴィゼは、ようやく取り戻せた、と感じた。
「……おかえり、ルキス」
柔らかにその名を呼べば、涙に濡れた瞳がヴィゼを驚いたように見つめてくる。
「それ……、わたしの、名前……。あるじ、覚えて……」
「忘れたことなんて、なかったよ」
黒水晶の瞳があまりにも綺麗で、動悸を覚えながら、ヴィゼは微笑んだ。
「わたしは……、もう失くしてしまって、取り戻せないと……」
「……うん。ごめんね、本当に。あの時は子どもで……、勝手に名前つけちゃって、」
「いや――わたしは、嬉しかった。それまで名前なんてなかったから……、あるじが呼んでくれる度に、嬉しかったのだ。だから、失くしてしまった時は、本当に、悲しくて……」
しゅん、と肩を落とす様がヴィゼの胸を掴む。
「それなら……、改めてつけてもいい?」
ヴィゼが恐る恐る尋ねたのは、セーラにつけたような仮の名ではなく、真名を贈りたいという意味だったからだ。
真名とは、魂に刻まれた真実の名をいう。
真名を持つことで世界に強く根差し、持たぬものより強い力を得ることができる。
一方で、他者に知られ、呼ばれてしまえば、その体だけでなく心さえ相手に支配されることになってしまうものでもあった。
ちなみに現代の人間は、真名を持たぬ者が多い。
本来真名は両親が子の魂に刻むものであり、膨大な魔力が必要なため、現代では廃れてしまっているのだ。
同様の理由から、ナーエでも生まれた時から真名を持つのは力ある幻獣のみである。
クロウの場合は、黒竜という生い立ち故に、真名を持たずにいた。
何も知らない少年のヴィゼはクロウに中途半端に真名をつけてしまったが、それは一度失われ、今クロウは真名がない状態だ。
ヴィゼはクロウに、再び「ルキス」という名を使ってほしかった。
だがそれは、クロウにとって危険なことでもある。
躊躇って当然のところ、クロウは瞳を輝かせた。
「いいのか、あるじ?」
それはむしろこちらの台詞だと思いつつ、ヴィゼは首肯する。
「クロウが許してくれるなら」
「わたしは……呼んでほしい。師にもらって、皆が呼んでくれる名も大切だが、わたしの本当の名前は……、失っていた間もずっと、あるじがくれたものだと思っていたから」
そんな風に言われたら、ヴィゼの方が泣いてしまいそうだ。
ヴィゼはクロウの宝石のような瞳を覗きこむ。
真っ直ぐに見つめてくれるその瞳はあの頃の彼女と全く同じなのに、確信を持てず、自分だけでなくクロウまで翻弄してしまったことが情けなかった。
けれど、そんなヴィゼでも、彼女は良いと言ってくれる。
そんな彼女に応えたいと、ヴィゼは強く思って。
彼女の魂に確かに刻みつけるように、呼んだ。
「――ルキス」
優しく、丁寧な響き。
それに、
「はい」
と、彼女は応えた。
きらきらと輝くような笑顔に、ヴィゼもつられるように笑う。
「ルキス」
返事が返ってくることが嬉しくて、ヴィゼは何度でも呼んだ。
彼女がずっといてくれるように、呼び続けた。
「クロウの意識が戻ったよ」
何事もなく買い出しを終え、本拠地に帰って来たメンバーに、ヴィゼは満面の笑みで告げた。
荷物を運ぶ途中だった仲間たちはそれを喜ぶが、あまりにもヴィゼが思いを隠し切れていないので、その笑みは苦笑に近いものになる。
ちゃんと話はできたのかなどと、わざわざ聞く必要はないようだった。
「そんなら、うちはクロやんの様子見に行こか」
「お母さん、わたしも後で行っていいですか?」
「ん、多分大丈夫やと思う。ちゅうより、荷物置いたら皆にも来てもらった方がええかもな。せやろ、ヴィゼやん」
「うん、その方がクロウも安心すると思う」
「そんじゃさっさと荷物置いてくるか」
「そうですな」
話はすぐにまとまって、ヴィゼとレヴァーレはクロウの部屋へ足を向け、残りのメンバーはひとまず食堂へと食料を運ぶ。
クロウはベッドの上に上半身を起こし、緊張した面持ちで二人を迎えた。
「クロやんおはようー。顔色ええな。気分はどうや?」
「良い、と思う」
ぎこちなく頷いたクロウの横のイスに腰掛け、レヴァーレは彼女の体温を測り、脈を確かめた。
「うん、落ち着いとるね。けど、無理はあかんで。少なくとも今日はよう食べてよう寝て、回復に努めなね」
「う……うん」
クロウは曖昧に頷いて、助けを求めるようにヴィゼを見上げた。
あまりにもレヴァーレが普通なので、戸惑っているらしい。
ヴィゼはそれに軽く苦笑して、クロウの頭をぽんぽんと撫でた。
そこへ、早々と荷物を片付けた残りのメンバーがやって来て、部屋のドアがノックされる。
「はいりますよー」
断ってから最初に顔を出したのは、ラーフリールとその腕に抱かれたセーラだ。
その後ろからエイバとゼエンもやってきて、部屋は狭苦しく感じられるほどになる。
全員がやってくるとは全く予期せず、クロウは目を白黒させた。
「クロウお姉さん、よかったです……! だいじょうぶですか? もうけがいたくないですか?」
「だ、大丈夫だ」
ベッドの隣でラーフリールとセーラは良かった良かったと喜ぶ。
続いて渋面のエイバが、腕を組んでこう口にした。
「全く、無茶しやがって。お前が寝てる間、ずっと俺は文句を言いたかったんだぜ」
「文句……」
「なんで俺とレヴァを置いてったんだよ。あの時ここには俺らもいたんだから、声をかけてけよ。赤竜相手でも、お前の盾くらいにはなれるぜ」
「え、」
「だから次は、一人で行くなよな。置いていかれてあんな傷で戻って来られたら、心臓に悪いんだよ」
「え……、」
「分かったか?」
「うん……? も、文句とはそれだけか?」
「それだけとはなんだ。大事なことだろうがよ」
「そうですなぁ。それに、クロウ殿が元気でいてくださらないと、リーダーが真っ黒になってしまいますからなぁ。ご自愛してくださらなければ」
「真っ黒?」
不思議そうな瞳に見つめられ、ヴィゼは顔を引き攣らせた。
「せやでー。クロやんが大怪我して、ヴィゼやんは心配のあまり大変貌を遂げてしもたんや……。どんなやったか聞きたい?」
「ど、どんなになってしまったのだあるじは!?」
「わーわーわー! レヴァ、話さなくていいから!」
「クロウ殿、こうして慌てるほどの有様だったのですなぁ」
「そ、そうなのか……」
クロウは慌てるヴィゼを見、それからぐるりとメンバーを見渡した。
誰も、黒竜を厭わない。
誰も、黒竜を責めない。
――わたしを受け入れてくれるここが、わたしの……居場所。
そう思い定めて、クロウは真摯に口を開いた。
「――皆、すまなかった……」
「クロウ――」
クロウは頭を下げて、それから、微笑む。
「心配してくれて、ありがとう」
当たり前だろ、とエイバが口の中でぶっきらぼうに言った。
クロウの微笑があまりにも綺麗だったので、全員がそれに呑まれたように、それ以上は何も言えなかったのだ。
そしてクロウも、知っていた。
余計なことは何も言う必要はないのだと。
だから、伝えたいと思う言葉だけ、伝える。
「わたしは皆を巻きこんでしまった。そんなわたしが守りたいと思うのは不遜かもしれない……。でも、やっぱり、守りたいんだ。あの二人からも、それ以外からも。皆を――ここを」
「クロウ、」
「だけど、わたしの力だけでは及ばなかった。守りたいと思う人たちから力を借りるというのは矛盾しているだろうが、改めて、頼みたい。どうか、力を貸してほしい」
だからもう一度ひとりでも征く、と言いかねないクロウの言葉を聞いていたメンバーたちは、ほっと笑顔になった。
「それこそ、当り前やで」
「そうだぞ全く、ヴィゼもそうだが、お前も水臭い!」
『できることは少ないですけど、わたしもがんばります!』
「この老いぼれでも、多少の役には立てましょうからなぁ」
「ぜ、ゼエンさまはいつでもつよくてかっこいいですよ!」
「ありがとうございます、ラフさん」
「ラフ、御大、あんまりナチュラルにいちゃつかんといてや。後でエイが泣くんやから」
「な、泣かねえよ!」
「……エイバ、泣いてるんだね……」
危機が迫っているはずなのに、仲間たちの声に暗さはない。
クロウは声を出して笑って、それからセーラに感謝の眼差しを贈った。
『後輩、あの時、竜の姿に戻るよう言ってくれて、ありがとう』
『いえ、そんな、私、』
『お前が言ってくれなければ、わたしは思い切れなかった。どうしてあんなに怯えていたのかと思うが……、とにかく怖かったんだ。だから、』
『それは……』
セーラは温かい声で告げた。
『先輩も、皆さんをとても大切に思うから……、だから、ですよね。その、私なんかが生意気ですけど……、私も同じだから……、だから、先輩に無事でいてほしくて、それで、』
『うん』
一生懸命に言葉を紡いでくれようとするセーラに、クロウは頷いた。
『その通り、だな』
きっと、きっと守ろう。
今度こそ、守り切ろう。
決意を新たにして、クロウは微笑んだ。
仲間たちと、笑顔を交わした。




