30 黒の少女と喪失
黒竜がナーエに生まれ落ちて、気付けば、周りには誰もいなかった。
それが異常事態であることは、分かっていた。
食べ物を与えてくれ、生きていくための術を教えてくれる親がいるはずなのに、それがないのだ。
悲しいとか寂しいとかいう感情は、その時にはなかった。
ただ、空腹をどうしたらいいのか考えた。
黒竜は、自分が入っていた卵の殻を食べ、足下の草を食んだ。
草原はどこまでも続いていたので、草は食べ放題で、水場も近くにあったので、それで生きていくことができた。
――生き延びることが、できてしまったのだ。
翼がまともに動くようになると、何とかひとりで飛ぶ練習をして、黒竜は世界を見た。
世界には草原だけではなくて、色々なものがあった。
世界には黒竜ひとりだけではなくて、色々な生き物がいた。
けれど。
同じ形をした同族の中でも、黒竜と同じモノはいない。
誰もが自分を見ると、どこかへ行ってしまうか、攻撃を仕掛けてくる。
形の異なるモノたちへ近付けば、皆怖がって逃げていく。
誰とも言葉すら交わしたこともないまま、黒竜はひとりで大きくなった。
世界中の全てに嫌われていることだけは分かったから、誰にも近寄らなくなった。
けれどその頃には感情が育っていて、寂しさが募っていった。
世界の広さなんて知らなければ良かったと思った。
本当に、世界に黒竜ひとりだけだったなら。
寂しいなんて、そんな風に思うことはなかったのに。
そうして、だんだん、だんだん、寂しさが、つらくなっていって。
どうして生まれたあの時に、飢えて死ななかったのだろうと考えるようになった。
親が黒竜を厭って捨てていったことは、明白で。
それなのに、生き延びてしまった。
居場所なんてないこの世界で、生き続けてしまった。
やり直せばいいのか、と黒竜は死を思うようになった。
死を、やり直せばいい。
そうすればこんな寂しさは感じなくて済む。つらいなんて、胸が痛くなることはない……。
黒竜は食事を取ることを止めた。
けれど、なかなか死は訪れてこなかった。
どうして死なないんだろうと思った。
世界は、黒竜の存在を望んでなんか、いないはずなのに。
もし少しでも黒竜の存在を許してくれているのなら。
皆と同じでなくてもいい、何分の一かでいい、仲間と笑い合う幸福というものを、教えてくれてもいいのに……。
そんな黒竜の前に、ある時見知らぬ風景が現れた。
世界と世界を隔てる境界が、一部分だけ、消失したのだ。
その時は、そんなことは分からなかったのだけれど。
そこから見える景色を、何の気なしに、黒竜は覗きこんだ。
そこには、見たこともない生き物がいた。見知らぬ物がいくつもあった。
向こう側にあったのは、異世界だった。
そこにならもしかしたら、黒竜の居場所があるかもしれない。
そんな淡い期待を持ってしまって、黒竜は思い切って向こう側に飛び込んだ。
黒竜が通れば、通路は閉ざされ帰り路は絶たれる。
それを、何とも思わなかった。
黒竜は、異世界に足を着けた。
先ほど見えていた、見知らぬ生き物が、目を丸くして黒竜を見つめてくる。
逃げるか、それとも、攻撃をぶつけてくるか。
警戒しながら反応を待つ。
目の前の生き物は、どちらも選ばなかった。
そっと、手を伸ばしてきた。
指先には、温度があった。
初めての、自分のものではない、体温。
心臓が早鐘を打って、けれど、嫌だとは思わなかった。
黒竜はじっとしていた。
目の前の生き物が音を発する。
柔らかな調子、優しい音。
意味は分からなかったけれど、やはり嫌ではなかった。
「■■■」
目の前のそれは、黒竜をそう呼んだ。
それだけは分かった。
その時まで黒竜には名なんてなくて、あるようなないような存在だったのに、その時に初めて、黒竜は世界に確固たる形を持ったように感じた。
――わたしは、■■■。
嬉しかった。
嬉しいなんて初めてで、その時は己の感情に戸惑うばかりだったけれど、黒竜は、嬉しかったのだ。
目の前の生き物は、黒竜から逃げていかない。
名で、黒竜を呼んでくれる。
――わたしの居場所は、ここにあったんだ。
そう思った。
後で知ったことになるが、黒竜を名前で呼んだのは、人間という生き物だった。
人間の、男の子。
同じ人間からは、「ヴィゼ」と呼ばれている。
だから黒竜も「ヴィゼ」と呼んだ。心の中で、ずっとそう呼んでいた。
けれどそれを、彼は知らなかったろう。
黒竜は誰とも話なんてしたことがなくて、話し方を知らなかったから。
話したくても、どうしていいのか分からなかった。
それでも。
彼の言葉が分からなくても、話すことができなくても、表情や仕草で、何となく意思疎通ができていた。
彼はだいたい笑って、黒竜の名前を呼んだ。
それだけで、幸せだった。
けれど、初めてのそんな時間は数ヶ月続いて、終焉を迎える。
他の人間は、黒竜の存在を少年のようには受け入れなかったのだ。
黒竜のことを知った他の人間は、黒竜に刃を向け、少年にも同じようにした。
「逃げろ」と彼は言った。
力のある言葉を使って、彼は黒竜に命じた。
だから、黒竜は彼を守ることもできず、ただ逃げるしかなかった。
逃げて逃げて、逃げ続けて……。
気付けば、彼との繋がりは切れていた。名前を、失っていた。
彼を、失ってしまった。
『あああああああああ!!』
絶望に、絶叫した。
涙と嗚咽は止まらなかった。
どれほど、嘆き続けていたのか。
救いの手を差し伸べてくれたのは、同族の女性。
異世界に生きていた、白竜だった。
白竜は黒竜を己の住居に住まわせてくれた。
黒竜を仮に「クロウ」と呼び、様々なことを教えてくれた。
概念送受のやり方、人間の言葉。
エーデの知識、ナーエの知識。
そして、戦い方まで。
黒竜の知らないことを全て、彼女が教えてくれた。
その間に、アビリティの写し身を使って、彼を探し出した。
彼が無事だったことに、安堵した。
けれど、それだけ。
黒竜はその時にはもう話すこともできるようになっていたし、人間の姿になれるようにもなっていたけれど、彼に声をかけることはできなかった。
会えるはずなどなかった。
彼は黒竜に名前をつけてくれたのに。
日々を共に過ごしてくれたのに。
黒竜は何もできなくて、彼に刃が向けられてもただ逃げただけで。
迷惑だけかけて。
あの後、彼は黒竜のことをどう思っただろう。
逃げるように言ってくれたのは彼だけれど、何もできなかった黒竜を疎ましく思っても仕方がない。
もう会いたくないと思っていて、当然だ。
黒竜は、怖かった。
言葉を知って、知識を得て。「ヴィゼ」と呼び捨てにはできず、初めて手を差し伸べてくれた彼を「あるじ」と呼ぶようになって。その彼に拒絶されることが、何よりも恐ろしかった。
でも、側にはいたくて。
力を身につけた今なら、少しくらい、彼の役に立てる。守ることはきっとできる。
そう思って、影の中にいた。
師である白竜と過ごす時は<影>が、それ以外の時は黒竜自身が。
影の中にいれば、あの時のように彼の迷惑になることもないと思った。
そうやって、彼が国を出、戦士となり、仲間を得て活躍する様を、ずっとずっと見守っていた――。
「あるじ……」
懐かしく、悲しい夢を見ていたように思いながら、クロウはぱちりと目を開けた。
正面には、見慣れ始めた天井の木目。
窓から見える太陽は、朝の遅い時間であることを示している。
「わたし……、」
生きている、とクロウは思った。
あの赤竜に負けたのに、生きている。
レヴァーレが治療してくれたのだ、と思い出した。
いつ人の形に戻ったのか覚えていないけれど、傷はほとんど完治している。
それから。
「わたし――」
そうだ、知られてしまったのだ。
ヴィゼたちに、黒竜であることを。
――もう、ここにはいられない。
鋭いもので刺されたように、胸が痛んだ。
クロウはむくりと起き上がり、くらくらとする頭に手を添えた。
結ばれていない黒髪が、さらりと前に流れてくる。
それを抑えて、左手首にブレスレットがないことに、すぐに気付いた。
慌てて枕元も確認するが、やはり見当たらない。
まずい、と思った。
魔力はまだ回復していないが、底をついているわけではない。弱っている今、ナーエを近付けないように、己の力をきちんと抑えておける自信はなかった。
それに、一体何日意識を失っていたのか。
あのブレスレットが奪われたのだとしたら、インウィディアはあれが己の目的のものではないと気付いた時、また襲ってくるだろう。
ヴィゼを、仲間たちをこれ以上巻き込んではいけない。
皆は、共に戦おうと言ってくれた。
けれど、それも、もう……。
クロウはふらつく体を自覚しながら、ベッドからおりた。
早くここから出ていかなくてはならない、と思う。
窓を開けて飛び出しかけ、クロウは一瞬躊躇って、<影>を本拠地の影に忍ばせた。
そして、姿を消した。
クロウの気配が本拠地からなくなったことに、ヴィゼはすぐに気付いた。
クロウが倒れてから五日。
さすがにヴィゼの精神も落ち着いて、クロウに四六時中張り付くのは止め、研究室で対決のための準備を進めていた。
食料が尽きてきたので、他のメンバーは買い出しに出ている。
ヴィゼが残ったのはクロウが起きた時のためだが、他のメンバーが全員で出掛けたのは、外出の方が今は危険だからだ。
とはいえ、いまだ協会の警戒が厳しい中なので大丈夫だろうと、ラーフリールやセーラも一緒である。
セーラには対インウィディア・ロート戦のための外での準備の手伝いを頼んであって、上手くいったかどうか、心配しながらヴィゼは己の作業をしていたところだった。
「クロウ……?」
クロウの気配が消えたと認識した瞬間、ヴィゼは血の気が引くのが分かった。
乱暴に立ち上がり、研究室からクロウの部屋へと真っ直ぐに駆ける。
ノックをするような余裕はなく、力任せに開け放ったドアの向こうには、誰もいない。
ベッドの上は空っぽで、ヴィゼは膝から崩れ落ちそうになった。
それを何とか堪え、彼は必死で頭を働かせる。
クロウは今出て行ったばかり――だが、どこへ行ったかも分からないのに追いつけるかどうか。
何も言わずに出ていったということは、その気配を辿れないようにしているだろう。
しかも彼女は、影に潜めるのだ。
通常の方法では彼女を連れ戻すのは困難に過ぎる。
「どうして……」
思わずその言葉を漏らして、けれどヴィゼの中に、とっくにその答えはあった。
――クロウは黒竜で、ルキスだった。だから、いられないと思ったんだ。
だけど、これまで僕たちはちゃんと仲間だったじゃないか。
過ごした時間は長くないけれど、それはきっとクロウだって分かっていたはずなのに。
「クロウ……、戻って来て。<影>を、ここに置いていったんじゃない? 聞いているんだろう?」
誰もいない部屋。
ヴィゼは足下の影を見つめて、語りかけた。
「君が何者でも……、僕たちの仲間だってことに変わりはない。だから、戻って来てほしい。君がいないのは、嫌なんだ。僕はもう二度と、君を失いたくない。もしまた君を失うくらいなら……、死んだ方がマシだ」
そう言ってヴィゼがその手に作り出したのは、鋭く尖った氷のナイフだった。
「君が戻って来ないなら、僕はここで死ぬ」
クロウが本当にヴィゼの言葉を聞いているかどうか分からない。
けれどヴィゼは、影の中ずっと側にいてくれたクロウを信じた。
信じて死ぬなら、それも良いと思った。
ヴィゼがこれまで生きてこられたのは、クロウ――黒竜の存在があったからだ。
彼女に会いたい気持ちが、ヴィゼに絶望を乗り越えさせ、その命を繋いだ。
その彼女を再び失ってしまうことに、ヴィゼはもう耐えられない。
ヴィゼを大切に思ってくれる仲間たちには申し訳なくも思う。
だが、それがヴィゼの本音だった。
彼女のいない自分自身の生には、何の執着も感じられない、と。
だからその手は、躊躇しなかった。
ヴィゼは首筋に、その切っ先をあてがう。
その手にさらに力が込められて――。




