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黒水晶の竜  作者: 隠居 彼方
第1部 修復士と黒竜

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27 少年と黒竜



 十二歳のヴィゼは、母を亡くしたばかりだった。

 殺されたのだ。

 ヴィゼの父を憎む者による、復讐だった。


 ヴィゼの父は、フルス王国の一領主。

 由緒ある血筋を持つ家柄に生まれ、それに奢り、権力を笠に来て欲のままに振る舞う最低の人間だった。

 領民たちから必要以上に税を取り立て贅沢三昧、気に入った女がいれば無理矢理にでも妾にし、自分に心地良い言葉をくれる者を取り立て、逆らう者には容赦をしなかった。


 領民は皆、そんな領主を恐れると共に憎んでいた。

 ヴィゼの母を刺したのは、そんな領民の一人。

 誰でもいいから領主の家族をと、そうして殺されたのがヴィゼの母だった。


 だが、彼女とて被害者だったのだ。

 一農民だった彼女は逆らうことなどできず無理矢理妾にされ、そうだというのにすぐに飽きられた。

 だから、殺されたと聞いても領主は覚えてもいなかったかもしれない。


 いっそ母を解放してくれていたらと、ヴィゼは何度も思った。

 しかし、彼女は領主の子を――しかも男児を身籠ってしまったために、離れ去ることも許されずにいたのである。

 それなりの経緯はあったようだが、結局のところ、殺すことはいつでもできるので、生かしておけば使い道はいくらでもあると、ヴィゼと母は飼い殺されたのだ。

 粗末な小屋に押し込められるようにして、ヴィゼと母は質素な生活を送っていた。


 とはいえ、それは、幸せな生活だった。

 領主は横暴だったが、母のこともヴィゼのことも忘れ去っているらしい彼がわざわざ訪れてくるようなことはなかったからだ。

 それでも家臣の誰かが最低限とはいえ二人の生活に必要なものは手配してくれたので、餓えることもなかった。

 滅多に他人と関わることのない、だからこそ穏やかな日々……。


 それがいつか終わってしまうことを、ヴィゼは知っていた。

 十二にもなれば、母が話してくれなくとも、自分で十分に情報を集めることはできたから。

 いつか自分と母は殺されるか、奴隷のように扱われ、死ぬまで使い潰されるのだろうと、ヴィゼは結論できてしまっていた。

 このぬるま湯のような生活は、ヴィゼがまだ子どもだから続いているのだ。

 ヴィゼが成長すれば、大人たちは彼の使い道を、母の使い道を新たに考えるようになる……。


 いっそこのまま、誰もが母と自分のことを忘れ去ってくれたら。

 そうしたら、逃げてしまえるのに。


 ――いや、大人になったら、何としてでも逃げなくてはいけない。


 ヴィゼは子どもながらに、母を守って生き延びる術を必死に考えていた。


 それなのに、ヴィゼが大人になる前に、母は殺されてしまった。

 ヴィゼの、たったひとりの家族。

 悍ましい男の血を引いたヴィゼに、愛情を注いでくれた唯一の人。



 ――母さん……。



 そうして、ひとりぼっちになったヴィゼは、ふらふらと領地を彷徨い歩いていた。

 食事も睡眠もとる気になれなくて、ただぼんやりと虚空を見つめて過ごし、いつの間にか外へ出ていたのだ。


 そこで彼は、今にも崩れ落ちてしまいそうな廃墟を見つける。

 その床石に、長い魔術式が一つ描かれていた。


 ふと興味を持って、ヴィゼはそれをなぞった。

 それまでの彼の人生で魔術に関わることなどほとんどなかったが、とても神秘的で美しいように思われたのだ。


 するとその魔術式が浮かび上がって発光し、驚いたヴィゼは尻餅をついた。

 そんなヴィゼの目の前、浮かび上がった魔術式は一瞬にして消え失せ、その代わりに――一体の幻獣が、そこにいた。


 鋭い牙と爪を持ち、黒く光る鱗を身に纏う――竜が。


 黒い竜はヴィゼより少し大きいくらいの背丈で、けれど体の厚みはヴィゼよりもずっとあった。


 初めて見る幻獣に、ヴィゼは食べられてしまう、と思った。

 けれど目は逸らせなかった。

 黒竜は、とても美しいものとして彼の目に映ったから。

 こんなに美しいものが食べてくれるのなら、それもいいのではないか、とまで思った。


 瞬きもせず、人の子どもと黒竜は見つめ合う。


 しばらくして、ヴィゼは気付いた。

 ヴィゼを襲うそぶりを少しも見せない黒竜の瞳。

 それは、怯えた色をしていた。ひどく傷ついた色をしていた。


 同じだ、とヴィゼは思った。

 ヴィゼと同じ、孤独の瞳。


 気付けば、ヴィゼはそっと黒竜に手を伸ばしていた。

 鋭い爪をもつ黒竜の手はヴィゼが予想したよりもずっと温かく、少年の手を傷つけようと動くこともなかった。


「君も、ひとりなの?」


 ヴィゼが問えば、黒竜は驚いたようだ。

 ぱちり、ぱちりと瞬く。


「あのさ……、それなら、僕の、家族にならない?」


 黒竜は応えない。ヴィゼの意図を理解しているのかも分からない。

 むしろ、口にしたヴィゼ自身が己の発言に戸惑っていたくらいだから、反応がないのも当然だった。


 ヴィゼは頭を捻って、母がしてくれた昔話を思い出す。


 ――幻獣を召喚したら、魔術士は契約を結ぶんだ。それで、相手の名前を呼ぶ……。


「ええっと……、君の名前は? 僕はヴィゼ」


 名乗るがやはり、黒竜はじっとして動かない。

 ヴィゼは困ってしまったが、少し考えて告げた。


「それじゃ……、君のことは、ルキスって呼ぶね。いいかな」


 黒い宝石のような竜の瞳が、何だか輝いたように見えて、ヴィゼはそれを了承と受け取った。


「ルキス――僕たち、今日から、家族だ!」




 ヴィゼとルキスは、夜になってからその廃墟を抜け出した。

 黒竜の姿を他の人間に見られてしまえば大騒ぎになるので、日中は動くことができなかったのだ。

 ルキスの体色は夜に溶け込んで、誰にも気付かれずヴィゼは家に戻ることができた。


 母が亡くなってからもヴィゼがほとんど放置されている状況は変わらず、ルキスと暮らしていくのに不都合はなかった。

 食料等は以前と変わらず運ばれてきたので、それにだけ気をつけていればよかった。


 大人たちに気付かれず、ヴィゼとルキスの生活は続いた。

 少ない食事を分け合い、寄り添って眠る。昼間は外に出られないので、人のいない夜に二人で散歩をした。


 ルキスが話せないので意思疎通の難しいこともあったが、黒竜の瞳は雄弁にその心を語るようで、ヴィゼはじっとその瞳を覗きこみ、その心を知ろうと努めた。

 ルキスも同じように、ヴィゼの心を知ろうとしてくれているように感じていた。

 無言で見つめ合っていると、言葉などなくても、通じ合っているように思えた。


 そんなルキスとの日々が、ヴィゼの心を癒し、満たしてくれた。

 母を亡くしてぽっかりと空いた心を、ルキスが埋めてくれたのだ。

 ヴィゼ自身もルキスにとってそういう存在であれたら、と思いながら、毎日を過ごしていた。


 けれど、ヴィゼとルキスが共に在れたのは、そう長い時間ではなかった。

 黒竜の存在に、気付かれてしまったのだ。

 いつそうなってもおかしくなく、むしろ数ヶ月も気付かれなかったことの方がおかしかったのだが、その事実はとても残酷に二人を襲った。




 黒竜の存在に気付き、手中にしようと画策したのは、ヴィゼの父である領主だった。

 領主は黒竜だけでなく、魔術士としてのヴィゼも欲した。

 ヴィゼが黒竜を召喚したのだと考え、それほどの魔術士であればと、手駒に加えようとしたのである。


 当然ながら、ヴィゼにとって、母が殺される原因となった父に仕えることなど、考慮にも値しない。

 ヴィゼはルキスと共に逃げようとしたが、捕える相手が黒竜だというので、兵たちの体勢は万全だった。

 まだ少年だったヴィゼは抵抗するすべを持たず、二人に剣先が向けられた。

 殺害を命じられてきたのであれば、ヴィゼの首など容易く刎ねられていただろう。

 それでも、黒竜ならば、あの状況でもどうにかできたかもしれない。

 実際ルキスは、ヴィゼが組み伏せられると、それをした兵に襲いかかろうとした。

 襲いかかろうとして……、他の兵士に後ろから斬りつけられた。

 それは鱗に跳ね返されたが、ヴィゼは血の気が引いて、叫んだ。


「逃げて、ルキス! 君だけでも、逃げるんだ……!」


 必死で訴えたヴィゼの口を、兵士が塞ごうとする。

 それを見て再び牙を剥こうとしたルキスへ、攻撃魔術が浴びせられた。

 攻撃を避けるためか、ルキスが飛び上がる。


「そのまま、逃げて……!」


 ルキスは躊躇っているように見えた。

 けれど攻撃が繰り返され、ルキスはヴィゼに背を向ける。

 そのまま、その姿はみるみる内に小さくなった。

 いくら兵の数が多くても、どうにかできる高度とスピードではない。

 そして、その黒い背は、すぐに見えなくなってしまった。


 捕まっていたら、領主が黒竜をどう扱ったか分からない。

 だから良かった、とヴィゼは思った。

 だが同時に、行ってしまった、と涙が零れた。


 ルキスは、行ってしまった――。




 ヴィゼはそのまま領主の元へ連れていかれた。

 黒竜を逃がしたヴィゼに領主は腹を立てていたが、ヴィゼがいればまた竜を喚び出せると考えたようだ。

 領主に仕える魔術士となり、その命に従うよう、ヴィゼは強要された。


 強欲な領主は、ヴィゼの力を利用し、さらなる権力と富を己のものとしたかったようだ。

 強力な力で魔物から領民を守るというのではなく、他領に攻め入り領地を増やし、いつかは王位まで……、と、そんなあらぬ妄想まで抱えていた。


 母とルキス。ヴィゼにとって大事なものを失わせた、その原因である男の、そんな欲望を叶えてやる義理はない。


 だがその時のヴィゼに逆らう力はなく、実父でもある男に強い怒りと憎しみを覚えながら、従順な振りをして嘘を並べたてた。


 曰く、「黒竜を呼び出せたのは偶然である。未熟な自分では同じように竜は喚び出せないし、もし召喚できても上手く制御できない。今回も他の者に何かあっては問題だと思って近付けまいとしたのだが、兵が聞く耳を持たなかったため逃がした。再び竜を召喚するには時期尚早で、魔術をもっと学ぶ必要がある。時間と師を与えてもらえるなら、また竜を召喚できるかもしれない。竜とまではいかずともそれに準ずる幻獣を召喚し、制御して領主の役に立てるようにしよう」と。


 本当に自身が魔術士になれるかどうかも分かっていなかったヴィゼの言葉を、領主は興味深く聞いた。

 そして、ヴィゼに師と魔術に関する書物を与えたのである。

 憎む相手から与えられたものであるということに目を瞑って、その日からヴィゼは魔術の全てを吸収する勢いで呑み込んだ。

 領主の欲を満たすためでは、もちろんない。


 もう一度、ルキスに会うために。


 幸いなことに、ヴィゼには才能があった。生まれつき魔力の保有量も多かった。

 あの時魔術式を発動させられたのは、そのためだったのだ。


 ヴィゼはめきめきと魔術士として力をつけていった。

 領主の命令を聞かなくてはならないこともあったが、目的のためにどんな命令でも淡々とこなした。


 その傍ら、ヴィゼは領主を失脚させようと情報を集めた。

 いずれはと元より考えていたのだが、実力をつければつけるほど領主の与えるものでは目的の達成には足りないと明らかになり、ヴィゼは事を急いだ。


 領主は悪事を重ねているものの、証拠らしい証拠を残さない狡猾さをも持ち合わせており、歯噛みすることも多かったが、ヴィゼは奮闘し、二年余りの年月で何とか失脚させられるものを手に入れる。


 領主には同類の味方が多かった反面、反目する貴族も多く、国王ですらうんざりしていたのだが、尻尾を掴めず手を出しかねていた。

 ヴィゼはそれを知っていたから、直接王宮へ赴き、不正の証拠を提出して領主の断罪を求めた。

 ヴィゼも領主の命令から逃れられずその一部に加担していたが、それらの証拠と引き換えに、国外退去で許されることとなる。


 そして、ヴィゼがフルス王国を去る頃、領主は処刑された。

 ヴィゼは父親を死に追いやったと言えるが、良心は全く痛まなかった。


 その後ヴィゼは隣国モンスベルクへ赴き、十五歳という若さで戦士として協会へ登録。

 魔術士として、修復士として活躍しながら、召喚魔術の研究を進めた。


 ただ、ルキスとの再会のために――。


 ルキスを召喚することを、迷わなかったわけではない。

 何度も何度も呼んだのに、ルキスはヴィゼの元に戻ってこなかったから、もうヴィゼの顔も見たくないのかもしれないと悩んだ。

 魔術を学んで、とっくにルキスとの契約が切れていることを知って、破棄されてしまったのかと落ち込んだこともあった。


 だがそれも当然のこと。あれほど大勢の人間がルキスを攻撃したのだ。もう人間には近付きたくないと思う方が普通だった。

 それならば、ヴィゼがルキスを追い求めることは、ルキスにとって迷惑でしかない。

 分かっていて、それでも、ヴィゼは諦めきれなかった。


 ルキスと過ごしたのは、ほんのわずかな間のこと。

 けれど、ヴィゼにとってそれは、決して忘れ得ない、かけがえのない時間。

 その時間を、取り戻したい。

 そう、家族を、取り返すのだ。

 ヴィゼに残された唯一の家族を。


 どれだけの時を費やしても構わない。

 誰に罵られても構わない。

 邪魔する者はいくらでも蹴散らそう。


 ルキス本人にすら、罵倒されても、最悪、殺されてしまうとしても。


 この願いを叶えるためならば、何だってしてやろう……。


 その一心で、ヴィゼはここまで来た。


 そして、クロウと出会った――。




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