25 黒の少女と正体①
「クロウ!」
悲鳴を上げるように名前を呼んで、ヴィゼは倒れ伏すクロウに一目散に駆け寄った。
周囲には既に敵の気配はなく、ただその小さな影だけを目指す。
「クロウ……、」
剥き出しになった地面に倒れる黒い人影はひどく目立つ。
そこから広がる赤い面積に、ヴィゼは蒼白になった。
セーラも人型をとっていれば、血の気の引いた顔になっていただろう。
ただ今は衝撃にその瞳を揺らして、ヴィゼに続く。
「クロウ……」
ヴィゼはクロウの横に膝をつくと、そっと呼びかけた。
息はある――けれどクロウは応えない。
ヴィゼは慎重に、彼女の傷を確かめた。
『こんな、ひどい……』
セーラが息を呑んだのも当然で、クロウの右腕は半ばちぎれかけていたし、腹部の傷も深く、出血が多い。
痛みや出血でショック死していないのが不思議な程で、ヴィゼは胸が潰れそうになるのを堪えながら、その傷に手のひらをかざした。
魔術式が宙に光って消え、その優しい色の光の粒子は、クロウに降り注ぐかのようだ。
ヴィゼが治療を始めたのにはっとして、セーラも周囲の木々に願う。
クロウの傷が癒えるよう、力を貸してほしいと。
しかし、二人の治療魔術で出血は抑えられたが、傷を全て塞ぐまでには至らない。
「……これだけじゃ駄目だ……」
治療を続けながら、ヴィゼは呻いた。
「レヴァにもっとちゃんとした治療魔術をかけてもらわないと――」
ヴィゼが習得している治療魔術は、簡単な傷を治す程度のものだ。
これほど深いものになると、気休めよりは少しマシ、程度にしか効かない。
セーラの魔術もクロウの自己治癒力を上げてくれてはいるが、ここまで傷が深いと劇的な回復など望むべくもなかった。
『でも……、』
眉を曇らせたセーラは言いかけて、呑みこんだ。
クロウを本拠地まで運ぶには彼女に負担がかかり過ぎる。
だからといってここにレヴァーレを呼んで来てもらうのに、一体どれだけかかるか。
しかしヴィゼにはそんなこと分かりきっているはずであるし、彼女としても絶望的な状況を認めたくなかったのだ。
そんなセーラに、ヴィゼは告げる。
「――転移魔術を使おう。セーラ、しばらく治療を任せる」
『は、はい……!』
ヴィゼは立ち上がると、木製の指輪を抜き取り、破壊する。
すると、宙に魔術式が描かれた。指輪は、こういう時のために身に着けていた魔術具だったのだ。
荷物持ちをする予定だったので杖を置いてきたのだが、いつ敵に襲われるとも知れない状況だ。準備が整うまでは敵と遭遇しても逃げられるように、これを持ってきてあったのである。
「リーダー、」
そこへゼエンが追いついてきて、クロウの状態に絶句した。
ヴィゼは振り返りもせず、一つ尋ねる。
「……御大、クロウの<影>はどうなった?」
「急に消えてしまったので、リーダーたちを追いかけてきたのですが……」
そうか、とだけヴィゼは頷いた。
ヴィゼは魔術式にいくつかの文字を追加し、ゼエンに向き直る。
「御大、今から僕たちは本拠地に戻ってクロウの治療にあたる。多分すぐに協会が駆け付けてくると思うから、上手く誤魔化してくれる?」
「分かりました」
目立つ方法でやって来てしまったから、協会からの追究は避けられないだろう。
しかし、白竜の遺産のことや召喚魔術について協会に知られてしまうわけにはいかない。
ゼエンにその対処を頼んで、ヴィゼは魔術式を完成させる。
「セーラ、一瞬変な感じがすると思うけど、そのまま治療を」
『はい!』
そして、次の瞬間には――ヴィゼとセーラ、重症のクロウは、本拠地に場所を移していた。
『ここは……、鍛錬場……?』
「何かあったら戻れるように、結界に魔術式が組み込んであるんだ」
ヴィゼは淡々と答え、再びクロウに手をかざす。
そんなヴィゼの向かいでクロウへの治療を続けながら、セーラの内心は驚きでいっぱいになっていた。
――先輩がいたから分かってたけど、やっぱりヴィゼさんはすごい人なんだ……。
このような空間移動の魔術は、幻獣の中でも使えるモノが限られる。人でもそのはずで、それを容易く扱ってしまうヴィゼに、セーラは驚嘆を隠せない。
「ヴィゼやん、どうしたん……!?」
わざわざ呼びに行かずとも、本拠地内で魔術の行使を感じたレヴァーレは様子を見に現れるはずだ、と考えていたヴィゼの予想通り、レヴァーレはすぐに出てきてくれた。
彼女はクロウの姿にはっと息を呑むと、振り返って窓の方へ「あっちへ行け」と手を振る。
窓の向こうにはエイバとラーフリールがいて、幼い娘にクロウの傷ついた姿を見せないようにしたのだ。
エイバが娘を連れて部屋の中へ入って行くのは見送らず、レヴァーレはセーラの隣に膝をついた。
「ヴィゼやん、セーラやん、替わるわ」
事情も聞かず、毅然とした面持ちで、レヴァーレはクロウに手を伸ばす。
彼女が袖をまくったその下に、手首から肘までを覆う手甲。
ホリー(柊)とコーラルを加工し作られたそれには、ヴィゼの杖と同じようにびっしりと古文字が刻まれていた。
医療に関する魔術式は多くある。レヴァーレはそれを喚び出す為、常時両腕にその手甲を装着していた。
魔術式を用いてレヴァーレが治療を施すのを、ヴィゼとセーラは食い入るように見つめる。
その視線の先。
「……まずいな。えらい抵抗が大きいわ」
少ししてレヴァーレが眉を顰めて告げた言葉に、ヴィゼは顔を強張らせた。
レヴァーレはその防御と医療魔術の確かさを讃えられ、<守護女神><癒しの太陽>と呼ばれており、ヴィゼは彼女以上の医療魔術の使い手を知らない。
その彼女が苦い顔をするのに、ますます不吉の影は濃くなるようだ。
「傷からしても、クロやんをやったんは赤竜ちゅう兄さんやね? その魔力、やな。治療の邪魔しとる。クロやんも魔力が大分エンプティになっとって、その邪魔を払いのけられんのや。ヴィゼやん、クロやんに魔力供給したって」
「分かった」
ヴィゼはクロウの手をとって、自分の魔力を送り始める。
息を詰めて見守るセーラは、このままでは三人ともに危ういのではないか、という想像を振り切れなかった。
赤竜の魔力に対抗するには、人の魔力ではきっと弱い。
かといってセーラが助けに入ったところで、ヴィゼたちよりも魔力のない彼女が、一体どれだけの助けになれるか。
『……先輩、先輩、どうか起きて下さい』
クロウを助けるために、セーラは呼びかけた。
『先輩、先輩……、クロウさん……!』
「う……、」
何度もセーラが呼んだ時だった。
レヴァーレの治療が少しずつではあるが効いてきたせいもあるだろう。
小さくクロウが呻いて、薄く目を開く。
「ある、じ……」
掠れた声を発して、クロウはごほごほと咳き込んだ。
血に噎せたようで、その口から大量の血が吐き出される。
「クロウ……!」「クロやん……!」
わたし、とクロウはかすむ視界の中、現状を把握しようとした。
――本拠地? わたしは……。
負けたのだ、とクロウは心の中で呟く。
けれど。
「みんな、無事、だな……」
それが、果たされているのなら、良い。
虚ろな瞳が、ほんのわずか細められる。
人の心配をしている状態ではないのにと、ヴィゼとレヴァーレが唇を噛んで、それはクロウの瞳には映らない。
『先輩、先輩――』
今にも再びその意識が闇に落ちていこうとして、クロウは切実な声に引き止められた。
『後輩、か……』
概念送受は言葉を発するよりずっと楽で、クロウは振り向けないまま、背中の側にいるセーラの気配に答える。
『先輩、どうか、元の姿に戻ってください……!』
何を言うのだ、とクロウは体を強張らせた。
『……世界の境界が近付く。ここに綻びができてしまう。駄目だ』
『綻びならヴィゼさんが修復してくれます! 今はそうしないと、先輩の命が……! それに、レヴァさんとヴィゼさんも、魔力を消費し過ぎちゃう……!』
泣きそうな声で訴えられ、クロウははっとした。
感覚が、大分なくなっている。
だが、痛みを和らげてくれているのは、レヴァーレで。
指先から伝わってくる温かいこれは、ヴィゼの魔力なのか。
――わたしのために……、わたしなんかの、ために……。
『魔術を解けば、その分の魔力で回復できるはずです!』
セーラは一生懸命訴えたが、クロウは即答できなかった。
嫌だと、言いたい。是とは、言えない。
けれど、それはただの保身でしかない――。
『私……、まだ皆さんと少ししか過ごせてないですけど、皆さんのことが好きです。皆さんと一緒の、温かい空気の中にいられることが、幸せだって、思うんです。だから、誰一人として欠けちゃいけないんです。皆で、笑い合っていたいんです。だから、だから……!』
最初はあんなに怯えていたのに、とクロウは思った。
きっとまだ恐ろしいという気持ちもあるだろうに、精一杯の気持ちをぶつけてくるセーラは、自分よりもずっと強い、と。
――わたしはこわい。
ヴィゼはきっと、見たくもないはずだ。
笑い合うなんて、もう、できなくなってしまうだろう。
だからこのままでいたい。
けれどそんなわがままで、ヴィゼがクロウのために無理をするなんて、論外だ。
クロウは葛藤に苛まれて、身体を縮めた。
「あるじ……」
う、と声が詰まった。
目の淵に、熱を感じる。
涙が、嗚咽が、漏れてしまいそうだ。
「クロウ、痛みがひどいの?」
心配そうなヴィゼの顔が、クロウを覗きこんで。
指先を握る手に、力が込められるのが分かった。
――こわい、あるじ、こわいよ……。
怖いのは、死ではなくて。
優しいヴィゼのその顔が歪んで、この手を冷たく突き放されてしまうことだった。
だが、それよりももっと怖いものがある。
それは、この、触れてくれる指先に、温度がなくなってしまうことだ。
だから。
『――分かった……』
ようやく、クロウは背後の小さな仲間に向かってそう告げた。
クロウの選択は、きっと彼女の願いを叶えることはできないけれど……。
「あるじ……、ごめんなさい……」
覚悟を決めて、クロウは謝罪する。
「クロウ……?」
「わたし……、ずっと、だましていた……、あるじを……、みんなを……」
涙が次々と頬を伝い落ちていくが、今はどうやってそれを止めればいいのか分からない。
「クロウ……」
魘されている、とヴィゼはさらにクロウの手を強く握る。
ひどく悲しい涙に、ヴィゼの方が痛かった。
「大丈夫だから、」
「そやで。やからクロやん、あんま話したらあかん。思い詰めんでええんよ。今は治療に集中して」
レヴァーレの労わるような声に、クロウは小さく首を振った。
許してほしいと言いたかった。
嫌いにならないでと言いたかった。
けれどそんなことは、言う資格もないのだ。
『みんな……、もう、無理しなくていい』
ヴィゼとレヴァーレとセーラと。クロウは三人の頭の中に声を響かせる。
『わたしから離れてくれ』
「クロウ……?」
瞳を閉じたのは、驚きの表情が嫌悪に変わる瞬間を見たくないから。
敏いヴィゼには、もう分かってしまったかもしれない――。
けれど、手は離れていかなくて。
痛みを堪えて、クロウはヴィゼの手を振り払った。
「クロウ……!?」
『ヴィゼさん、レヴァさん、後ろに下がってください!』
焦ったようなヴィゼの声に、セーラの声が重なる。
温度が、遠ざかった。
クロウはほんの少しだけ目を開けて、三人との距離を確認して。
――ああ、この空気の感じ……あの魔術か、懐かしいな……。
ヴィゼが使用した移動魔術の気配を感じ取り、クロウはほんのわずか、口の端を持ち上げた。
そして、かすむ視界に映る、ヴィゼの姿。
――空間のわずかな揺らぎと、あるじと、その視線の先に、わたし……。まるで過去に戻ったみたいだ。
思いながら、クロウは己の姿を人の形に固定していた魔術を解いた。
みるみるうちに、クロウの影は大きく、大きくなって――。
「黒い、竜……?」
目を見開いて呟いたのは、レヴァーレだった。
<黒水晶>の中庭に横たわるのは、幻獣。
ゆうに人の十倍はある体を鱗が多い、手足の爪は鋭く、口元からは牙が覗く。
背にはたたまれた翼、長い尾は力なく垂れている。
全身の鱗は、黒々と輝いて。
しかし、肩から腹にかけて傷があり、血でしとどに濡れている。
その傷口はぴたりとクロウのものと重なって、クロウとその黒竜が同一のものであることを示していた。
『レヴァさん、治療の続きをお願いします!』
変化が落ち着きセーラが声をかけると、レヴァーレははっとして黒竜に駆け寄る。
しかしヴィゼはただ、茫然と立ち尽くすしかなく。
再び意識を失った黒竜の目から、宝石のような黒を写し取った滴が流れる。
それを、揺れる瞳に映して、ヴィゼは呼んだ。声にならない声で。
クロウ、ではなく。
「――ルキス――」
と、そう。




