24 黒の少女と赤竜
「……エイバも、クロウが謝り倒しそうだったからわざとはっちゃけたんだろうけど……、もっとマシなことは言えなかったのかな……」
なるべく本拠地にいること、とメンバーに告げた翌日だったが、ヴィゼは外出していた。
インウィディアとロートを迎え撃つ準備をするため、早朝から出る必要があったのだ。
整えられた道を行くヴィゼの隣を歩くのは、ゼエンと、少女の姿をしたセーラである。
護衛を自任するクロウがヴィゼについてきていないのは、彼女が本拠地を出るのが一番危険だと危惧されたからだった。見送りの際の彼女は非常に不本意そうな表情を浮かべていたが、<影>はもちろんヴィゼにつけている。
太陽が昇り人々の営みを促す頃には用を済ませたヴィゼたちは、今は市場に向かう途中だ。
そもそもゼエンは買い出しが目的で、セーラはこんな時ではあるが市場を見てみたいとついてきたのである。
市場まではもう少し距離があったが、家並を見ているだけで面白いらしく、先ほどからセーラはきょろきょろと忙しそうだ。
ヴィゼの一言は、そんな道中で昨晩のことを思い出してのものだった。
普段からエイバの軽口に救われるところはあるのだが、幻獣の世界からやってきた新たな仲間に早々と人間の妙な部分を披露するのは遠慮してほしいものである。
「まあ良いのではないですかな。あの二人はあれでコミュニケーションをとっているようですし、実際昨晩、クロウ殿は俯かずに『おやすみ』と」
「……うん。後は、あの白蛇男と赤竜をどうにかして、皆が無事であれば……」
誰かが大きな怪我でも負えば、おそらくクロウは自分を責める。
ヴィゼはいまだに思い出せないけれど、迷惑をかけたと、彼女が昔のことを今でもずっと引きずっているように。
――迷惑をかけると怯えている、か……。
それはまるで、ヴィゼと同じ。
ふとそう思って、ヴィゼは眉を顰めた。
やがて、道の向こうに市場が見えてくる。
『――わあ、あれですね! 市場!』
セーラがぴょんぴょんと跳ねる。
急くようなセーラに合わせてヴィゼとゼエンも早足になれば、道の様相ががらりと変わるまで、すぐだった。
通りの両脇に、ずらりと並ぶ店の数々と、客寄せの声。
客が行き交う市場は活況を呈し、セーラの緑の瞳が輝いた。
『人がいっぱいいます!』
少女の元気な声が頭に響く。
考えごとを忘れ、ヴィゼは微笑んだ。
決戦の前だからこそ余計に、純粋に喜ぶセーラの姿に癒されるような気持ちになる。
『お金というもので物を購う……、人間って本当に面白いですね』
人混みの中を歩きながら、セーラは弾むような声で呟いた。
当然のことではあるが、彼女の声を聞いているのはヴィゼとゼエンのみである。
何も知らない第三者が彼女の声を聞いてしまったら、頭に響くようなそれに、ひどく混乱することだろう。
セーラがあっちこっちに目移りして忙しそうな傍らで、ゼエンは手際よく店を回っていった。どこに何の店があって、どの店に行けば目的のものを一番安く買えるのか、彼は全て把握しているのである。
ゼエンが次々と購入していく食料を抱えて、ヴィゼはただついていくばかりだ。
セーラが様子を一変させたのは、そんな買い物の最中だった。
『ヴィゼさん……』
セーラは自分の肩を抱き、不安そうにヴィゼを呼んだ。
『セーラ?』
『樹が、怯える声が……、大きな魔力の気配を、感じます――』
はっ、とヴィゼとゼエンは顔を上げた。
二人も、それを感じたのである。
買い物に来ている周囲の戦士も、顔を険しくしている。
『赤竜様です――!』
「こんな街の側で魔力を解放してる!? ここに綻びをつくる気か……!?」
ヴィゼは咄嗟に荷物を下ろし、気配に向かって走り出しかけた。
「あるじ、だめ」
しかし、ぐいと後ろからローブを引っ張られ、たたらを踏む。
振り返れば、クロウが――いや、クロウの<影>が、ヴィゼの背後に立っていた。
戦士たちの様子に一般の人々は不安そうな顔で、<影>が突然現れたことには気付いていないようである。
「三人とも、帰る。危ない」
「クロウ、だけど、放っておくわけには……!」
「大丈夫」
<影>はそれだけしか言わなかったが、ヴィゼには分かった。
「まさかクロウ、もう向かったのか……!? あれはきっと君を誘き寄せるためだ、戻って!」
「できない」
きっぱりと、クロウの<影>は首を振った。
「あるじ、仲間、危険。わたし、守る」
「……っ」
真っ直ぐな瞳は揺らがない。
ヴィゼは顔を歪め、言い返した。
「君が戻らないなら僕も戻らない」
あるじ、と<影>は非難するようにヴィゼを睨んだ。
セーラの目がはらはらと、そんな二人の顔を交互に映す。
「――御大、」
「はい」
その膠着を破るようにヴィゼが呼んだので、ゼエンは動いた。
ヴィゼに集中していたクロウの<影>は、不意をつかれ、背後に回ったゼエンに脇から抱えられる。
まさかそんな風にされるとは予想もしていなかった彼女は、大きな隙を見せた。
「え、」
「そのまま、よろしく」
その隙をつき、ヴィゼはブーツに設置した魔術式を発動させると、高く跳躍した。
「あるじ、だめ! 御大、あるじを、行かせる、だめ!」
後ろから声が聞こえたが、ヴィゼは唇を引き結んで離れていく。
セーラがそんなヴィゼの後を追ってきて、声を上げた。
『お供します! 足手まといになりそうな時は隠れてますから!』
危険だ、と止めようとしたが、そんなことは百も承知だろう。
「……絶対ね」
念を押すだけ押して、ヴィゼは赤竜の気配を辿った。
魔力を温存するため、セーラは人の視線がないところで元の姿に戻る。
やがて、森の緑が眼下に広がった。
その緑が、ドン、という大きい音と同時に、裂ける。
赤竜だ、と分かった。
「クロウ……!」
ヴィゼは急降下する。
赤竜と比べその気配を薄らとしか感じないクロウを思って、奥歯を噛みしめた。
おそらく、赤竜に誰よりも早く気付いたのはクロウだった。
それはクロウが敏いからというだけではなく、彼女が気付くように赤竜が本拠地のすぐ近くを通って、街の西隣に位置する森へ向かったからでもある。
赤竜が挑発するように近くに降り立ち、その上その魔力を解放し始めたので、クロウはじっとなどしていられなかった。
決断は、一瞬のことで。
共に留守番をしていたエイバやレヴァーレが止める暇もなく、彼女は本拠地を出ていた。
相手がクロウを誘き寄せたいのだとは、理解していたけれど。
しかし、赤竜がその力を行使するつもりなら、今の時点で止められるのはクロウしかいないということもまた、分かっていたのだ。
『貴様……、何を考えている。街を丸ごと潰すつもりか』
体重を感じさせない動作で赤竜の前に降り立ったクロウは、厳しく相手を睨みつけた。
『オマエから例のモンを奪えるなら、何してもいいってさ』
人の形をした赤竜は、そう不敵に笑う。
『狂ったか……!』
『召喚魔術なんて、狂ってなきゃやんねえだろ。人が幻獣と仲良しごっこ? できるわけねえことをやろうとするバカさ』
『……そう見下す相手と何故契約を結んでいる』
『退屈してたからさ。あっちはもう飽きちまった。戦っても戦っても、楽しませてくれやしねえ。こっちには知らねえもんがいっぱいあるし、もしかすると強いヤツがいるかもしれねえ。あの契約主を見てるのもなかなかに愉快だしな。どう壊れてくか、見物だぜ』
『……悪趣味だな』
『そうかあ? でもオマエだって思ってんだろ? アイツは力を求めちゃいるが、子どものないものねだりと同じさ。大きな力に足る器もなければ、それを持つ覚悟もない。そんなヤツが力を欲してどうなるかって、潰れるだけだ。だが、強さを求めるってのは理解できるし、その姿勢自体は嫌いじゃねえ。万一強くなってくれたら、遊び相手にもできる』
クク、という笑い声にクロウは顔を顰めた。
『……貴様の話を聞くのは疲れる。さっさと本題に入れ』
『なんだよ、質問してきたのはそっちだろ? ま、オレもさっさと戦いたいしな』
舌舐めずりをして、赤竜は要求を突きつける。
『契約主が言うには、お前が素直に白竜の遺産を寄こすなら手を出すなとさ。オマエの仲間たちにもな。だが、断るならこのまま魔力で街ごとぶっとばして言うこと聞かせていいってよ』
『見境がないな』
『そんだけ壊れかけてんのさ。どんどん壊れてきゃ面白くなりそうだな。こっちの世界丸ごと破壊しろ、とかって命令してくれねえかな。ま、それはおいおいでいいな。返事は?』
『断る』
即答だった。
赤竜は一瞬意外そうな顔になったが、すぐに口の端を上げて見せる。
『オレをちゃんと愉しませられるのか?』
『知らん。だが、わたしはお前を止める』
『威勢はいいけど……、勝てないぜ?』
次の瞬間、赤竜は無造作に、魔力の塊をクロウへ放った。
ち、と舌打ちして、クロウは防御障壁を展開し、何とか防ぐ。
凄まじいパワーの攻撃に、クロウはそれだけで肩を上下させる。
『おいおい、これくらいで疲れてんなよ』
しかし、赤竜は飄々としたものだ。
『魔力を温存してんのか? いくらオマエでも、もっと持ってるはずだろ?』
『わたしまで力を解放してみろ、急激に世界が綻ぶ』
『オマエが気にすることか? それに、人間に修復士ってのがいるんだろ?』
『綻びが大きくなれば修復にはそれだけ時間がかかる! 結界を張るにも時間と力がいる。間に合わなければ幻獣たちが侵入を開始し、大勢の人が殺される』
『だから?』
どうでもいい、と告げる冷酷な赤い瞳が、つまらなそうにクロウを見据えた。
『そうやって人間に媚びるなんざ、くだらねえ。オマエ、マジに弱えな。人間にすり寄らなきゃ、生きていけないわけ?』
『……!』
『白竜も、何を好き好んでオマエみたいなのといたんだか。つうか、白竜とヤりあいたかったぜ。オマエみたいに弱くて媚びるしかできねえようなヤツ、マジつまんねー』
クロウは唇を噛んだ。
右手で、左手首のブレスレットに触れる。
――わたしは、世界を、守るための存在だ。
あるじの生きる、この世界を。
だから。
クロウはブレスレットから手を離した。
赤竜が赤い剣を手にクロウに迫り、黒い剣でそれを防ぐ。
『お、そのまま防いでみせろ』
『くっ』
何度も無造作に赤い剣は振りかぶられ、クロウはそれに耐えた。
――遊ばれている……!
赤竜にはクロウを負かすために打つ手がいくつもある。
本気の力で剣を振るえばそれだけで、クロウは吹っ飛ばされてしまうだろう。
それなのにこうして何度も同じ攻撃を繰り返し、仕留めようとしないのは、クロウをいたぶる意図があるからだ。
その事実に、<影>たちもざわついている。
けれどクロウは、己の<影>に加勢をさせなかった。
クロウはこれ以上彼女たちに竜を斬らせたくなかったし、竜に彼女たちを害されたくなかったのだ。
しかし、そんな感傷は捨てるべき場面か、とクロウは顔を歪める。
――何よりも、あるじを守ることを第一に考えるならば――
逡巡は、クロウの動きを鈍らせた。
赤竜の剣が、彼女に小さな傷をいくつも残す。
『なあおい、オレを止めるんじゃなかったのかよ? 早くしねえと、オレがオマエを殺しちまうぜ? オマエを殺したら、皆喜んでオレに感謝するだろうな。そのオレが言えば――誰か強いヤツ、殺し合いしてくれっかな? そっちの方が愉しめそうだな。よし……、さっさとオマエを殺してもっと強いヤツと殺し合うか』
赤竜は残忍に笑った。
『そういうわけだ。じゃあな』
『……っ!』
赤い剣身が、揺らいだ。
黒い剣を避けるようにそれは二つに分かれ、そのままクロウの体へと向かい、その分かれた剣が彼女を斬る。
クロウは何とか後ろに跳び退ったが、赤の剣の方が速い。
避け損ねた剣先は肩に食い込み、走っていった剣身によって傷つけられた腹からぼたぼたと血が零れ落ちた。
『アビリティか……』
膝をつき、傷ついた腹部を抑えたクロウはそう、呻く。
赤竜の血は武器となり、持ち主の思い通りに操ることができるという。
忘れていたわけではなかったが、まさかこちらの剣をあのように避けてくるとは思わなかった。
『真っ二つにはできなかったか。残念』
赤竜は肩を竦め、剣の柄を握り直す。
クロウの肩に食いこんでいたものがするすると宙を飛んで、もう一度剣身となった。
『今度こそ真っ二つ、っと』
――まずい……!
クロウは何とか回避行動を取ろうとする。
赤竜はその少し離れた位置から剣を振りかぶり、振り下ろした。
剣自体は、クロウにかすりもしない。
しかし、剣から放たれた衝撃波が、クロウを襲った。
それは木々を何十本もなぎ倒し、轟音を上げ、その後の森の静寂を際立たせる。
『あっけねーの。真っ二つどころかミンチにしちまったか? それはそれで、後が面倒……』
剣を鞘に納めた赤竜だったが、ふと眉を顰めた。
土埃が納まってみれば、彼の予測よりも被害が小さかったのだ。
『……防がれたのか? ああ、まだ生きてんな……』
クロウは吹き飛ばされて、剥き出しになった地面に倒れている。
赤竜はゆっくりと近付いて、彼女の周りに血だまりが広がって行くのを無感動に見つめた。
『どうせすぐ死ぬな。めんどくせえからいいか、トドメは』
彼は腰を落とし、ぴくりとも動かないクロウの体を探ると、最後に左手首からブレスレットを抜き取る。
『ふうむ……。こいつか……? ま、違っても多少のご機嫌取りにはなるだろ』
ひとりごちて、赤竜はクロウに背を向けた。
すっかり興味を失った様子で、振り返りもせず、彼は契約主の待つ場所へと姿を消す。
ヴィゼがその場に到着したのは、その直後のことだった。




