15 少年修復士と“呪い”の封印②
――ここは、まさか、ナーエ……?
ヴィゼの目の前には、穏やかな草原が広がっていた。
思わず、懐かしい、と感じて、違和感を覚える。
彼の目に映るのは確かに一面の緑で、草は風に揺れている。
それなのに風の感触も緑の匂いもしなかった。
足元を見れば、下はつるりとした灰色の石、のようである。
少し手前に視線を移すと境界線が横方向に長く長く伸びていて、その向こうが緑へと変わっている。
どうやら、綻びから向こう側を見る時のように、ナーエの景色が映し出されているようだった。
「ここは……?」
ヴィゼはエイバに憑いた“呪い”の正体を知るために、“全視の魔術”を使ったはずだった。
あの魔術を行使して、このように視えたことはこれまでに一度もない。
だが完全におかしいと断じることができるほど、ヴィゼもかの魔術に精通しているわけではなかった。
『わたしの中だ、少年』
戸惑うヴィゼの背後から、声がかけられる。
落ち着いた、アルトの声だ。
その気配に全く気付いていなかったヴィゼは、警戒を露わに振り返る。
そして、目を見開いた。
そこにいたのは、若い女だった。
腰まで届きそうな長い黒髪に、深い闇を瞳に宿した、人間離れした美貌の持ち主である。
身に纏うドレスも闇色で、病的なまでの肌の白さが余計にその黒を際立たせている。
頼りない風情の中には不吉さもあって、ヴィゼはこくりと息を呑んだ。
ヴィゼが目を離せずにいると、女は苦笑した。
そうすると途端に人間味が増して、けれど美しさも匂い立つようで、ヴィゼはどぎまぎとする。
『あまり見つめられると困ってしまうな』
「すみません……」
それでも目が離せずに、ヴィゼは素直に謝っていた。
女が恐ろしい存在であることを肌で感じる。
同時にヴィゼは、女に過剰な恐怖も嫌悪感も警戒心も持てない自分に気付いていた。
何故ならば、成長途中のヴィゼよりも身長があるその人を見上げるように見つめれば、それに重なるように、黒い竜の姿があったからだ。
ヴィゼなど一踏みで潰せてしまいそうな体躯の竜が、彼の目には映っていた。
美しい黒色の鱗を輝かせる竜――それは、ヴィゼが心の底から求める存在と同じ。
負の感情を抱くことは、非常に難しいことだった。
「……あなたは一体……」
『問うより先に名乗るべき、というのが人の礼儀だと聞いているが?』
女の言葉に反抗心も湧かず、ヴィゼは名乗った。
「失礼しました。ヴィゼと言います」
『まあ、それは知っているのだが』
「……」
『許せ、少年。誰かとまともに口を利くのは久しぶりなんだ。そしてこれが、最後になるのだろう』
気にした風もなく、最後と女は口にした。
ヴィゼの方が、その単語に息を呑む。
『少年、きみはわたしを殺しにきた。そうだろう?』
ヴィゼはそれを否定も肯定もできなかった。
ただ悟った――悟らざるを得なかった。
目の前の黒い女こそが、エイバを蝕む“呪い”であること。
女はそれを自覚し、ヴィゼがここに来た理由すら知っていること。
それなのに女は、ヴィゼに敵意を見せるわけでもなく、淡々と、むしろ気安く彼に接する。
『せっかくだ。少しくらい会話を楽しませてくれ』
「あの……、」
『安心しろ。最後にはちゃんとわたしの真名を教える』
優しい微笑に、ヴィゼは二の句が告げなくなる。
『真名と言えば少年、きみは少年だが魔術士だけあってちゃんとしているな。ヴィゼ、というのは真名ではないようだ。きちんと真名を持った人間は珍しいと聞いている』
「……そう、ですね。大異変以前では誰もが真名を持っていたようですが、今の時代に真名のことを理解している人は多くはないです。以前の僕も……それがどれほど重要なものなのか知らなくて……、大切なものを、失うことになりました」
黒い竜である女を目の前に、ヴィゼは隠し立てする必要を感じず、そう言った。
その痛みを感じ取ったように、女はそっと目を伏せる。
『……わたしも失ったよ。最も大切なものを、失った』
女はするりとヴィゼに近付き、その隣に立った。
映し出された光景を目の前に、女は続ける。
『その男は、いつも向こう側からやってきた。草原の向こうから、笑顔でわたしに手を振って、近付いてきた。人間のくせに、竜のわたしを恐れずに、嬉々として……』
懐かしそうに、女は目を細める。
あの男、と言う女の声の柔らかさから、ヴィゼは覚った。
彼女がその男を愛していると察することは、決して難しいことではなかった。
『けれどあの男は殺された。わたしはあの男を、守り切れなかった』
声に悔しさと悲しみと――憎しみが、混じる。
それを首を振って散らすようにして、女は微笑んだ。
『良い男だったよ。おおらかで鷹揚で、優しくて。少し度が過ぎるくらい勉強熱心で。そっちに熱中するあまりその他が適当になることもあって、わたしはよく怒っていたように思う。それでついひどいことを言ってしまって後悔したものだが……、彼は笑って許してくれた。自分の方が悪かったと言って……。それで互いに反省はするんだが、あの男が結局懲りずに同じことをするから、またわたしが拗ねることになったのだよな……』
ふ、と思わずヴィゼは笑ってしまう。
『惚気話ができるのはいいな。少年、きみにはそういう話はないのか?』
女性が恋愛話に目を輝かせるのは竜でも人間でも同じだな、とヴィゼは思った。
「残念ながら、ありませんね」
『つまらないな、少年。この体の持ち主は、今まさに青春真っ最中のようなのだが……聞きたいか?』
「遠慮しておきます」
全く気にならないわけではないが、彼らが順調であるならばヴィゼとしてはそれだけで十分である。
「……僕はそういうものとは多分、縁がないと思いますよ」
『何故そう思う?』
「僕は……」
ヴィゼは正直に口に出してよいものか迷った。
けれどこの黒竜を前に、ヴィゼは嘘を吐きたくないと思ってしまう。
本当こそが、彼女を傷つけるものであるかもしれないけれど。
結局のところ、だからヴィゼは誤魔化すような言葉も吐くのだけれど。
「僕は、失ったものを取り戻すつもりでいます。そのためには禁忌さえ犯すことを厭いません。そんな僕が、いつか誰かを愛せても、きっとその手を取ることはできない」
ヴィゼには大切なものを取り戻せる機会がまだある。
彼はそれを後ろめたく思ったが、女は気にした様子もなく彼の顔を覗き込んだ。
『それも含めて、相手が少年を受け入れてくれるとしても?』
「はい」
『では、取り戻したいそのものとはどうだ? それは、少年にとってとても大切な相手――なのだろう?』
「――え、」
そんなことは全く考えたことがなかった。
ヴィゼは不意を突かれて、相手を見つめる。
「いえ……、その、性別も、知らないくらいで……、そんなこと、」
性別どころか年齢だって知らないし、きちんとした言葉さえ、実際には交わしたことがないのだ。
女は呆れたようだった。
『性別も知らないのか。だが、それでも大切というならば、性別など関係なく最上というならば……それこそが至上の愛、というものなのかもしれないな』
愛、という言葉にヴィゼは思わず呻いた。
どうにも恥ずかしく居たたまれない。
けれど否定できない自分がいた。
『ふふ、良いことを聞かせてもらった』
赤面するヴィゼに、女は満足げに笑う。
『だが少年、忠告しておこう。その一途さは、諸刃の剣だ。わたしが言うのもなんだが――いや、わたしが言うからこそ説得力は増すのだろうが――、強すぎる想いは、わたしの二の舞になる危険を孕む。だから絶対に取り戻して、その後は決して手放してはいけない』
真剣な眼差しを向けられ、ヴィゼは唇を引き結んで頷いた。
そうなってしまう可能性をヴィゼ自身全く考えなかったということはないので、改めて肝に銘じる。
『こうなってしまっては、愛しい者の魂と同じ場所へ還ることもできないからな……』
女は切なく笑った。
ヴィゼはまた、かける言葉を見つけられない。
『だから、少年……わたしは感謝しているよ。こんな化物に成り果ててしまったわたしを救いに来てくれて、ありがとう。全部が全部、憎しみだけならば良かったのに……、そうではないのだからな。正直なところ、つらかった』
「どうにも、ならなかったのですか。あなたは……竜だ。とても理性的で、現状も把握している。何らかの手段で……」
『わたしは今のわたしのほんの一部分にすぎない。今のわたしの大半は怒りと憎悪でできていて、それに太刀打ちするにはわたしは小さすぎるのだ』
告げる女の横顔は、疲れ切っているようにヴィゼには見えた。
『……けれどわたしがいなくなれば、おそらく怒りも憎悪も消える。それらはわたしが愛しいと思う気持ちの延長線上にあるものだから。わたしこそが憎悪の核なんだ。だからわたしを消そうとしたんだが、こうなってしまった業というものか、もう一度死ぬなどということはできなかった。……できなかったのだよ、少年』
「……すみません、」
『謝るな。……謝るのは、わたしの方だろう』
悲しげな瞳が、ヴィゼを見下ろしていた。
『今の宿主を、少年の友人を、苦しめているのはわたしだ。その周囲を、きみを含めて、わたしという存在が傷つけている』
「でもそれは――“呪い”になってしまったことは、あなたの望んだことではない」
『そうだな……積極的にそう望んだわけではない。だが、死んで尚復讐できることを……、本望と、思わないわけでもない。――軽蔑するか? 少年』
「いいえ」
ヴィゼはそれに、即答できる。
きっぱりとヴィゼが首を振るので、女は苦笑した。
『きみは全く、妙な少年だな。わたしの本当の姿が見えているだろうに狼狽えた様子も見せない。人間との恋仲を打ち明けても平然としている。決して恐れがないわけではなさそうだが……、わたしを嫌悪しないのだな。それこそきみは、わたしを憎んで当然なのに』
憎しみはあったし、今もある。
けれどヴィゼはもう、この相手のことは憎めない。
今の彼が憎むのは、“呪い”という世界のシステムそのものかもしれなかった。
もしくは、彼女を苦しめた元凶、彼女の想い人を殺したその相手かもしれなかった。
「あなたは……僕の大切なものに似ています。嫌悪することも、憎むことも、僕にはできない」
ヴィゼが追い求めているのが黒竜だとは、言えなかった。
“呪い”であることに対し罪悪感を持っている彼女を、ますます苦しめる結果になることは明白だ。
女の黒瞳が、そんなヴィゼを見透かすように見つめてくる。
心を読まれたのではないかと思ってしまうほどの深淵が、ふと和らいで、ヴィゼは心臓が跳ねたのを自覚した。
『それは光栄だな。……それならばもう一つ、忠告しておこう。きみは殺されてはいけない。できれば寿命で死ぬのがいいな、その相手より後にだ』
「え、」
なかなか無茶な注文である。
『きみの言う通り、わたしときみの想い人が似ているのならば……、その子もわたしと同じになるかもしれない。だからきみは、自分のことを大事にしなければいけない。その子よりも自分の身を優先するくらいでちょうどいいかもしれないな。きみはどうも、自分を疎かにするタイプと見えるが、それはこれから慎むべきだ』
「気を、つけ、ます……」
『はは、難しそうだな、少年』
そして女は、楽しそうに笑った。
最後に、笑顔を見せた。
『きみときみの大切なものの前途が明るいように祈ろう。わたしの祈りなど、それこそ呪いになりそうだから、やめておいた方がいいかもしれないが』
「いえ……その、ありがとうございます」
黒竜の祈りならば御利益がありそうである、とヴィゼは彼女の厚意を受け取った。
『礼を言うのは、わたしの方だな。本当にありがとう、少年。最後に悪くない時間を過ごせて良かった。長く引き留めてしまったが、そろそろ君の方は限界だろう』
女は何かを量るように、ヴィゼを見つめていた。
『わたしの名を呼んでくれ』
殺してくれ、と女はヴィゼに頼んだ。
それが仲間のためであるのに、それが目的でヴィゼはここにいるというのに、胸が軋む。
ヴィゼはこれから、この黒竜を殺さなければならないのだ。
聞かなければならないと耳をすませながら、言わないでくれとヴィゼは願ってしまった。
『わたしの名は――』
そんなヴィゼの思いも空しく、灰色の空間にその名が響く。
『ノーチェウィスク』
そう、彼女は名乗った。




