第七十九話:初撃、竜騎士団
夜明け。
東の空が鉛色から冷たい鋼の色へと変わり始めた頃、小田原城の西に広がる平原は、黒い海に沈んでいた。
かつて鬱蒼とした森であったその場所は、北条家が開戦に備えて切り拓いた人工の荒野と化していたが、今やその地表は見えない。地平線の彼方までを、三十万の帝国兵が、蟻の群れのように埋め尽くしていたからだ。
ゴゴゴゴゴ……。
大地が、腹の底から低く呻いている。それは何十万という軍靴と、攻城兵器の車輪が大地を軋ませる、死の胎動であった。
林立する無数の槍の穂先が、昇り始めたばかりの太陽の光を反射し、冷酷な星々のように瞬く。風に乗って漂ってくるのは、鉄錆と革の油、そして膨大な数の人間が発する熱気と殺意の臭い。
大手門の真上、急造された本陣の櫓。
若き総大将代理、北条氏政は、手すりを握る指が白くなるほど力を込め、眼下の絶望的な光景を見下ろしていた。
三十万。数字で聞くのと、実際に目にするのとでは、受ける圧力が次元を異にする。それは軍隊というより、一つの巨大な自然災害のようだった。
「……来たか」
隣で床几に腰を下ろした総大将・北条氏康が、独り言のように呟いた。その声に恐怖の色はない。あるのは、長年待ちわびた獲物を前にした、老練な狩人の静かな高揚のみ。
氏康は、視線だけを息子に向けた。
「氏政。息が浅いぞ」
「……はっ、申し訳ございませぬ」
「構わぬ。その緊張を、指揮の鋭さに変えよ。敵の動き、一挙手一投足を見逃すな」
やがて、帝国軍の進軍が波が引くように止まった。
弓矢も鉄砲も、そして小田原城の大筒さえも届かぬ、絶妙な距離。
軍勢の中央が割れ、その奥から豪奢なローブを纏った数百人の一団が進み出てきた。帝国宮廷魔術師団。大陸最強の火力を誇る、生ける砲台たちだ。
「……来るぞ」
城壁の一角で、ドワーフ王ブロックが愛用の戦槌を担ぎ直し、ニヤリと笑った。
「人間の花火大会か。我らの仕事の前に、まずはあやつらの出番じゃな」
魔術師団が一斉に杖を掲げた。
数百人の詠唱が重なり、不気味な和音となって大気を震わせる。空の色が変わった。澄んだ朝の空気が、ドス黒いマナの渦に侵食され、紫色に歪んでいく。
肌を刺すような静電気。大気が悲鳴を上げる。
やがて、その暗雲の裂け目から、破壊の光が生まれた。
城壁をも溶解させる灼熱の火球、岩盤を貫く氷の槍、轟音と共に落ちる紫電の束。数百の上級攻撃魔法が、回避不能な「死の雨」となって、小田原城へと降り注いだ。
ヒュウウウウウッ――!
空が裂けるような風切り音。それは人の身では抗いようのない、まさしく天災そのものであった。
「――全機、起動ッ!」
氏政の号令が、轟音を切り裂いて響き渡った。
その声に呼応し、城壁に等間隔で配置された数十基の異様な装置――【対魔法障壁発生装置】が唸りを上げる。
ゴウン……ゴウン……!
ドワーフの鍛造技術による強靭な筐体、エルフの魔導理論による精緻な回路、そして日ノ本の職人が組み上げた制御機構。三つの叡智が融合した魔石機関が、爆発的なマナの奔流を生み出す。
装置の頂点にある水晶から、半透明の光の膜がシャボンのように広がり、互いに結合し、小田原城の上空を覆う巨大な光のドームを形成した。
次の瞬間。
死の雨が、光の障壁に激突した。
だが、誰もが予想した爆発音は響かなかった。
数百の魔法は、障壁に触れた瞬間、まるで熱した鉄板に落ちた雪のように、ジュッという音と共に溶け、光の膜の中へと吸い込まれていったのだ。
破壊のエネルギーは、障壁の表面を美しいオーロラの波紋となって駆け巡り、やがて何事もなかったかのように大気中へと霧散した。
静寂。
理解不能な現象を前に、帝国の魔術師たちは詠唱を忘れ、杖を取り落とす者さえいた。
後方で戦況を見守っていた枢機卿ロデリクの顔が驚愕に歪んだ。
(……馬鹿な。魔法を、喰らっただと? あれが、あの異端どもが持つ未知の『理』か……!)
「怯むな! 撃ち続けろ!」
魔術師団長の甲高い悲鳴のような指示が飛ぶ。
「第二陣、火系統に絞れ! 飽和攻撃だ! 奴らの小細工ごとき、神の炎で焼き尽くせ!」
即座に戦術が切り替わる。今度は数百の杖から放たれた炎が空中で融合し、城郭をも飲み込む巨大な火の鳥となって、障壁の一点へと殺到した。
ドオオオオオオッ!
今度は確かな衝撃があった。障壁全体が赤熱し、城壁の下で装置を管理するドワーフたちが悲鳴を上げる。
「炉の温度上昇! 冷却水、回せ! 魔石が持たんぞ!」
「耐えろ! この壁は、我らの誇りじゃ!」
蒸気が噴き出し、装置が悲鳴を上げる。だが、障壁は割れない。無数の亀裂が走っては、瞬時に修復されていく。
「第三陣! 物理攻撃に切り替えよ!」
休む間もなく、大地から隆起した巨大な岩塊が、投石機のように障壁へ叩きつけられる。
ゴッ、ゴッ、ゴッ、と鈍い音が城を揺らすが、光のドームは揺るがない。
その絶対的な守りの前に、帝国軍の士気が目に見えて揺らぎ始めた。神の雷すら通じない悪魔の城。そんな恐怖が伝染していく。
「……忌々しい」
ロデリクは唇を噛み切り、吐き捨てるように命じた。
「魔法が効かぬというのなら、物量で潰すまでよ。空からその喉笛を食い破ってくれるわ。――竜騎士団を出せ」
その命令と共に、帝国軍の後方から、悪夢のような影が舞い上がった。
ワイバーン。
翼長十メートルを超える凶暴な飛竜。その背には、漆黒のプレートメイルに身を包み、長大なランスを構えた帝国最強の騎士たちが跨っている。
帝国の空の覇者、竜騎士団。その数、三百。
彼らは障壁の及ばぬ高高度へと上昇し、そこから急降下して城の中枢を直接叩く構えだ。
「……来たな」
氏政は、空を覆う黒い影を見上げ、冷ややかな目で呟いた。
「空からの攻撃。想定通りだ」
彼は、敵が障壁の死角に入り込み、降下体制に入るその瞬間を、冷徹に計っていた。
竜騎士たちが勝利を確信し、ランスを構えて急降下を開始する。
その速度が乗り、もはや回避不能となった、その刹那。
「――今だ! 放てぇッ!!」
氏政の咆哮が、戦場に響き渡る。
次の瞬間、世界から音が消えた。
いや、あまりに巨大な一つの音――城壁に並んだ千挺の火縄銃と、数千の強弓が一斉に放たれた轟音が、他の全ての音を塗り潰したのだ。
ドドドドドドドドドォォォォンッ!!!!
城壁を分厚い白煙が覆い尽くし、無数の鉛玉と矢の雨が、逆巻く嵐となって空を舞う竜騎士団へと襲いかかった。
それは、虐殺だった。
神の加護と竜の鱗を信じ、分厚い鋼鉄の鎧に身を包んだ騎士たちが、紙屑のように翼を引き裂かれ、空中で爆ぜる。
鍛え上げられた小田原鋼の弾丸は、竜の鱗を容易く貫通し、その背の騎士ごと肉体を粉砕した。
悲鳴を上げる間もなく、次々と火だるまになって墜落していく竜たち。
一斉射撃は一度ではない。
訓練された鉄砲隊が、三段撃ちの陣形で間断なく死の弾丸を浴びせ続ける。
「次弾装填! 撃て! 撃て!」
硝煙の匂いが立ち込め、視界が白く染まる中、兵士たちは機械のように正確に、そして無慈悲に引き金を引き続けた。
数分後。
煙が風に流された時、城壁の前に広がっていたのは、地獄絵図であった。
無数の竜の死骸と、ひしゃげた鎧の残骸が大地を埋め尽くし、生き残った僅かな竜騎士たちが、恐怖にかられて我先にと逃げ惑っている。
帝国最強を誇った空の軍団は、城壁に指一本触れることさえできずに、物理的に消滅したのだ。
戦場に、再び静寂が戻る。だがそれは、開戦前の張り詰めたものではない。
圧倒的な勝利を前にした、呆然とした静寂。
そして、その静寂を破ったのは、ドワーフ王ブロックの、腹の底からの哄笑だった。
「ガハハハハ! 見たか、人間ども! これが我らの『鉄』と『火』の力よ!」
それを合図に、小田原城から、地を揺るがすような勝鬨が上がった。
「エイ、エイ、オー!!」
氏政は、震える拳を握りしめ、父・氏康へと振り返った。
氏康は、組んだ腕をほどき、息子に向かって、静かに、しかし力強く頷いてみせた。
初戦は勝利。
だが、氏政の目に慢心はない。彼は再び前を向き、未だ地平線を埋め尽くす三十万の敵本隊を睨みつけた。
本当の地獄は、これからだ。竜と魔法を失った帝国が、なりふり構わぬ「数」の暴力を振るい始める。
その予感を孕みながら、一日目の戦いは、北条軍の完全勝利で幕を閉じた。
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