第七十六話:崩壊の序曲
『創世神話の原典』が示した真実は、あまりに残酷で、あまりに理不尽だった。
五人の仲間たちが言葉を失い、呆然と立ち尽くしたその瞬間、世界が鳴いた。
ズズズ……ゴゴゴゴゴ……。
地底の底から響く重低音は、この聖域ごと侵入者を葬り去ろうとする、世界の意思そのもののようだった。
「な、なんだ!?」
ドルグリムが叫ぶ。
天井の巨大な星図が明滅し、軌道を外れた星々が物理的な質量を伴って床へと降り注ぐ。水晶の祭壇に亀裂が走り、壁からは白い塵が舞い落ちる。崩壊は、唐突に、そして慈悲なく始まった。
「いかん!」
幻庵が顔面を蒼白にさせて叫んだ。
「この聖域は、我らに『真実』を伝え終えた! もはやその役目を終え、自らを閉ざそうとしておるのじゃ!」
その言葉を裏付けるように、彼らが先ほど下りてきた白亜の階段が、轟音と共に崩れ落ちた。退路は断たれた。いや、この図書館そのものが、彼らの巨大な墓標となろうとしていた。
「……面白い!」
思考すら凍りつく絶望的な状況で、最初に動いたのは北条綱成であった。
彼は自らを打ちのめそうとする絶望を、強引に怒りの闘志へと叩き変える。
「死んでたまるか! こんな石くれの墓の中で、黙って喰われてやるものか!」
彼は最も近くにいたリシアの腕を乱暴に掴み、強引に立たせた。その瞳には、狂気にも似た生への執着が宿っていた。
「行くぞ! 絶望している暇があるなら、足を動かせ!」
その怒号が、凍り付いていた者たちの魂に火を灯す。ここで果てれば、小田原で待つ主君に、民に、この危機を伝えることすらできない。
小太郎が崩れゆく天井を見上げ、瓦礫の隙間に見える僅かな空間から、最短の脱出経路を瞬時に弾き出した。
「上だ! 階段は使えぬ! 崩れる壁を足場に駆け上がる!」
脱出劇は、壮絶を極めた。
第六階層『静寂の間』。かつて音を禁じられた回廊は、今や図書館全体の崩落音で満たされ、その禁忌は破られていた。轟音に反応し、闇の底から無数の影の触手が狂ったように伸びてくる。
「わしの後ろを離れるな!」
ドルグリムが盾を構えて先頭に立つ。迫りくる触手を剛腕で叩き伏せ、強引に道を切り拓いていく。彼の盾が軋み、火花を散らすが、ドワーフの王たる矜持が、一歩も退くことを許さない。
「左方より三体! リシア殿、風の障壁を!」
小太郎が叫び、クナイを投じる。リシアが詠唱し、暴風が瓦礫を吹き飛ばす。
第五階層『禁断の書架』。砕け散った書見台から解放された魔力が、悪意の嵐となって吹き荒れていた。空間そのものが歪み、重力が狂う。
「皆様、気をしっかり!」
リシアが必死に防御の魔法陣を展開する。だが、禁忌の魔力の奔流の前には、ガラスのように脆く、すぐにひび割れる。
「ちいっ、抜けんか!」
綱成が黄金の闘気で魔力の嵐を強引に切り裂き、わずかな風穴を開ける。その穴を、五つの影が弾丸のように駆け抜けた。
第四階層『魔法の工房』。ここが最大の難所であった。
砕けた大釜から溢れ出したインクが、床一面を毒々しい沼地へと変えている。制御を失った紙の獣たちが、刃のような翼を広げ、吹雪のように一行の視界を奪う。
「飛べぬぞ! 足場がない!」
ドルグリムが吼える。沼に落ちれば、即座にインクの魔物に飲み込まれる。
その時、幻庵が叫んだ。
「本じゃ! 宙を舞う本を足場にせよ!」
魔力で暴走し、宙を飛び交う分厚い魔導書。それを飛び石のように渡るというのか。正気の沙汰ではない。だが、迷えば死だ。
「ええい、ままよ!」
綱成が先陣を切る。空中の本を蹴り、襲い来る紙の鳥を『獅子奮迅』で斬り伏せながら跳躍する。
「続け!」
小太郎が幻庵を背負い、影のように跳ぶ。リシアが風の魔法でドルグリムの巨体を押し上げる。
息は切れ、肺が焼けるように熱い。全身に切り傷を負い、インクにまみれながらも、彼らは光を目指した。
数時間後。
一行は、ついに地上へと続く最後の扉から、雪原へと転がり出た。
彼らが脱出した直後、背後で山が鳴いた。巨大な黒曜石の門は、地響きと共に完全に崩れ落ち、永遠にその口を閉ざした。
極北の、凍てつく風が、彼らの汗と土埃とインクにまみれた体を、容赦なく打ち据える。
彼らは、生還したのだ。
だが、その表情に安堵の色はなかった。
自らが持ち帰ってしまった、あまりにも重い「真実」に、魂ごと押しつぶされそうになっていた。
◇
帰路は、往路とは全く様相が異なっていた。
一行の口数は極端に少ない。だが、その足取りには、行きにはなかった、ある種のおぞましい確信があった。
それは、もはや冒険ではない。報告と、そして次なる戦いへの覚悟を固めるための、静かなる行軍であった。
彼らが通りかかった、あの獣人の村は、さらに酷い有様となっていた。
「……これも、『大災害』の、兆候か」
幻庵が、低い声で呟く。
村の周辺には、新たに巨大な魔獣『氷爪熊』の死骸が、いくつも転がっていた。だが、その死に様は尋常ではなかった。
外敵と戦ったのではない。互いに喰らい合い、自らの爪で自らの喉を掻きむしったかのような、狂気の痕跡。大地を満たすマナが病み、濁り、そこに生きる者たちの理性さえも狂わせ始めているのだ。
「……見ろ」
小太郎が指さした先には、崩れた家屋の下で、子供を抱きかかえるようにして息絶えた母親の獣人の姿があった。だが、その母親の牙は、守るべき子供の首筋に深く突き刺さっていた。
愛さえも、本能さえも、この星の病の前では無力なのか。マナの汚染は、魂の根幹すら書き換えてしまうというのか。
「……狂っておる。飢えてもおらぬのに、ただ、殺すためだけに、殺し合っておるわ」
ドルグリムが吐き捨てるように言った。その拳は、血が滲むほど強く握りしめられている。
その夜。
一行は、ドワーフの国境近くの岩陰で、野営をしていた。
焚き火の爆ぜる音だけが、静寂を破る。空には、満天の星が輝いている。だが、その美しささえも、今の彼らの目には、どこか虚しく、そして残酷に映った。
あの星々もまた、この地上で繰り広げられる「収穫」を、ただ黙って見下ろしているのだろうか。
リシアは膝を抱え、震えていた。森の加護を信じていた彼女にとって、世界そのものが敵であるという事実は、信仰の崩壊に等しかった。ドルグリムもまた、愛用する戦槌の手入れを忘れ、ただ虚ろに炎を見つめている。
小太郎は闇を見つめたまま動かない。彼の「影」としての生き方さえ、この巨大な運命の前では無意味に思えた。
その重苦しい沈黙の中、綱成が、ぽつりと口を開いた。
彼は、腰の『獅子奮迅』の柄に手を置きながら、これまで抑え込んでいた疑問を、幻庵にぶつけた。
それは、この旅で彼が最も知りたかった、そして、最も知りたくなかった、問いであった。
「……幻庵殿。つまり、だ。我らが民は、この大地に喰われるために、ここにいると、そういうことか」
綱成の声は震えていた。
恐怖ではない。やり場のない怒りと、自身の剣が、あまりにも巨大すぎる敵には届かぬのではないかという、無力感。
「俺たちが守ろうとしてきた小田原も、築き上げた田畑も、民の笑顔も……全ては、ただ美味い餌として、肥え太らされていただけだと……そう言うのか」
その、あまりに直接的で、そして重い問い。
幻庵は、夜空を見上げたまま、答えた。その声は、夜の風のように静かであったが、老賢者の瞳には、星々の光を反射して、揺るぎない強い光が宿っていた。
「――今はな」
幻庵は視線を戻し、焚き火の向こうにいる仲間たちの顔を、一人ひとり見据えた。
「この星の理によれば、そうであろう。我らは種子であり、苗床であり、そして収穫物じゃ。農夫が麦を刈るように、この星は我らを刈り取るつもりであろう」
幻庵は、枯れ木を一本、火にくべた。火の粉が舞い上がり、闇を焦がす。
「だがな、綱成殿。麦には意志がないが、我らにはある」
「喰われるだけの定めに、甘んじる我らではない」
その言葉は、答えではなかった。
それは、一つの、誓いであった。
理不尽な運命に対する、たった五人だけの、しかし何よりも強固な、反逆の誓いであった。
「我らは北条。乱世を生き抜き、民のために泥を啜り、石を積んできた者たちぞ。神が、星が、運命が、我らを喰らわんと口を開くなら……その顎ごと、叩き割ってくれるまでよ」
幻庵の言葉に、リシアが顔を上げた。その瞳に、微かだが光が戻る。
ドルグリムがニヤリと笑い、戦槌を撫でた。「違いない。農夫の手を叩き折るなんざ、ドワーフの十八番よ」
小太郎が静かに頷く。「影もまた、光あってこそ。世界が闇に沈むなら、影すら存在できぬ」
そして綱成は、何も言わなかった。ただ、その言葉を己の魂に刻み付けるように、強く、拳を握りしめた。
彼の心に宿った冷たい虚無は、今、世界そのものを覆すための、静かな、そして熱い闘志へと、その姿を変えていた。
(やってやろう。世界の理不尽? 上等だ。俺の剣で、その『理』ごと、斬り伏せてやる)
一行は、再び立ち上がる。
夜明けは、まだ遠い。だが、彼らの心には、確かに、次なる戦いのための、反撃の狼煙が上がっていた。
小田原へ。
主君・氏康の待つ場所へ、この「絶望」という名の、最高の武器を持ち帰るために。
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