第七十四話:叡智の番人
第六階層『静寂の間』を抜け、一行は、ついに最後の階段を下りていた。
これまでの階層とは異なり、その階段は、純白の大理石で作られ、壁には、星々の運行を示す、壮麗なレリーフが施されている。
空気はどこまでも澄み渡り、まるで神域へと足を踏み入れていくかのようであった。
やがて、一行は、最後の扉の前にたどり着く。
扉の上に刻まれた文字を、幻庵が、畏敬の念を込めて読み解いた。
「……第七階層、『叡智の聖域』。……どうやら、ここが、終着点のようじゃな」
扉の先に広がっていたのは、これまでのどの階層とも、全く異質な空間であった。
そこは、継ぎ目一つない、純白の素材で作られた、巨大な円形の聖堂。ドーム状の天井には、まるで本物の夜空のように、星々がゆっくりと運行している。
部屋の中央には、水晶でできた祭壇が、宙に浮かんでいる。そして、その上に、一冊だけ、眩いばかりの光を放つ、閉ざされた書物が、静かに置かれていた。
あれが、目的の『原典』に違いない。
だが、その祭壇の前には、一体の守護者が静かに佇んでいた。
それは、これまでに遭遇した、どのゴーレムとも違っていた。
人の形をしているが、その体は、磨き上げられた黒曜石で作られている。そして、その背からは、四本の、人間よりも遥かに長くしなやかな腕が生えていた。
下の二本の腕は、胸の前で瞑想するように組まれ、右上の腕は、力なく垂れ下がっている。
そして、左上の一本だけが、まるで聖杯を捧げるかのように、目の前に掲げられていた。
その繊細な指先が開いていたのは、一冊の、分厚い魔導書。その、何も書かれていないはずのページの上を、無数の青白いルーン文字が絶えず流れ続けていた。
《アルカナ・ゴーレム》。
この叡智の聖域を守る、最強の番人であった。
◇
「……わしが行く」
綱成が、静かに一歩前に出た。
先の階層で、彼は、静と動の融合という、新たな境地を垣間見た。今の彼ならば、いかなる敵とも渡り合えるという絶対の自信があった。
彼は、愛刀『獅子奮迅』を抜き放つと床を蹴った。
【剣聖】の力が、解放される。彼の動きは、もはや、人の目では追えない。黄金の閃光と化した彼が、ゴーレムの懐へと、一直線に飛び込み、必殺の一撃を放つ。
だが。
ゴーレムは、瞑想するように組まれていた下腕の一本が、攻撃が放たれる、その一瞬前、まるで未来を読んでいたかのように動き、綱成の剣の軌道上に、完璧な角度で、黒曜石の掌を差し入れた。
キィン、という甲高い音と共に、綱成の渾身の一撃が、こともなげに受け止められる。
「なっ……!?」
その、体勢が崩れた一瞬の隙。
もう一本の下腕が、まるで、赤子の手をひねるかのように、綱成の鎧の隙間を捉え、的確に、その腹部へと叩き込まれた。
「ぐ……はっ……!?」
綱成の巨体が、まるで鞠のように、数間も吹き飛ばされ、聖堂の壁に激しく叩きつけられた。その間も、ゴーレムの本を持つ腕は微動だにしていない。
「綱成殿!」
仲間たちが、驚愕の声を上げる。
「散開しろ! 全方位から、同時に仕掛ける!」
小太郎の鋭い号令一下、三人が、同時に動いた。
小太郎は、影の中から、ゴーレムの死角であるはずの背後を突く。
リシアは、その動きを封じるべく、風の精霊に命じ、拘束の魔法を詠唱する。
ドルグリムは、正面から、その注意を引くべく、咆哮と共に、戦槌を振りかぶる。
だが、完璧であったはずの連携攻撃も、アルカナ・ゴーレムの前には、子供の戯れに等しかった。
ゴーレムは、背後の小太郎に、振り返りもせず、ただ、垂れ下がっていた右上の腕を後ろに回す。その動きは、小太郎が放つ刃の軌道を、完璧に予測し塞いでいた。
同時に、瞑想していた下腕の一本が、リシアが魔法を編み上げる、その僅かな時間の隙を突き、床に指先で、一つのルーンを描く。それは、リシアの風の魔法を、完全に無効化する対抗呪文であった。
そして、正面から迫るドルグリムの戦槌を、残った最後の下腕で、いとも容易く受け止めると、その力を利用して、逆にドルグリム自身の体勢を崩させた。
一人、また一人と、仲間たちが、熟練の強者たちが、素人の攻撃をいなすかのように無力化されていく。
その、あまりに一方的な光景に、幻庵は戦慄しながらもその正体を見抜こうと、必死に、ゴーレムが開く本のページを、そして、その体表を流れるルーン文字を観察していた。
そして、彼は、気づいてしまった。絶望的な真実に。
「……いかん! 皆、手を止めよ!」
幻庵の、悲鳴に近い声が、聖堂に響く。
「あのゴーレム…あの本を通じて、この図書館の、全ての知識と繋がっておる! 我らの動き、技、魔法、血の巡り、筋肉の収縮、その全てを、過去の膨大な記録から読み解き、完璧に、『予測』しておるのじゃ!」
「我らが、動こうとした、その時には、既に対応されている! あれには、我らの知る全ての戦術が通用せん!」
絶望。
一行の心に、冷たく重い感情が根を下ろした。
戦う前から、全ての動きを読まれている。これでは、戦にすらならない。
「……くそっ」
綱成が、血を吐き捨て、再び立ち上がる。
その瞳には、敵への憎悪ではなく自らの無力さへの深い絶望の色が浮かんでいた。
「ならば、どうする! このまま、ここで、朽ち果てるのを待つとでもいうのか!」
「……道は、一つだけじゃ」
幻庵が、絞り出すように言った。
「奴が知るは、『書かれたる知識』のみ。ならば、我らは、書かれておらぬ、理屈なき一撃を、放つしかない。……全員の力を、ただ、一点に。そして……」
もはや、それしか道は残されていなかった。
「だが、幻庵殿。言うは易し行うは難し。どうにもならんぞ」
綱成が、にやりと笑いながら皆を見回す。
五人は、最後の力を振り絞り散開する。
綱成が正面から、黄金の闘気を最大まで高める。
ドルグリムが、その側面で、大地を揺るがすほどの雄叫びを上げる。
小太郎とリシアが、背後で、それぞれの最大の一撃を放つべく気を練る。
四人が、同時に、最大火力の攻撃を放ち、ゴーレムの予測能力を、飽和させる。そして、生まれた僅かな一瞬の隙。
全ての防御が手薄になったであろう、ただ一点を、幻庵自らの最後の奥の手で貫く。
彼らが導き出した、唯一の、そして最後の作戦であった。
「――参るぞッ!!」
綱成の咆哮を合図に、四人の英雄が同時に動いた。
黄金の剣閃、大地を砕く戦槌、影からの無数の刃、そして、森の怒りを具現化したかのような、風の嵐。
四つの、異なる理が、一つの奔流となって、アルカナ・ゴーレムへと、殺到した。
だが、ゴーレムは動かなかった。
その本を持つ腕は微動だにしない。
ただ、残った三本の腕が陽炎のように、僅かに揺らめいただけ。
次の瞬間。
三本の腕が、それぞれ、綱成の剣を、ドルグリムの槌を、そして小太郎とリシアの複合攻撃を、まるで鏡合わせであるかのように、完璧な動きで受け止めいなした。
「なっ……!?」
「そんな、馬鹿な……!」
最後の希望があっけなく砕け散る。
そして、三本の腕が、再び、元の位置へと戻った、その瞬間。
黒曜石の腕が幻影のように伸び、綱成の、ドルグリムの、小太郎の、そして、リシアの体を、的確に無慈悲に打ち据えた。
静寂。
聖堂の冷たい白い床の上に、五人の仲間たちが倒れていた。
誰もが、意識はあるが、身体は鉛のように重く、指一本さえ動かすことさえできない。
完膚なきまでの敗北であった。
アルカナ・ゴーレムは、傷一つない黒曜石の体を、静かに彼らの前に佇ませている。その顔には、何の感情も浮かんでいない。
ただ、叡智の聖域を汚す矮小な侵入者を排除した。
それだけ。
祭壇に置かれた、光り輝く書物への道は、完全に、閉ざされた。
一行の心に、抗うことさえ許されぬ、絶対的な絶望が重い影を落としていた。
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