第七十三話:無音の死線
第五階層『禁断の書架』で、一行は自らの魂と向き合った。その試練は彼らの絆を、もはや何者にも断ち切れぬほど強固なものへと変えていた。
彼らは、互いへの揺るぎない信頼を胸に、次の階層へと続く階段を、静かに下りていった。
やがてたどり着いた第六の階層。
そこは、これまでのどの階層とも異質であった。
広大ながらんどうの空間。天井も、壁も、床さえも、全ての光を吸い込むような、漆黒の素材でできている。
そして空間の中央を一本だけ細い石の道が、入り口から、遥か対岸に見える次の扉までまっすぐに続いていた。
道の両脇は、底の見えない、完全な闇。まるで星さえもない、夜の海の上にかかる、一本橋のようであった。
「……第六階層、『静寂の間』」
入り口に刻まれた文字を読み解いた幻庵の声が、ひどくか細く聞こえた。この空間が異常なまでに、音を吸い込んでいるのだ。
「皆、動くな」
一行を制したのは、小太郎であった。彼の声は、囁き声に近かったが、その場の全員の耳に鋭く突き刺さる。
彼は、腰の袋から、小さな石ころを一つ取り出すと、足元の石の道へと、ことり、と落とした。
音は、しなかった。
石は、まるで分厚い綿の上にでも落ちたかのように、完全に無音で道の上を転がった。
「……なるほどな」
小太郎が、仮面の下で呟く。
「この部屋は、『音』そのものを、禁じている。足音、衣擦れの音、呼吸の音さえも、恐らくは許されぬ」
その言葉にドルグリムが、自らの重厚な鋼の鎧と、巨大な戦槌を見て顔をしかめた。
「わしが、先導する。部屋に入ってからは、音を立ててはいかん」
小太郎は、一行に風魔に伝わる音を殺す歩法、「抜き足」の基本を簡潔に伝えた。
「呼吸は、三度吸って、一度、長く吐く。体重は、つま先から、かかとへ。決して音を立てるな」
一行は、固唾をのんで頷いた。
小太郎を先頭に、リシア、幻庵、ドルグリム、そして、最後尾を綱成が固める形で、一行は、無音の死線へと第一歩を踏み出した。
それは、拷問に近い極限の集中力を要する行軍であった。
小太郎は、まるで、そこに存在しないかのように、音もなく、闇に溶け込んでいく。エルフであるリシアも、その軽量なしなやかな体で巧みに後に続いた。
問題は、幻庵と、ドルグリム、綱成であった。
幻庵は、その老いた体に鞭打ち、必死に呼吸を整える。ドルグリムは、鎧が擦れる、僅かな音さえも殺そうと、全身の筋肉を硬直させていた。
そして、綱成。
彼は、これまでの人生で、これほどの屈辱と、無力感を味わったことはなかった。
彼にとって歩くとは、大地を踏みしめ自らの存在を、世界に示す行為であった。だが、ここではその全てが禁じられている。呼吸を殺し、気配を殺し、まるで泥棒のようにこそこそと進まねばならない。
(くそっ……! まるで、性に合わん……!)
その、苛立ち。
それが、彼の集中力を、僅かに乱した。
彼が、次の一歩を踏み出した、その瞬間。
カツン、と。
彼の鋼の足甲が石の道と触れ、あまりにも場違いな、硬い音を立ててしまった。
静寂。
次の瞬間、道の両脇の闇から、無数の黒い影の触手が、何の予兆もなく凄まじい速度で、音の発生源である綱成へと殺到した。
「綱成殿!」
リシアが、声にならない悲鳴を上げる。
「――面白いッ!」
綱成は、咄嗟に、愛刀『獅子奮迅』を抜き放ち、迫りくる触手を数本斬り払った。
だが、触手は斬られても、すぐに、闇の中から再生し、その数をさらに増やしていく。
「……これか。この階層の、番人か」
綱成が、不敵に笑おうとした、その時。
彼の肩を、強い力で掴む者があった。
小太郎であった。
「――綱成殿。ここでは、戦うな」
その声は、命令ではなかった。だが、その底には、有無を言わせぬ、絶対的な確信があった。
「貴殿の武は、『動』の武。なれど、ここは、『静』の戦場。ここでは、貴殿の理は、通用せぬ」
小太郎は、綱成を、強引に、一行の元へと引き戻すと、自らが綱成の前に立った。
「……わしに、続け」
道を戻り始めると、触手は動くのをやめた。
◇
一行は、一度、入り口まで戻った。
綱成は、自らの過ちで仲間を危険に晒したことに、ただ唇を噛み締めることしかできない。
「……すまぬ」
か細い謝罪の言葉に、小太郎は、静かに首を横に振った。
「綱成殿。貴殿は、己の存在を抑え込もうとしておる。それは、間違いだ。抑えようとすればするほど、力は、外に漏れ出すもの」
「ならば、どうしろというのだ」
「……無、となれ」
小太郎は、静かに言った。
「己の足音を考えるな。この道の静寂を考えよ。己の呼吸を数えるな。この空間の淀みなき空気を吸い込め。そして、『北条綱成』を消すのだ。……ただ、渡り切ることだけがここにある」
それは、風魔の頭領が、生涯をかけて練り上げた、精神制御の極致。武の理とは、全く異なる、「静の武」の理であった。
綱成は、ただ目を見開いていた。
二度目の挑戦。
今度は、小太郎が、綱成のすぐ前を歩く。
「わしの背を見よ。足の運びを、真似よ。呼吸を、合わせよ」
音にならぬ、囁き声。
綱成は、言われた通り目の前の、まるで、そこにいないかのような影の背中、その一点だけに、己の全ての意識を集中させた。
一歩、また一歩。
不思議なことに、自らの体の重さが、消えていくようであった。
彼は、もはや自分自身ではなかった。ただ、小太郎という、絶対的な静寂の、影の一部となっていた。
彼の心から、苛立ちが消え、澄み切った静かな水面のような境地が訪れる。
そして、一行は、ついに、誰一人音を立てることなく、長い無音の死線を、渡り切った。
綱成は、対岸の安全な場所で、初めて、自分が呼吸をすることさえ、忘れていたことに気づいた。
彼は、振り返り、今、渡ってきた、あの絶望的な一本道と、そして、その前を黙って歩き続けた小太郎の背中を見つめた。
力だけではない。
静寂の中にこそ、絶対的な強さがある。
彼は、その事実をこの旅で魂で理解した。
彼は、小太郎に、何も言わなかった。
ただ、その影の背中に向かって、武人としての、最大の敬意を込めて、深く一礼した。
二人の間に、言葉はなくとも、絶対的な信頼が生まれた瞬間であった。
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