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第七十話:言の葉の迷宮

 

 第二階層『歴史の書庫』がもたらした精神的な疲労は、一行の肩に重くのしかかっていた。


 仲間を襲った「偽りの栄光」の罠は、この図書館が決して物理的な力だけで乗り越えられる場所ではないことを、改めて全員に痛感させていた。


 一行は、重い足取りで、次の階層へと続く螺旋階段を下りていった。

 やがてたどり着いた第三の階層。その入り口に刻まれた古代文字を幻庵が読み解く。


「……第三階層、『文学の迷宮』。どうやら、今度は、素直な一本道ではなさそうですな」


 その言葉通り、彼らの眼前に広がっていたのは、一つの広間ではなかった。どこまでも続く高い書架そのものでできた巨大な迷宮。   

 

 天井は遥か高く闇に溶け、無数の道がまるで蛇のように複雑に絡み合っている。空間全体が、まるで意思を持っているかのように、絶えず低い囁き声で満たされていた。


 それは何万、何十万という異なる言語で語られる、詩や物語の断片。愛を語る甘い囁き、英雄を讃える力強い朗読、そして悲劇を嘆く、か細い嗚咽。それらが混じり合い、聞く者の精神を確実に掻き乱していく。


「……厄介な場所だな」

 綱成が、静かに呟いた。だがその声に苛立ちの色はない。むしろ、新たな難敵を前にした、武人の静かな闘気が満ちていた。


「道が分かれている。まずはこの右の道から進んでみよう」

 一行は、綱成を先頭に、迷宮の奥へと、その第一歩を踏み出した。


 ◇


 迷宮は、たちの悪い悪戯のように、彼らを翻弄した。


 ドルグリムが、ドワーフの記憶力と方向感覚で地図を描こうとするが、一行が通り過ぎたはずの壁が、いつの間にか形を変え、道そのものが消え失せてしまう。 


「いかん! 行き止まりじゃ!」


「さっき、ここを通ったはずだぞ!」

 物理的な罠はない。だが、永遠に続くかのような閉塞感が、一行の精神をじわじわと削り取っていく。


 数時間が過ぎた頃、ついにドルグリムが堪忍袋の緒を切らした。 


「ええい、埒があかぬ! 小賢しい魔法ばかり使いおって! 道がないなら、この壁ごと槌で叩き壊してくれるわ!」

 ドルグリムが、自慢の戦槌を振り上げた、その瞬間。


 彼の焦燥に呼応するかのように、迷宮が、その本性を現した。

 それまで、ただの囁き声であったものが、明確な「嘲笑」に変わる。壁の動きは、より速く、より複雑になり、一行を分断しようとその間隔を狭めてきたのだ。 


「ドルグリムさん、いけません!」

 リシアが、悲鳴に近い声を上げる。

 その時、これまで沈黙を守っていた小太郎が動いた。


 彼は、ドルグリムを制止する幻庵を無視し、無言で一つの鉄礫を壁に向かって放った。その投擲には一切の感情が込められていない。事実を確認するためだけの、冷徹な一投。


 鉄礫は、壁に当たって、からん、と乾いた音を立てて落ちるだけ。迷宮は反応しない。


「……なるほどな」

 小太郎が、仮面の下で呟いた。


「この壁は、力には反応せぬ。我らの『心』そのものに、反応しておるようだ」

 リシアもはっとしたように頷く。


「……はい! 小太郎殿の言う通りです! この迷宮…わたくしたちの感情に、反応しています! 苛立ちや、焦りは、禁物です!」

 ドルグリムは慌てて槌を下ろすが、一度生まれた動揺は伝染する。


 リシア自身も恐怖から呼吸を乱し、幻庵でさえ時間の浪費への焦りから眉間に皺を刻んでいた。

 一行の乱れた精神が、迷宮をさらに悪意に満ちたものへと変貌させていく。


 床が抜け、眼下に底なしの闇が口を開ける。天井からは、書物でできた鋭い棘が無数に突き出してくる。

 それは、一行の焦りと恐怖が具現化した、悪夢の光景であった。


 ◇


「……これか。これこそが、この階層の『理』か」

 その絶望的な状況の中心で、幻庵だけが、かろうじて冷静さを保っていた。


 彼は、周囲の脅威には目もくれず、ただ耳に響く無数の囁き声に、その全ての意識を集中させていた。


「皆、落ち着かれよ! この囁きは、ただの雑音ではない! 一つの、壮大な叙事詩の、断片じゃ!」

 幻庵は、気づいたのだ。


 囁き声は、混沌としているようで、その一つ一つに明確なリズムがあることに。そして、迷宮の壁の動きが、その詩のリズムと完全に同調していることに。


「この迷宮は、我らの精神が、この詩の調べと和することを求めておる! 怒りや、焦りといった、不協和音を奏でる限り、道は、決して開かれぬ!」


 幻庵は、その場にあぐらをかいた。

 自らが聞き取った、詩の断片を揺るぎない声で唱え始めた。


「――光は時を織り、闇は空間を紡ぎ、世界は生まれた……」

 それは、この世界の、創世神話の一節であった。 


「皆も、座られよ。そして、わしの声を聞くのではない。この迷宮全体に流れる、詩の『鼓動』に、自らの心の臓を、合わせるのじゃ」

 それは困難な要求であった。 


 ドルグリムは焦りを抑えようとするが、どうしても目前の危険に意識が向いてしまう。リシアも恐怖を振り払えない。


 その中で、小太郎だけが、最初から、そこにいないかのような静寂を保っていた。呼吸の音さえも、周囲の囁き声に溶け込ませる。それこそが、風魔の頭領が、生涯をかけて練り上げた精神制御の極致であった。


 彼の不動の精神が、まず仲間たちの心の乱れを鎮める最初の礎となる。


 そして、もう一人。これまでただ黙って目を閉じていた綱成が静かに口を開いた。


「……考えるな。ただ、感じろ」

 その声は、驚くほど穏やかで澄み切っていた。


「迷宮の動き、囁き声のリズム、そして己の呼吸。その全てが、一つの流れの中にある。無理に合わせようとするな。ただ、身を任せればよい。――剣と、同じだ」

【剣聖】として、万物の理と一体となった彼だからこそ、至ることのできた境地。その静かな言葉が、不思議な説得力を持って、仲間たちの心に染み渡っていく。


 綱成の、不動の精神が、まるで静かな湖面のように、仲間たちの心の波紋を、穏やかに鎮めていった。


 五人の呼吸が、一つになる。

 五人の心臓の鼓動が、創世の詩のリズムと、完全に同調する。

 その瞬間であった。


 悪意に満ちていた囁き声は、荘厳な一つの合唱へと姿を変えた。

 絶えず動き続けていた書架の壁が、ぴたり、とその動きを止める。


 そして、彼らの目の前に、一本の光り輝く真っ直ぐな道が、迷宮の遥か奥へと続いていた。


 一行は、もはや言葉を交わさなかった。

 互いの存在を、その精神の同調で感じながら、光の道を静かに歩んでいく。


 彼らは、この第三の試練を、個々の力ではなく、五人で一つの魂となることで、乗り越えたのだ。

 幻庵は、隣を歩く綱成の横顔に、畏敬の念を禁じ得なかった。 


(……見事だ、綱成殿。そなたは、もはや、ただの猛将ではない。我らの、心の乱れさえも鎮める、真の『柱』となられたか)

 光の道のその先に、次の階層へと続く下り階段が、その口を開けていた。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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